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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『ユング』 アンソニー・ストー(著)

2007年07月01日 | Book
イギリスの精神科医アンソニー・ストーが1973年に発表し、1978年に翻訳が出された『ユング』を読みました。ユング思想のエッセンスと思われるものを簡潔にまとめた本です。

ユングの思想はおそらく知られすぎているぐらい知られているのでしょうが、ユングに詳しくない私には興味深い本でした。

「妄想」の建設的性格

まず、ユングはにとっては、「現代人」に共通する問題は、神話世界との接触を失っていること。神話が正しいかどうかに関係なく、そもそも人間は神話を必要とする生き物であるにもかかわらず、それとの接触を失っているために、多くの人は苦しみをかかえているのだという指摘がこの本にはあります(これだけ書くと、宗教の布教みたい)。

著者はユングが神話の重要性を認めるに至った経過として、妄想を抱く患者への彼の対応に着目します(もっとも、制度的な宗教に縛られない宗教性・神性への強い関心は、ユングにとっては少年期の頃から見られていました)。

例えばフロイトにとっては、統合失調の患者が抱く妄想も幼年期の性的欲求にまつわる障害の結果に過ぎず、精神分析によって治癒されるべき“異常”にすぎませんでした。

それに対してユングは、神経症の強迫観念や恐怖症状と同様に、精神病者のより断片的・支離滅裂な言葉・考えにも意味があることに注目します。以下は、その有名な観察の例。

ほぼ50年間入院していた慢性の統合失調の女性は、村のある靴直しが靴を縫う時と同じ動作をしていました。その女性の死後、彼女の兄はユングに、彼女はこの靴屋を愛していたにもかかわらず、彼は彼女を捨てたことを教えます。そのことから、その後彼女は50年以上にわたって、この愛する人と同じ動作をすることで、彼との密接な同一視を示そうとしていたことがわかります。

このような患者にとって制御のきかない言葉・考え・行動の観察は、単に抑圧された衝動であるというだけでなく、私たちの「こころ」の中にはいくつもの人格が存在するという洞察へとユングを導きます。

私たちは誰もが複数の部分人格を有しており、それが「コンプレックス」や「意志力」や「自我」を形成している。「正常」「ヒステリー」「統合失調」の間の差異は絶対的なものではなく、ただ統合失調ではこの部分諸人格の間の分離の程度が強いことにすぎない(もっとも、そのような分離の程度は、ユングが考えていた以上に重い問題であるとストーは指摘します)。

ユングにとって、部分人格が形成する「妄想」は、それ自体は悪いことではなく、ただその「妄想」が別の人格との接点を失うことから問題が生じていました。それゆえ治療においては、「妄想」をピンセットで取り除いたり、Deleteボタンで消去したりするのではなく、その「妄想」が患者にとってもつ積極的な意味を患者自身が適切に把握することにあります。つまり、「現実」を構成する部分人格と「妄想」を構成する部分人格との接触です。

前者の肥大化は現世的価値への執着につながり、表面上は正常に社会生活を送る中身のない人間を生み出します。それに対し「妄想」が突出した者は、自分の内面に囚われる状態になります。

それに対し、ストーは、妄想が本来もつ「建設的性質」に関するユング自身の言葉を引用します。「彼ら(妄想患者)の目的は明らかに、未知の心的現象を同化し、自分自身を自分の世界に適応させるのを可能ならしめるような体系を生み出すことである。これは最初純粋に主観的適応であるが、人格を一般世界に適応させる途中の、必要な過渡的段階である」(p.44)。たとえば、古代人の神話が彼らを世界に上手く適応させてくれていたように。

このことをストーは次のように解説します。すなわち、神話は生命に「気品」「意味」「目的」とを与えるなら、たとえ客観的真実でなくとも、重要な建設的機能をもっている。例えば、クリスチャンが処女懐胎を信じていても、それは彼らが狂気じみていることを意味しない。神話とは、健康を増進する必要な適応機制であり、多くの現代人が神経症的で不幸に見えるのは、「正常人にも精神病者にも共有されている心の中の神話創造を行う深層」から疎外されているからだ、と(p.46)。

