『猪口さん、なぜ少子化が問題なのですか?』(猪口邦子・勝間和代著)という最近出版された本を読みました。少子化にまつわる問題について、いろいろ点から説明されています。少子化については日々いろいろな情報が新聞で報道されますが、この本を通せば、頭の中で情報の分類がすっきりするのではないかと思います。
著者の一人・衆院議員の猪口さんが出された政策の細かな点や、人口動態などのデータなどで知らなかった点を私は知ることができましたが、この問題に向き合う根本的な態度は、すでに少なくない人に共有されているもののようにも思いました(ただ、男性企業中心文化の牙城はそれでも固いのかもしれません)。
その中で私が「あっ、そうかぁ」と思わされたのは、少子化対策はこれから5年が勝負であって、今を逃すと手遅れになる、というもの。つまり、人口構成がピラミッドの頂点を形づくる層が子供を作ることができるこの五年のうちに少子化対策が効果を出す必要があるということ。
考えれば当たり前のことだし、すでに報道されていることなのでしょうが、私はこれまで気づかなかった点でした。
問題が明らかになってからでは遅いのであって(もう明らかになっていると言う話もあるけど)、まさに今取り組む必要がある、とのことです。
今検討され・打ち出されている具体的な政策に関しても、私の知らないことも多く、この問題のポイントを教えてくれます。
ただ、少子化の原因に関しては、切込みがもうちょっと欲しかった気もします。
猪口さんが社会政策としての少子化対策が日本で遅れている点を、勝間さんがワーキングマザーの視点から子供を産みながら働く条件の整備の遅れを述べているのですが、そのような外的要因だけではなく、独身の「若い人」たちの男女関係に関する心理的な問題のことはもっと触れて欲しいようにも思いました。それはとても大きいと思うから。
もちろんその点も触れられていて、お金はあるけど出会いがないという相談が多くの女性から著者には寄せられているそうです。
そうした女性たちも、結婚を第一目的にすれば、お見合いなどで出会いはあるはずです。にもかかわらず、そうした選択には踏み切れないのは、やはり「結婚」という制度への参加を第一目的にはできないからで、その代わりに「運命の人との出会い」や「パートナーとの充実した関係」という、とらえどころのない、しかし切実な欲求をもっているからです。
こういう問題は、おそらく社会学者や評論家が膨大に論じつくしているだろう問題ですが、すべてが自分の選択にかかってくるために、そのための心理的プレッシャーが大きくなって、人は結局何も選べなくなっているのです。
最近は以前ほどでもありませんが、「恋愛」という言葉がメディアに溢れることで、「恋愛」しなきゃというプレッシャーは高まりますが、その中で、男女の中で一定の割合は、必ずしも「恋愛」に向いているわけではないかもしれません。しかし、昔ならそういう人たちも、「恋愛」を経なくても結婚にたどり着けたのでしょう。
しかし、戦後の社会ではすべての男女は「恋愛」という、偶然性に左右されるプロセスで男女関係に習熟した人でなければ、結婚に到達できない傾向が顕著になっています。
こうした文化的・心理的問題は、社会政策の問題とどうリンクするだろうか?と思いました。
著者の一人・衆院議員の猪口さんが出された政策の細かな点や、人口動態などのデータなどで知らなかった点を私は知ることができましたが、この問題に向き合う根本的な態度は、すでに少なくない人に共有されているもののようにも思いました(ただ、男性企業中心文化の牙城はそれでも固いのかもしれません)。
その中で私が「あっ、そうかぁ」と思わされたのは、少子化対策はこれから5年が勝負であって、今を逃すと手遅れになる、というもの。つまり、人口構成がピラミッドの頂点を形づくる層が子供を作ることができるこの五年のうちに少子化対策が効果を出す必要があるということ。
考えれば当たり前のことだし、すでに報道されていることなのでしょうが、私はこれまで気づかなかった点でした。
問題が明らかになってからでは遅いのであって(もう明らかになっていると言う話もあるけど)、まさに今取り組む必要がある、とのことです。
今検討され・打ち出されている具体的な政策に関しても、私の知らないことも多く、この問題のポイントを教えてくれます。
ただ、少子化の原因に関しては、切込みがもうちょっと欲しかった気もします。
猪口さんが社会政策としての少子化対策が日本で遅れている点を、勝間さんがワーキングマザーの視点から子供を産みながら働く条件の整備の遅れを述べているのですが、そのような外的要因だけではなく、独身の「若い人」たちの男女関係に関する心理的な問題のことはもっと触れて欲しいようにも思いました。それはとても大きいと思うから。
もちろんその点も触れられていて、お金はあるけど出会いがないという相談が多くの女性から著者には寄せられているそうです。
そうした女性たちも、結婚を第一目的にすれば、お見合いなどで出会いはあるはずです。にもかかわらず、そうした選択には踏み切れないのは、やはり「結婚」という制度への参加を第一目的にはできないからで、その代わりに「運命の人との出会い」や「パートナーとの充実した関係」という、とらえどころのない、しかし切実な欲求をもっているからです。
こういう問題は、おそらく社会学者や評論家が膨大に論じつくしているだろう問題ですが、すべてが自分の選択にかかってくるために、そのための心理的プレッシャーが大きくなって、人は結局何も選べなくなっているのです。
最近は以前ほどでもありませんが、「恋愛」という言葉がメディアに溢れることで、「恋愛」しなきゃというプレッシャーは高まりますが、その中で、男女の中で一定の割合は、必ずしも「恋愛」に向いているわけではないかもしれません。しかし、昔ならそういう人たちも、「恋愛」を経なくても結婚にたどり着けたのでしょう。
しかし、戦後の社会ではすべての男女は「恋愛」という、偶然性に左右されるプロセスで男女関係に習熟した人でなければ、結婚に到達できない傾向が顕著になっています。
こうした文化的・心理的問題は、社会政策の問題とどうリンクするだろうか?と思いました。
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