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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

“The Evolving Self” by Mihaly Csikszentmihalyi

2007年04月02日 | Book




アメリカの心理学者でフロー理論の提唱者ミハイ・チクセントミハイが1994年に発表した“The Evolving Self  A Psychology for The Third Millennium”を読みました。おそらく翻訳は出てないと思いますが、これは出版される価値があると思う。

チクセントミハイについてはこのブログでよく取り上げていますが、彼の言うフロー理論とは、人間は出世とか名誉といった外発的に動機づけられた行動よりも、その人自身の内面から湧き起こってくる衝動・ワクワク感といったものに促されて行動するとき、はじめて人は幸福を感じるという主張です。

この本が出るまでのチクセントミハイの本では、そのような“フロー”な状態に関する経験的な研究と、それらの調査から得られる洞察を彼がまとめたものが内容の中心となっていました。

そのような経験的な観察を重視する彼が、この本ではそれまでの調査を踏まえてより思弁的・歴史哲学的(?)な議論をこの本でしています。すなわち、“フロー”な状態を生み出す「遺伝子」と、それと対極にある“エントロピー”を生み出す遺伝子が人類の歴史ではつねに勢力争いをしており、人類が進化するには“フロー”な状態を得ることを目標としなければならないことをハッキリと彼は主張しています。

もちろんフロイトなどとは異なり、チクセントミハイはこのような「遺伝子」の科学的実在性を本気で主張しているのではないでしょう。ただ経験的観察から、心理の状態を表すのに「フロー」や「エントロピー」といった概念が有効であり、この「フロー」or「エントロピー」を選択する人間の動きを、「遺伝子」といった言葉で表しているのだと思います。


“フロー”と“エントロピー”

「フロー」な状態を説明する上では、「フロー」でない状態を指摘したほうが分かりやすくなります。それが彼の説明する「エントロピー」。「エントロピー」の心理状態とは、自己が自己自身の力で存在できず、つねに他者や外的なものに依存し消費することで存在できること。そこでは自分の意図的な活動が存在せず、ただ他者を食い尽くすことが自己目的化します。

「エントロピー」の遺伝子は、自分で新しい目的を作り出すことができません。それは自己(=“Self”)と他者との区別が存在しない状態だといえます。自己を自己として認識するのは、すなわち自己と他者の区別を認識できることです。おそらくチクセントミハイの議論に従えば、自己が自己であることを認識できるのは、自己に「固有」な活動を行っているときです。

では、自己に「固有」でない活動とは何かといえば、それは自己ではなく他者や自身の過去の経験に意識がコントロールされて行う活動を指します。例えばそれはハードワークであり、過食であり、消費であり、セックスであったりします。

それらの活動は、自己が自身で選択したものではありません。それは“快楽”であり、「エントロピー」の遺伝子によって操作された意識の逃げ場です。

「エントロピー」を生み出す活動は、自身によって秩序を作り出すことをしません。ハードワークも過食も消費もセックスも、自身で秩序化する力を放棄し、自己以外のガイドに従って行動することを意味します。

またそのガイド自体にも秩序は存在しません。ハードワークや過食や消費やセックスへの没頭は、「未来」という時間を秩序付けることを放棄することを意味します。それらの活動に没頭する際の人間の意識は時間の観念から目を背け、時が進むということを無視しようとします。“時間”とは現実は変化するものであるという認識を促します。その時間から目を背けることは、現実の変化に対応することを拒否することを意味します。「エントロピー」の活動とは、現実の変化を無視し、自己の力によって世界を秩序付けようとする態度を放棄することを志向します。

変化の無視とはすなわち現状維持ですが、ただ現状維持を志向することは、一見秩序を重視しているようで、実は自身の力で秩序を作ることを放棄することを意味しています。その際の意識は、時間の進行・現実の変化に秩序を合わせていくことを放棄しています。もし本当に既存の秩序を将来にわたって存続させたいのであれば、時間の進行・現実の変化に合わせて既存の秩序が適合するように意識的に改変させていくはずです。しかし意識が「エントロピー」の状態にあるとき、意識は秩序を存続させるための計画・改善を検討する注意力をもたず、ただ漫然と昨日行ったことを今日も繰返すだけになります。そのとき秩序は、現実の変化に耐えられずにただ崩壊していくことになります。

