がじゅまるの樹の下で。

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百十踏揚行脚~内間御殿~

2010年05月29日 | ・『百十踏揚』を読ム

さ、百十踏揚行脚。

第6代王・尚泰久

第7代王・尚徳

と続きまして、
お次はクーデターを起こして第一尚氏王統を滅ぼし、
第二尚氏王統を立ち上げた「金丸」の話。

尚泰久王の頃からの臣下であり、
王の右腕として絶大な権力も誇っていた金丸。

しかし、若く、血気溢れる尚徳王との衝突により
一時、王府から身を引き隠居します。


■内間御殿■



(手に負えぬ・・・・・・)

金丸は、砂を噛むような気持ちで口を噤むほかなかった。

金丸のような老練な政治家と、
若く才気に溢れた青年王では、
意識に大きな落差が生じるのは避けがたいことであった。



(遠ざけられる……)

金丸には、自分の手を離れて自立してゆく青年王の凛然たる姿が見える。
しかしそれは、金丸に対しては逆に冷然たる姿である。

(誰のお陰で、王になったのだ)


「百十踏揚 625-」より (与並岳生著/新星出版)



金丸と尚徳王の衝突は、
王の久高島行幸で決定的となる。

「これほどまでに申し上げておりますのに、
敢えて典例を壊すをなされると仰せならば、
お諌め申したこの金丸めも、覚悟がございます。

どうぞ、この金丸めをお斬りなされて、
しかるのちに籠をお立てくださりませ」



金丸もこの頃には、尚徳王に見切りをつけ、
ひそかな野心を胸に沸かせつつあったと思える。

だからこそ、恐れることなく、
むしろ群臣に、「さすが――」と思わせるようなパフォーマンスをして、
ここぞとばかりに、執拗な「哭諌」を演じてみせたかもしれない。



この“与那原事件”の後、

《王、暴虐日に甚だしく、金丸しばしば諌むれども聴かず》

――という、(金丸の側からは)手に負えない状態になっていった。

金丸は、天を仰いで嘆息し、ついに致仕して、
領地の内間村に隠れた。



これが成化4年(1468)戊子8月9日、
金丸54歳の時である。

金丸のこの「隠棲」が、クーデターの引き金で、
その8ヵ月後に、尚徳王は「遽焉として薨逝」した
というわけである。


「百十踏揚 639-」より (与並岳生著/新星出版)




クーデター派は、世子と王妃、王母をはじめとする王族、
そして近臣を殺した後、

王の乗り物たる鳳輦(ほうれん)を担ぎ、
龍衣を捧げて金丸の隠棲する内間村に向かった。



しかし、金丸は、さすがに老獪である。

表面「大いに驚」いて曰く―――

《臣を以って君を奪ふは忠なるか。下を持って上に叛くは義なるか。
爾(なんじ)等、宜しく首里に帰りて、貴族賢徳の人を択びて君と成すべし》

そのように言って、はらはらと涙を流した。



しかし、この時の金丸の「涙」はいかにも嘘っぽい。
要するに「演技」的なのだ。

自分ではなく、首里に帰って、貴族賢徳の人を選んで立てよ

――などと、あたかも尚王統に忠義てするかのような
謙譲さをみせていくわけである。



しかし、そのように「前」王統に対する忠義の心らしく見せながら、
玉城に隠棲する金橋多武喜王子
(※)らの名前は、示唆していない。

金橋や多武喜は、れっきとした尚王統の後嗣であり、
本来なら、金橋王子こそ、
王になるべきであったはずなのだ。

(※ 尚徳王の異母兄。尚泰久王の正妃の子、百十踏揚の兄)



金丸は王位に就くことを固辞し、
海岸に逃げ隠れる“演技”までやってみせる。

茶番もいいところだ。



群臣は「逃げる」金丸を追いかけて行き、
懸命に請う。

追いすがられて、金丸は、
隠居の普段着を仕方なく脱いで、
龍衣(王衣)を着て首里へ登り、玉座に座った、

というわけだ。


そして、

「尚円王」

―――と名乗るのである。



「百十踏揚 646-」より (与並岳生著/新星出版)



引用がかなり長くなってしまいましたが・・・

こちら、内間御殿は隠居したいた金丸の住居、
そしてここに、王衣を携えて臣下がやってきた、

というわけです。

ここ、内間御殿は西原の住宅街の中にありますが、
フク木で囲まれ鬱蒼とした雰囲気を漂わせておりました。



この内間御殿の存在は、実はワタシも今年になって初めて知りました。

知るきっかけになったのは、こちら。



今年の2月に起こった地震です。

この地震は勝連城跡をはじめ、
ここ内間御殿、
糸数城跡など様々な史跡に被害を与えました。



石垣全体的に傾いて、
ロープや鉄筋、シートでガードされておりました。

おとといくらいも夕方に地震があって。

大丈夫だったかな?



さて、金丸(尚円王)。

この後、百十踏揚の後夫であり、自身の忠臣「大城賢勇」も討つことになります。

以後、現在に続く「琉球文化」を花開かせ、
400年あまり続く第二尚氏王統を築き上げた偉大な王・金丸ですが、
「肝高の阿麻和利」でも策士として裏で王府をあやつり、
小説「百十踏揚」でもフォローなきその黒幕悪役っぷり

歴代の王が短命で次々と代わり不安定な王統の中で、
護佐丸、阿麻和利、金丸、大城賢勇と、
誰もが野心を抱いたあの時代。

歴史は、勝者によって書き記されるものですが、
はてさて、その真意はいかに。





あなたはどのように考えますか?



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