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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『子どもの右脳を鍛える作文練習帳』 七田眞(著) 2

2007年04月29日 | Book
昨日のエントリー『子どもの右脳を鍛える作文練習帳』 七田眞(著)を書き終わって、一日経って想ったこと。

たしかに思考を転換させるには様々な言葉を知っている必要があります。頭に大量の知識が入っている方が、物事を多面的に考察することができます。

それはそうとして、じゃぁ、知識がたくさん入っている方が、自分の感情に流されずに物事を客観的に判断できるようになるのだろうか?

それはたしかにそうかもしれない。

じゃあ、なにがひっかかっているのだろう?

要するに、上の考え方だと、頭のいい人ほど感情的に成熟した人間になる、そういう考え方につながるような気になって、そこがひっかかったのです。

上記の本で七田さんは、家庭での言葉が少ない子供ほど、知能が発達しなくなりやすいと述べています。例えば「早くしろ」「勉強しろ」「ばか」とばかり言われて育った子供は、こうした早急な判断を下す言葉ばかり頭にインプットすることになります。そうなると、立ち止まって考えようにも、考えるための道具=言葉を知らないことになります。すると、自分で考えをひねり出そうにも、自分では何も考えられない大人になりやすい。

こうしたことの公的な統計調査はないでしょうが、それでもこれは説得力のある洞察だと思います。

ただ、じゃあ多くの知識をもっている人は、必然的に物事を客観的に理解する人間になるのかと言うと(七田さんがそう言っているかどうかは分からないけれど)、それはどうなるのだろう?

たしかに、これは上でも言ったように、自分なりに客観的に物事を分析できる人になると思う。

じゃあ、僕が何に引っかかったのかと言うと、大切なのは物事をどれだけ正確に客観的に分析できるかどうか以上に、自分の意見を抑えて他人の話を聴くことができる人間になれるかどうか?ということだと思う。

多くの知識を吸収できる人間が、他人の意見に耳を貸せる人になれるのかどうか。また、安易に他人を感情的に裁かずに、より相手の動機を理解しようとする人間になれるのかどうか。

現代は教育が発達して頭のいい人がとても多いけれど、自分を抑えて相手の話を聞くだけの成熟した感情をもつ人がそれに比例して多いのかと言われると、よくわかりません。

言葉や考え方を多く知るということは、それだけ複雑に物事を考えるチャンスが増えることを意味します。ただそれは、どうしても自分の意見に固執する危険を生むようにも思います。どれだけ言葉や考え方を知っても、それを自分のエゴを強化する方に投資してしまうのです。

多くの言葉や考え方を知っていても、それが自分の感情を抑制して物事を考える方に向かう場合もあれば、“我”を通すために理論武装するという方に向かう場合もあるように感じるのです。

すると、結局一番大切なことは、自分の感情に振り回されずに、自分の感情に触れながら、どれだけ他人の感情に配慮するようになれるかということになります。

そのような人になるために、またそのような人を育てるためには、何が一番大事なのかは、私にはまだ分かりません。