食事は身体が健康であって初めて持続的に行い愉しむことができます。しかし食事の楽しみに没頭する意識の状態になると、「過食」というエントロピーの状態にある意識は、もはや身体の健康を考慮せずに食べるという行為を追求します。身体が健康であって初めて食事は可能になるのに、その身体の健康を犠牲にして食事を追求する状態になっているのです。同じことは「仕事」「セックス」「消費」「ドラッグ」「金銭」に関してもいえます。それらの活動を愉しむには、意識や身体・社会の秩序が健全に維持されて初めて可能になります。しかしその活動から得られる愉しみを過度に追求する状態になると、そのような楽しみを本来可能にしている健全な意識・身体・社会の状態が破られ、それらを犠牲にするようになります。結果的には身体・意識・社会がボロボロの状態になると、もはやそれらの活動を行うのは不可能になります。

それに対して「フロー」の状態では、意識は自己の活動の目標を自身で設定できる状態にあります。「フロー」の状態は、「エントロピー」とは異なり、時間の変化を受け入れ、「未来」を自己の秩序によって制御しようとします。「

「フロー」は「エントロピー」の意識と異なり、現状維持を目指しません。現状維持とは、「自己」への意識が過剰になっている状態です。「フロー」はそれと反対に、「自己」を忘却している状態だと言えます。もはや重要なのは「自己」ではなく、活動そのものとなっています。「自己」への意識がないため、活動とそれを取り巻く現実の変化に意識がフォーカスし、現実の変化に対応しながら活動に集中することが可能になっている状態です。

「仕事」「セックス」「過食」「消費」「金銭」が目標となっている場合、その目標はつねに過去の延長上にある単純なものになります。つまり“もっともっと”という意識によって目標が設定されます。よりたくさんの業績、よりたくさんのセックス、よりたくさんのチーズバーガー、よりたくさんの洋服とバッグが目標となります。

それに対し「フロー」な活動においては、目標はより“複雑性”を有すものとなります。「エントロピー」の遺伝子が単純に「もっともっと」という目標設定しかできず、多くの場合に心身の健康を破壊する傾向をもつのに対し、「フロー」の遺伝子は、「自己をより複雑性の高いものする」すなわちより高い注意力を働かし、現実の変化を考慮し、自己のスキルをより高めることを志向します。

「複雑性」とは、反省性reflexivityの高まりとも言えます。それは惰性的に「もっともっと」を求めるのではなく、意識的に行われる選択を意味します。現実の変化と自己の目標を考慮し、状況を受け入れながらしかし絶えず自己の技能をレベルアップさせようとします。またそこから得られる報酬も、その活動・過程自体に内在します。「セックス」や「過食」「金銭」が行為の結果として得られる“楽しみ(pleasure)”を得ようとするのに対し、「フロー」では活動・過程自体に“喜び(joy)”が含まれています。

自己の複雑性の高まり

チクセントミハイが強調することですが、「フロー」の活動とは、具体的に何かを“する(do)”だけではなく、“ある(be)”ことも得られます。上で、「フロー」においては活動の過程自体に“喜び(joy)”が含まれると書きましたが、そのときの“喜び(joy)”とは内面から湧き起こるものであり、著者はそれを食事やセックス・金銭が沸き起こす楽しみとは区別します。

この区別は著者自身の主観的な感覚にもとづくと言えばそうですが、おそらくほとんどすべての人が同意できるようにも思います。「フロー」から得られる“喜び(joy)”が心身の健康をもたらすのに対し、「エントロピー」な活動がもたらす“楽しみ(pleasure)”はむしろそれらを破壊すること、また一過性であることが指摘できます。過食やセックスに没頭する人は、つねにイライラと不安を抱え込みます。