ストーによれば、神話とは人々の経験を「秩序づけ、より一貫させる」ものであり、人間は不可避的にそれぞれの神話をもっているものだとユングは考えてました。統合失調症患者の妄想が実生活上での失敗を埋め合わしているように、正常な人も「現実」の味気なさに耐えることはできず、なんらかの神話を欲しているし、持っているのです。

ストーは、後でも触れますが、この神話機能を宗教だけでなく芸術の中にも認めていたならば、ユングの説はより広く世の中に受け入れられたであろうと指摘します(p.52)。

「妄想」の未来志向的性格

ユングは、そのような神話は、つまらない「現実」を補償するだけでなく、人々が未来へ向かって生きようとする際にも、心の状態について好ましい影響を及ぼすことを指摘していた、と著者は記します。「一つの神話とは、心自身の側の自己治癒、つまり未来におけるよりより適応の創出の試みであるかもしれないのである」(p.53)。

ストーによれば、ユングが「元型」と名づけたのは、そのような神話の中で人類一般に見られるストーリーの共通性を指しているのではなく、あくまでそのような神話を創出する傾向のことを指してのことである、ということです。もっとも、そのような「神話を求める傾向」が必然的に、人間をして一種の共通したストーリーを欲しせしめると言うことも可能です。

ともかく、上でも紹介したように、ユングの中心思想の一つは、元型というこの神話的深層から「現代人」は疎外されており、そのため彼らにとって人生が意味や意義を欠いたものになっている、ということでした。ストーは、例えば神経症の人の問題点は、性生活の障害にあるわけでもなく、適切な人間関係を作り上げることの失敗にあるわけでもなく、むしろ存在に何らかの意味があるという感覚の喪失にあるということを認めるならば、このユングの考えは筋の通ったものであると述べます。

ストーによれば、人間が「神話」あるいは妄想を抱え込むきっかけは、例えば幼児の時点でも生じます。

無力な存在である幼児は、必然的に、母親を、自分を傷つける可能性のある迫害者・魔女として認識します。また母親がその無力な存在の欲求を満たしてやるときには、幼児は母親を、一種の守護女神・「完全な」供給者、慰安者、愛の贈与者として認めます。このようなイメージの分裂は、その母親の子育ての良し悪しに関わらず、幼児の無力性から必然的に幼児の中に生じるものです。

ユングにしたがえば、このようなイメージも元型的と言えます。そのようなイメージをもつことで、赤ちゃんはその現実を必死に理解し、自分を適応させようとします。

後に成人しても、自分の中の部分人格はそのイメージを持ち続けます。そして何か外的な大事件が起きると、上記のような初期の「妄想的-分裂的」な発達段階に退行することになります。中世の魔女狩りやユダヤ人の迫害という悲劇は、そのように自らの部分人格と上手く付き合えなかった人々の傾向に由来します(p.64)。


(飲酒運転による事故はこの10年で3分の1に減少しているにもかかわらず、飲酒運転の悲劇性がマスコミで強調され、事故を起こさなくても飲酒運転をしただけで公務員が免職されその後の人生で安定した職に就けないという状況が最近になってから起きています。このような納得するのが難しい事態も、「世の中」一般に蔓延している人々の不安感が、一つの事件によって一挙に刺激されているのではないかという推測を起こさせます)

黒死病のような疾病の蔓延や例えばワイマール共和国の崩壊のような極限状況では、「悪事の働くことのありえない理想化された「救世主」像のイメージ」と、「悪事しか行わない全面的に悪い「悪魔」像のイメージが復活するようになります。安定した状態ではこれらのイメージは無意識にとどまっているのですが、「あらゆる期待される保護の破壊と損失の脅威」により、人は感情発達における初期の段階に戻り、自分よりも強力な迫害者に脅かされているように感じると同時に、迫害者よりも強力であると期待される保護を必要とするようになります(p.84)。


このような「大事件」は、「現実」に見られる意味や情緒性の欠如に人が直面し、その中で必死に意味を取り戻そうする中で、幼少期のイメージを引っ張り出すように人を促します。人は生きる上で何らかのイメージを必要とするのですが、現実の激烈な変化に対して、それを適切に理解させるイメージがないと、今の現実にはそぐわない幼少期のイメージを用いてしまうのです。

