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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

書籍 『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 』 山鳥重(著)

2007年07月11日 | Book
『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 』という本を読みました。

この本は、読む人に対して、今までより多くのことがわかるようになることを約束していません。むしろ、この本は、なぜ私たちは「わかる!」のか、あるいは「わからない」のか、その仕組みを述べたものだから。

仕組みというのとも、違うかもしれない。「わかる」とはどういうことで、「わからない」とはどういうものかを説明しているといったほうが適切です。あっ、題名は初めからそう言っていた…

同じ「わかる」にも、いろいろな「わかる」があることが説明されています。だから、「わかる」とはこういうことだと一言で説明するのは難しい。

難しいはずなのだけど、僕がこの本を読んで思ったのは、「わかる」というのは、隙間・空間・空白を想像力で補えるということかな、ということです。

「浅い」レヴェルの「分かる」は、既存の規則をそのまま理解するという感じです。計算問題や文法や、歴史の年号ですね。

それに対して、より深いレベルの「分かる」というのは、それら一つ一つの事実を認定できることを超えて、より多くの事実の関係が分かるようになるということ。あるいは、一見つながりが分からない諸事実の関係が分かるようになるということ。そういうことなのかな、と。

例えば、単なる暗記問題にしても、膨大な量の課題を課せられるときは、一つ一つ暗記するのではなくて、その膨大な量の問いの関係をも理解していないければ、スムーズにすべてを暗記することはできないのではないだろうか。

世界史を理解できるのは、一つ一つの細かい知識を覚えるだけではなく、一つ一つの事実の関係を自分の想像力で補える人なのだと思う。

一つ一つの事実を理解するのは、教科書で確認すればいいだけかもしれない。しかし、あらゆる事実を覚えるには、それら諸事実の連関を頭でイメージできなければ、ひたすら苦行になるだけで、効率的に覚えることはできないのでしょう。

その諸事実の連関をイメージできるようになるということが、「わかる!」ということではないかと。

大雑把過ぎる感想ですが、そういう印象をもちました。

そして、そのようなイメージ力は、やはり学ぶ側の意欲が伴わなければ、獲得できないものなのじゃないだろうか。

一つ一つの単語・文法や年号や歴史的事実といったことは、教師が無理やり子供に押し付けることができるかもしれない。

しかし、それら一つ一つの事柄をつなげていくイメージ力というのは、学ぶ側の意欲によって生まれるような気がします。

さらに言えば、その意欲というのは、学ぶ側が自分に無理やり湧き起こすことができるものではないのではないだろうか、と私は今は想像しています。

やはり人にはそれぞれ意欲を持てる分野とそうでない分野があるのではないかと。そして、それは巷に多く溢れているハウツー本を読むことで「矯正」できる類のものではないのではないかと。

そして、社会の側(為政者、教育者、経営者、あるいはすべての人)が心がけたほうがいいのは、人が意欲をもてる分野はそれぞれ違うのだし、言い換えれば、どの人にも「これだけはどうしても意欲を持てない」という分野があるということなのではないだろうか、と思いました。