これは本の中で取り上げられている事例ですが、イタリアであるカウンセリングにかかっている女の子に、テレビ視聴などの「エントロピー」をもたらす活動をやめ、彼女が「フロー」を感じられる活動を増やすように指導したところ、一年でかなりの精神面での改善が見られたそうです。

外的に欲求を満たそうとする活動ではなく、内面から湧き起こる“喜び(joy)”を得ようとするのは、何も具体的な活動に限りません。むしろ著者は、そのような「フロー」状態をつねに保とうと目指してきたのは、古今東西の宗教の歴史だったと指摘します。つまり、外側の状況を変えることによってではなく、まず自分自身の内面を見つめることで得られる安らぎに注目してきたのが、すべての宗教に共通する特徴だからで、その点で多くの宗教の間に違いはないと著者は指摘します。また宗教だけでなく、19世紀末の精神分析の誕生や20世紀の人間性回復運動などにみられる心理学の台頭も、そのような宗教の役割を引き継ぐものだと言うことです。

このような「フロー」の状態の特徴を著者はこの本で、「分化」“differentiation”と「統合」“integration”と呼びます。

「分化」という概念は、何によって「フロー」による“喜び”を得られるは人によって異なることに由来します。バスの運転が好きな人もいれば、トイレを掃除するのが好きな人もいるし、会計処理で数字の計算をするのが好きな人もいるでしょう。こうした「フロー」の源泉を誰もが子供時代に見つけられるようになることが理想の社会でしょう。

しかしチクセントミハイは、このような独自の「フロー」の追求だけでは社会はカオスになる危険があることを指摘します。個々人の好きな行動を追求すること自体はいいのですが、それだけでは自己の複雑性は高まらないのです。

自己の複雑性が高まるとは、意識的な選択がその都度なされることを意味します。自分の好きなフィールドで技能を高めようとするとき、チャレンジする障壁を正確に認識し、それを越えることができるよう技能を磨きます。そこで得られる“喜び”は、そのような注意力を要しない“楽しみ”(食事やセックスなど)とは区別されます。

こうした注意力の高まりは、現実の変化をも察知する能力と結びつきます。この注意力の高まりは必然的に、自分の好きなフィールドへの没頭だけでなく、さまざまな価値の認識にもつながります。それは例えば家族や地域の秩序といった価値の認識であり、他者とのつながりの重要性です。このことから著者は、ただ芸術だけを追求する人は“分化”だけを引き起こし、“統合”を忘れていると指摘し、そのような人は複雑性の高まりという意味での「自己の進化」を放棄していると指摘します。

ひょっとするとチクセントミハイからすれば、過去に偉大な芸術作品を遺した芸術家たちも、十分な自己の複雑性を達成しなかったと考えているのかもしれません。ほとんど絵を売ることができず、家族を作れず、周りの人間関係も破綻した多くの芸術家が歴史には存在します。彼らはその作品の完成度から言えば、まさにチクセントミハイの言う「フロー」状態を達成し、そこから奇跡的な作品を生み出してきたといえます。しかしそのような芸術家も、自分の心身の健全さへの配慮を怠ったという点では、セックスや金銭・食事などに没頭した人たちとある面では同じになると著者は見ているのかもしれません。

最高度の芸術を追求し達成しながら身を滅ぼし他者との軋轢を繰返した人たちは、チクセントミハイの規準からすれば、十分な反省力を発揮してつねに“自己”をヴァージョン・アップさせることを怠った人であり、芸術と生活の幸せの両立という人類の新たな課題に挑戦しなかった人たちです。著者から見れば多くの芸術家は、ただ自分の特定のフロー領域に没頭し、他の可能性が見えなくなったという点で、自己の複雑性の高まりをストップさせた人になります。

それに対し、つねに自己の複雑性を高めようとする場合、好きな領域での「フロー」状態を目指すと同時に、自分にとって不可欠な領域での自分の対応力を高めようとします。それは経済力であったり、家族との結びつきであったり、他者への配慮であったり、社会全体の発展という価値へのコミットであったりします。

