がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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首里城・新戦略!?

2010年11月28日 | ・琉球歴史/文化風景

昨日、とある打ち合わせがあって首里城に行ってきました。

最初は秋晴れで写真日和!!

…だったのですが、
だんだんと曇り空に…

あまり写真は撮りませんでした

で、せっかく来たからにはとりあえず、
何か変わったところはないかチェックです。

現在、南殿2階の特別展示室で、
漆工芸品の展示、「うるしの王国 琉球Ⅱ」が催されています。

…展示室に入って……

 

思わず、

 

(´゜艸゜)∴ブッ

 

なんだなんだ!?

なにやら怪しい美少年アニメキャラがいるぞ!?(-∀-;)

 

…傾向がガラリと変わっちゃってますが…
いいんですかね
(前までは普通にシーサーキャラだったのに)

……まあ、ワタシもイラスト描くヒトなんで…
そういうアピール戦略は…別に…いいんですけど……

…でも…

髭の有無は譲れても
髪型は譲れませんなぁ(゜д゜

前髪たれてたり
後ろ髪はねてたり
ストレートロングヘアーとか
こんなんじゃただのチャラい兄ちゃんのコスプレやん…

 

…なんか違う…(ノ_-;

 


って思った和々でした。

絵としては普通に上手だったんですけどね。
ウチノコタチは喜びそうだな…( ̄△ ̄;

↑だから舞台「テンペスト」の雅博の髪型も異議あり(`ε´)

正殿横の発掘作業、進んでました!
(前回はこっち

でもたくさん「よしず」が立てられてて
御内原が覗けなくなってたー

 

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今日、龍馬伝最終回。
マンガを読まない母ちゃんが「お~い!竜馬」を読みはじめたで。
めずらしい(笑)


尚巴志、尚敬王、赤犬子、チルー、ペリー一行らも休んだ場所

2010年11月28日 | ・琉球歴史/文化風景

最近読谷づいてますが…
「鬼鷲」公演も近いし、その景気づけ(?)ということで☆
(読谷村の史跡はめっちゃ多いんです。しかもかなり重要史跡。)

喜名番所です。

中山の北に位置する読谷山(今の恩納村も読谷山の一部でした)は
ここを超えると山が連なる険しい山原(やんばる)のエリア。

ハブのみならず、山賊たちも出没したという
険しいエリアに入っていくわけです。

その手前に設けられたここ喜名は宿次場であり、
重要な番所だったのですね。

その歴史は実に長く、
戦前までは村役場とても機能していたそうです。

今は復元されて観光案内所として利用されています。
(※追記:当時の建物の完全復元ではなく、一部分の雰囲気復元です)

さて、喜名番所はその歴史が長い分、
ここに関連する偉人達も数知れず。

喜名番所が復元される前に立てられていた
「喜名番所跡説明版」にはこう書かれていたそうです。
(「読谷山路を行く」曽根信一著 より)

(前略)

古来、多くの有名無名の人々がここに宿り、ここを通っていった。

琉球第一の英雄尚巴志の軍勢も、
賢君尚敬王も、
名県令上杉茂憲伯も、
そして琉球音楽の祖 赤犬子も、
歌人良屋チルも、
ペルリ提督の探検隊が腰をおろしたのも
この木陰であった。

 

≪年代表≫

1416年
尚巴志、北山討伐の往還の途中、喜名村に逗留し、子孫を残すという。
(島袋源一郎『伝説補遺沖縄歴史』採取の口碑による)

(以下略)

とりあえず、尚巴志が北山討伐に向かう際に、
宿場であるここで休憩をした…というのは十分に考えられますよね
(そして、ひとつのロマンスがあった、と(笑)(^ε^))

ペリー一行もここを訪れ、当時の様子を絵で残しています。

そう考えるとわくわくするスポットですよね

 

ちなみに、喜名番所の瓦は赤瓦ではなく「灰色」瓦です。

古琉球の時代の瓦は赤じゃなくて灰色だった、
ということの1つの証拠復元です。
(発掘しても灰色の瓦しか出てこなかったそうです)

こういうところも見てみると面白いですよ

1番のオススメはトイレですが(笑)

読谷の工芸(ガラス、やちむん)がふんだんに生かされています。
こっちにも☆)

やっぱりいいな~これ

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