ツイッター(@wawa_ryuq)で、
今週(9/8~)は南山推しウィークと名付けて
南山にまつわるツイートをしています。
その中のツイートの一つから派生したのが
今回のネタ。
+
前々から触れていますが、
尚巴志とか阿麻和利みたいに、
もっと南山の皆さんに光(注目)が
あたってほしいなと思っている和々です。
なので、
今の「推し」は誰?
と聞かれたら、
他魯毎、守忠の兄弟をあげます。
他魯毎(たるみい)は尚巴志に倒された最後の南山王。
守忠(しゅちゅう)はその弟。
この兄弟の父親が汪応祖(おうおうそ)です。
他魯毎は戦死しますが、
弟・守忠は逃れ、
後に結婚し、生まれた子供が守知(しゅち)。
守知は第二尚氏の世で出世し、
尚真王の養父となります。
これを以前図にしたのがこちら↓
拡大版と記事はこちらから。
これは『琉球戦国キャラクター図鑑』のコラムでもリテイク図解しています!
また、他魯毎・守忠兄弟は歳が離れていて、
他魯毎が守忠の育ての親でもあった、
と以前本で読み、
2人の関係にぐっと興味がわいたのを覚えています。
年が離れていたって、
…どれくらい?
他魯毎が王様だった時、守忠は何歳だったの?
尚巴志に攻められた時は?
…と、ふと気になったので、
【またまた】推定年齢考証してみました!
(前回はこちら→★)
年齢の数字を設定をする上で材料としたのが、以下の点。
・汪応祖は天寿を全うしたわけではなく、在位中に兄に殺されたのでまだ働き盛りの壮年期だったのでは。
・よって、その子、他魯毎もまだ若かったのでは。
・とは言え、南山の諸按司から次の南山王にと推挙されているので、成人はしていたはず。
・守忠は幼くして父を亡くした、とあるので、汪応祖が死ぬ数年前の生まれか。
・守忠は戦から逃れたあと、名護(久志)で数年隠れて南山に戻り、結婚し、子ども(守知)が生まれた。
・守知は第二尚時代の王府に仕官し、尚真の養父になっている(そのタイミングは諸説あり)
参
・『沖縄のサムレー 家譜に見る士族』(比嘉朝進著)
・『球陽』
・ 伊舎堂墓の説明版
というわけで、
汪応祖が死んで、他魯毎が即位した時を
20代前半~中盤のイメージとして、間をとって24程度に、
弟・守忠を汪応祖が死ぬ4年前程度に設定して、
(汪応祖が死んだ時点で生まれたての赤子より幼児の方が、他魯毎も教育しやすいのではないかな、と)
Excelカモ―――ン!!!
赤字は確定。黒字は推定です。
全体的に2~4歳程度前後する可能性もふまえつつ、
割と「アリ」
な気がする結果となりました。
他魯毎の在位中に、守忠は幼児から大人(18歳程度)になっている。
他魯毎が「守忠という人」を作り上げた育ての親ってのも納得。
他魯毎が40前後で没というのも、
まぁ、割とイメージ近いかも。
(そういえば他魯毎は尚巴志の長男説もあるね。
尚巴志の次男の尚忠が1391年生まれだから、
もし長男が1年前の1390年生まれだとしたら
南山王即位の1415年時点で26歳。
おお~、誤差の範囲)
守忠の息子・守知の誕生は
守忠が数年名護に隠れ住んでいたという話から、
南山滅後の数年後に設定。
ところで、
守知の32歳の所に「養父」と書きました。
これは
尚真が生まれ、尚円が占わせた所、
吉日に赤ん坊(尚真)を城外に出して
最初に出会った男を養父すれば吉と言われ、
尚円は家臣に命じてそのようにさせると、
守知と出会った
という話から。
しかし、尚真が生まれた1465年は
金丸(後の尚円)はまだイチ家臣で、王位にはついていないので、
尚真が城内で生まれたわけではありません。
とすると、この伝承は年代的に無理が生じるのかなと。
伊舎堂墓の案内板にあるように、
守知は最初は普通に仕官して出世し、
孫(華后)が尚真の側室に入り、尚清王を生んだことで
養父となった…
という流れの方が自然なのかも?
個人的には、
守知が死んだ時、尚真は号泣したともあるので(『球陽』)
幼少期からの密なつながりがあった=赤子の時から養父説
を取りたいところですが。
…尚真が赤子の時ではなく、
尚円が即位した時(5歳)、
もしくは尚円が死んだとき(11~12歳)に
尚知が養父になった…というのもアリかな?
ともあれ、
表を見ると守知は結構長生したっぽいことが分かりますね。
+
この推定年齢考証は
あくまでもワタシの推測にすぎませんが、
具体的な数字で見てみると、
漠然とした各人物イメージが
少しシャキッとしてくるような気がしませんか?
💭
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