おそらく著者は、人は「フロー」の状態を経験するほど、愛他的な態度を身につけると考えています。「フロー」とは自分の外にあるものや他者を「利用(搾取)」しなくても生きていく状態であり、それだけ他人を気遣うだけの心理的余裕をもつことができる状態です。多くいの芸術家が愛他的(altruistic)な理念をもつのはこのことに由来します。ただ同時にその芸術家の多くが、実生活上の身近な問題や人とは葛藤・軋轢を多く引き起こすのは、創造性と経済的実践力とを同時に達成するだけの自己の複雑性が達成されなかったからであり、おそらく今でも達成している人は少ないでしょう。

「自己」の歴史はいまだにこの問題に直面していると言えます。現代でも多くの人は自らの創造性を発揮させるチャンスと経済的な自立の両立が困難であることに悩み、どちらか一方を諦めます。先進国の戦後の経済発展では現在の初老の多くの人は経済的な活動にいそしんできましたが、それは自己の創造性の犠牲の上に成り立っていた面が多いのだと思います。それに対して以下の世代は創造性の追求に挑む人が増えたかもしれませんが、多くの人は経済的な豊かさと両立することはできていません。

おそらく現代における「ニート」「ひきこもり」「フリーター」の増加は、親の世代が犠牲にしてきた創造性の追求を自らが実践したいという欲求と、社会の体制がそのような創造性の追求を許容するだけの余裕をもたないことの狭間で引き裂かれている場合が多いのだと思います。


チクセントミハイは以前の著書でも、スポーツ選手などへの聞き取り調査などから「フロー」状態を考察すると同時に、その「フロー」の状態を達成するために社会ができることは何かを仄めかすように提言していました。

この本は、具体的な提言はまだ少ないですが、「フロー」な心理状態を理念型として、それと比較することで現実の社会の状態を眺めている本です。抽象的な言葉がまだ多いですが、彼のほかの本と比べても、より社会思想家としてのチクセントミハイが押し出されています。またフローな状態を社会に広げるために彼が関わった教育改革“Key School”なども少しだけ紹介されています。

「フロー」に関する研究が、単なる特定の活動に関わることではなく、社会に生きる人々全体の考察にも応用できる可能性を、これまで以上にこの本は示唆しているのではないかと思います。


参考:『フロー体験 喜びの現象学』 チクセントミハイ(著)





写真:歩道の上の木漏れ日

『マネーセラピー』 栗原弘美・鷹野えみ子(著)

2007年04月02日 | Book



心理トレーナーの栗原 弘美さんと鷹野えみ子さんが書いた『マネーセラピー』という本を読みました。

お金と感情との関係が扱われている本です。人がお金と接しているときどういう感情を持っているのか、またその感情はどういう経験に由来するのかが分かりやすく説明されています。

お金がないというのは単なる事実なのですが、お金がないことが「問題」になるのは、「お金がないことは不幸だ」という観念を人がもっているからです。実際お金が全くなければ生きていくのは困難なのでそれはまったく間違った考えだとは言いづらいのですが、「お金がないから不幸だ」と言い続け、なおかつ状況を変えるための行動を起こさないのは、ある種の心理の働きが影響していると考えられます。

それは、自分はお金を得るには価しない存在だという観念だったり、お金を得て幸福になってしまったら親への復讐が果たせない、それよりも不幸になることで親に罪悪感を味合わせてやるという観念を持っていたりすると、人は表面上の「お金が欲しい」という意識にもかかわらず、知らず知らずのうちにお金のない状態を選んでしまいます。

本の中では、お金だけが自分を守ってくれると思っているサラリーマンがつねにお金に関する恐怖・不安を抱えている例を取り上げています。お金だを無駄遣いせず溜め込もうとするのですが、動機が恐怖・不安に拠っているため、積極的にお金を増やすための計画を立てたり、将来の年金などの具体的・現実的な知識はもっていなかったりします。