ストーによれば、クライン派などの「対象関係学派」は、個々人が現実の人間関係において十分な情緒的満足を得ていれば、そのような退行したイメージが呼び戻されることはないし、またそもそもその他のイメージなり神話なり必要とすることもない考えるのに対し、ユングはそのような神話を人間は不可避的に求めるものだと考える点に相違があるということです。おそらくユングにとって重要なのは、未知の現実に適合したイメージを人がもつようになることであって、そのイメージがあまりにも現実と齟齬をきたすとき、その人は「分裂病者」として分類されることになります。神話やイメージがどれほど重要であろうと、それらも一つの部分人格がもつものにすぎず、それに対して「現実」をもつ部分人格との調和が図られなければ、イメージは人の心に対して有効に機能しません。

重要なことは、自分の持っているイメージに気づくことである。そうでないならば、幼少期のイメージに過度に依存したり、あるいは「現実」の味気なさとイメージ・神話・意味の欠如に悩むようになる。

そのような「現実」の無意味感に苛まれるのは、経済先進国では、「中年」の男性に多いでしょう。勉強をし、職に就き、お金を稼ぎ、配偶者を得て、家族を養うという「英雄ストーリー」に支えられて彼らは生きていきます。

しかし40代以降、それらのストーリーを一通りこなした後に、生の無意味感が彼らを襲います(ただ、最近ではそのようなストーリーを歩むことができなかった人の数が増加傾向にあるかもしれません)。

少なくともユングは、そのような社会的に成功した男性を主な患者としてもっていました。彼らは知的にも経済的にも普通の人よりも恵まれた人たちであり、にもかかわらず満たされない精神の渇きを癒すためにユングを訪れていたとされています。

それら成功したヨーロッパの男性たちに共通するのは、英雄ストーリーに没頭してきたがゆえの、内面との接触の喪失です。そのとき男は、人生に意味はあるのか?成功以上のものが人生にあるのか?と悩みます。

ユングは自らも人生のその時期に大学講師の職を捨て開業医の道に入ったことから、患者と問題を共有していました。彼は、中年に至ったときに人(男)は、「若い頃によく役立ち、自分に成功をもたらしてくれた、まさにその機能や態度を部分的に犠牲にすることが求められる」と(ストーによれば)考えました。ではその犠牲の上で男たちが求めなければならないのは何かと言えば、それは自分が疎かにしてきた内面を再発見することです。その内面とは、ユングにとっては、この世を超えた霊的目標を追求する側面です。そのことに目覚めない限り、人(男)は、金銭・権力・知識・名声・性欲などの現世的価値に振り回され続けることになります。

ユングは、そのような霊的目標と結びついた心理的側面を、「受容」「統合」「全体性」という言葉で表現しました。それは、「情動の激しいもつれや激しいショックの及ばぬ態度――世界を離脱した意識性」(p.134)であり、ある面を抑圧したり、ある特別な面だけを過剰に発達させることをやめることです。それは、自分の存在の有限性を自覚し、現世的価値は自分の一側面としか結びついていないことを意識し、それ以外の側面を自分の中に再発見する作業であり、つまり生の有限性に囚われない、「死に対する準備」と結びついた態度です。

その段階では人は、「自我の現世的目標を犠牲にし、来るものを受け入れることで、その個人は自分の中に貫いて住んでいる、自我を超えた何物かへの依存を認める」ようになります。ストーは、ユングの次の言葉を引用します。

「悪からたくさんの善が私にもたらされました。静かにし、何も抑圧せず、耳をそばだて、現実を受け入れ、――物事をそうあってほしいようにではなく、そのままに受けとめ――そのようなことすべてを行っているうちに、並はずれた知識が、また並はずれた力が、私のもとにやってきました」(p.135)。

これは、先日紹介した『マネジメント革命』の中で著者の天外伺朗さんが「長老」と名づけた人間の成長段階でしょう。すべてを受け入れ、コントロールを手放したときにやってくる恩恵を認識できる成長段階です。