この人は表面上では「お金は大事だ」と思っているのですが、実際はお金に手をつけるのも怖がっている状態だと言えます。お金にまつわる恐怖が強いため、お金の具体的な動きから目を背け、ただ溜め込むという行動に執着します。

このようなお金への恐怖は日本人、とりわけ今の60代以上の戦後を生きぬいた人たちによく見られる心理ではないかと思います。欠乏から豊かさへと変貌していく社会の中で、その流れに遅れまいと必死に働いてきた人たちは、倹約によって溜め込んで豊かになろうとした人たちが多いのではと思います。


本の中では、そのような感情とお金との関係の色々な例が取り上げられているのですが、私にとっては「依存」状態の人がお金と取り組むべきポイントを述べた部分が面白かった。

「依存」とは端的に周りに頼って生きている状態です。分かりやすいのが子供ですが、大人になっても周りに依存している人はいます。経済的に親や配偶者に「依存」している人もいるし、会社や国家に依存している人もいます。

おそらく、単に経済的に周りに援助してもらっているだけでは「依存」とは言わないのでしょう。むしろ「依存」とは、周りに頼りながら、その周りの人たちに対する攻撃心と罪悪感をもっている状態のことを指します。

例えば幸せな主婦の人は、「依存」とは言えないように思います。たしかにお金を稼ぐのは夫なのですが、それでもその妻と夫との関係は対等だし、自分のいる場所が正しいことを二人とも了解しているのです。夫は妻がいてはじめて自分が幸せに暮らし働けることを知っているし、妻は夫がいてはじめて幸せな家庭を営んでいることを知っているのでしょう(もっとも現実にそこまで至る夫婦は少ないかもしれませんが)。

それに対し「依存」している人は、自分に経済的援助をしてくれる人に対してどこかで恨みや敵意をもっています。

例えば子供であれば、普段の食事を与えてもらっているにもかかわらず、「あれを買ってくれなかった」「やさしくしてくれなかった」という想いを親に対してどうしても持ちます。自分が無力な分まわりに大きな期待をかけるので、その期待が破られた分ハートブレイクが大きくなり、どれだけ与えてもらってもストレスの状態にあります。

多くの人はこういう体験を大人になるまで抱えて生きます。すると大人になってからも親に迷惑をかけようとします。「ニート」「ひきこもり」になるのは、こうしたハートブレイクの体験が尾を引き、子供のころに面倒を見てもらえなかったという想いから、大人になっても親に過去の償いをさせようとコントロールのゲームをしている部分もあるのだと思います(もっとも、それだけでは「ニート」「ひきこもり」は説明できないようにも思うのですが)。

またある人は、そのような過去の傷心の体験を乗り越えるべく自分で稼ぐ道を選択します。しかしある人は、周りに自分の世話をしてもらいたいという期待を持ち続けるため、会社員や公務員になって組織に自分の面倒をみてもらいたいと強く願い続けます。親の加護からは脱することができたのですが、周りに世話して欲しいという期待は持ち続けるため、今度は組織に依存するようになります。子供の頃は親のためにいい点を取って世話してもらおうとしましたが、今度は組織のために働いて面倒を見てもらおうとします。

また別の人は、男女問わず、配偶者や恋人に経済的に面倒を見て欲しいという欲求を抱えます。自分自身が相手の欲求・期待を満たすことは拒否しながら、自分のニーズは相手に満たしてもらおうとします。

このような依存状態を解説した上で、著者たちはこの段階を切り抜けるためのポイントを次のように述べます。

 「この段階では、自分の幸せはまわりしだいという感覚が強く、うまくいかないことがあると被害者になりがちです。しかし与えられた環境の中で、努力をすること、工夫することが大切です。自分の力でできることをやっていくこと、責任を認識することがカギです」(p.127)。

 お金に関して言えば、「物の値段を知る、税金の仕組みを知るなど知識を蓄えること」などが大切だと説かれています。

よく「子供には自主性を重んじよう」という教育論を聞きます。もちろんそれにも深い洞察があるのでしょうが、子供・大人にかかわらず「依存」の段階にいる人に必要なのは、まず現実原則を認識することなのでしょう。

たしかに現実の枠に囚われない創造的な活動はこれからますます必要となってきます。しかし創造的な活動は、社会の規則を受け入れて自分を自立させることによって初めて可能になります。新しい秩序を生むには、まず既存の秩序を学ぶことで、(たとえ不完全でも)秩序というものが自己の存在を成立せしめてくれることを認識した上で、よりよい秩序・あるいは別の秩序が必要であることを認識することによって生まれます。

そのような秩序の必要性を理解せずに、ただ現実の秩序が自分の欲求を適えてくれないからと拒否していると、人は自分で新しい秩序の段階に進むことはできません。

また同時に、既存の秩序に絶望して、自分の創造性を発揮させることを諦め既存の秩序に全面的に服従することも、新しい秩序の創造にはつながりません。それは結局既存の秩序に恨みを抱えながら生きることになります。

著者たちはこのような状況を切り抜けるためにも、既存の秩序=自分が子供だった頃の大人の気持ちや社会のあり方を理解し、また受容することの大切さを説きます。

「ほとんどの親はベストを尽くし、子供を養育しています。子供が小さいうちに家庭の方針や事情を理解し、それを受け入れるように援助しましょう。またあなた自身も、自分自身のこと、家庭の過去や現在を、丸ごと受け入れる勇気を持ちましょう。まわりを変えようとあがくのをやめ、自分を輝かせることにコミットメントすることで、稼ぐ力を蓄えていくことができます」(p.131)。

究極的にはお金の問題は、親との関係の問題だといえます。私たちは誰もが最初は親からしかお金をもらえないので、お金に対する想いは親との関係にもとづきます。つねに親からお金を貰うことを期待し続ける人は、大人になってからも親や組織や配偶者からお金を貰うことを期待し続けます。

しかしそのような期待には、その期待が適えられなければ親を恨むという心理の働きが隠されています。期待と裏合わせの服従なので、服従しながらも親・組織・配偶者などにつねに敵意を持ち続けます。つねに「~して欲しい」という相手を食い尽くすような依存心が隠されています。そのような期待が破られたとき、私たちに必要なのは親の事情を理解することなのですが、大抵の人はそれができません。

そのようなハートブレイクを味わった人の一部は、もう親のことなどどうでもいいから、お金は自分で稼ぐ!と強い決意をもちます。もう誰にも頼らずに一人で生きていくという決意です。猛烈サラリーマンやベンチャー起業家に多いタイプなのでしょう。

しかしそれらの人たちは、自分たちの「~して欲しい」というニーズを意識の奥に押し込めて活動しているだけで、そのニーズが適えられなかったときの傷心にちゃんと向き合っていません。自分の傷心の記憶には触れたくないため、「強い自分」を演じようとします。そのため、不必要に周りの人を傷つけ、トラブルを引き起こします。

元ソニー役員でCD開発者の天外伺朗さんは、現在名前が知られている人やリーダーの立場にある人の99%は「闘っている」と指摘していますが、それはこのような自分の子供の頃の傷心に向き合っていない人たちのことを指しています。

この人たちは、親に頼らずに行動すること自体は「正しい」のですが、親を許し理解した上で行っているのではなく、親に期待を満たしてもらえなかったという絶望を抱えながら行動していています。そのため無理のある「強い自分」の理想像を描き、その理想に近づくために他人を利用し、また他人を蹴落としたりします。

そうしたトラブルに見舞われていくうちに、大抵の人は、やはり過去のトラウマに向き合うことを余儀なくされていきます。


この本には他にも感情と仕事との関係など面白いことが書かれてあるのですが、やはり核になるのは、このような子供の頃の親とお金にまつわる体験がその後のお金をめぐる観念の基礎になっているという洞察だと思います。

私自身は頭では分かっているつもりでしたが、こうやってあらためて感想を書いてみることで、何か気づきが得られたようにも思います。



写真: 住宅街に差す光