ユングにとって個性化とは、そのような受容の態度のはてに自分に訪れる心理状態を指します。それが「個性化」と言われるのは、記述・定義することが困難であることと結びついているでしょう。金銭・名声・権力・知識などを追い求めるあり方は、それがどれほどその人の生来の性格と結びついているように見えようと、ユングの立場から見れば自己を見失った状態です。つまり、「性格」とは自己を表すものではなく、単に自己を隠すものに過ぎません。それに対し、すべてを受容していく態度は、そのような「性格」による焦りを手放すことを意味します。その先にその人に何がやってくるのかは、おそらく人それぞれが体験することでしょう。ストーは、その状態を描写したユングの言葉を引用しています。

「何か、より高速でより広い関心が患者の視界に現れ、そしてその視野の拡大を通じて、解決不能の問題はその切迫性をなくすのである。それはそれの問題自体に関して論理的に解決されるのではなく、新たな、より強い生命に直面して、消え去るのである」(p.147)。

「確かに情動を感じるし、それにより動揺させられ、苦しめられるのだが、しかしなお同時に、それを観察しているより高度な意識の存在に気づいている。それは情動との同一化を防いでくれ、情動を対象とみなし、『私は私が苦悩していることを知っている』と言えるのである」(p.147-148)。

ストーによれば、このような意識の状態に人間が到達できるのは、表面的な現実の動きを超えた“何か”への信仰をもつときであり、ユングが宗教(=既成の制度化された宗教団体とは無縁な宗教性)の価値を積極的に認めたのもそれゆえにでした。

芸術の機能

ここまでがストーによるユング思想の解説であるのに対し、ストー自身がユング思想に付け加えたいことは何かと言えば、そのような“見えるもの”“現世的なもの”を超えた“何か”を追い求める衝動は決して神話や宗教を追い求める動きだけに認められるものではないということです。

著者によれば、ユングは、芸術もその他の現世的活動と同じく、個人的な名誉なり趣味や価値観を追いかける活動であり、狭い意味での自己に囚われた活動であると考えていました。それに対し、神話的・宗教的なものこそ、そのような個人的な欲求を超えた価値観へと人々の目を開かせるものなのです。

しかしストーは、ユングによるそのような芸術理解は到底首肯できるものではないと述べます。すなわち、芸術とは芸術家たちによって「個人的に勝手に作られたもの」では決してない。彼らの創造物は「意識的統制を越えた源泉から形成され」ていることは、芸術家の一致した意見である。例えば、小説家は、登場人物が「彼ら自身の生命」を帯び、多くが作者のもとの意識的な意図に逆らって振舞うことを報告している。また芸術家たちは、芸術活動を行う際には、自分たちに「与えられた」ヴィジョンに誠実であるように強*い*ら*れ*て*い*ると感じている。それは、意図も把握もしなかった創造的な人格が課してくる「道徳的義務」である。少なくとも芸術家たちは、そう感じており、これは、宗教家が自らの神秘的体験を狭い意味での自己の統制を超えた“何か”に触れているとみなすことと、同じ種類のものである(p.157)。

上で述べたように、人は幼児期に経験する無力性のゆえに、外界に対してある主のイメージをもつことで襲い掛かってくるような巨大な現実に適応しようとします。その後も人が成長しながら現実に適応していくことができるのは、そのようなイメージを「妄想」として投げ捨てているからではなく、その都度「創造的」にイメージを形成しているからです。それは人類の歴史の大部分においては宗教として現れ、また他方では科学・哲学・芸術などの形を採ります。それぞれの分野が独自の論理を持ち互いに相容れないものであるとしても(科学者が「そんなものは科学でない」と言ったり、哲学者が「あれは哲学ではない」と言ったり)、そのような表現活動を行う動機には共通性を認めることができます。

心理学者のチクセントミハイが、「フロー」に至る経験として、スポーツ、読書、瞑想、チェス、外科手術などを同列に論じているのも、重要なことはそこで得られている経験には、狭い意味の「自己」から解き放たれているような感覚が共通して見られるからです。



参考:when you find it pleasant 『孤独』 アンソニー・ストー(著) “joy - a day of my life -”