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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『「意地」の心理』 佐竹洋人・中井久夫(編)

2007年04月11日 | Book



「意地」の心理 という本を読みました。4人の家庭裁判所調査官と2人の精神科医による共著です。印象としては、家裁調査官が離婚調停などに携わった経験から、人間の「意地」とも言うべき心理現象の特徴をまとめたものが中心になっています。ざっと読んだ印象から、ほぼ共通して述べている「意地」の特徴について感想を述べてみたいと思います。

まず、というか、やはり、というか。「意地」とは相手があって初めて成り立つ心理だということが分かります。

「意地になる」というと、執念や根性などの激しい頑張りを思い起こします。例えば、甲子園を目指したり、受験勉強に集中したりすることも、言いようによっては「意地」だと言えます。

しかし著者たちの多くは、単に頑張ったりすることと「意地」とは区別したほうが、より人間の特異な心理現象を分析できることを指摘します。

甲子園を目指したり受験勉強を頑張ったりすることは、それ自体は極めて能動的な行為です。それは、自己の能力の限界を試そうとしている点で、自己完結的な行為になりえます。

しかし家裁調査官は、離婚調停などに日々接するなかで、人間は他人・相手があって初めて感情を強固に注入して行為に及ぶことがあることを指摘します。端的に言えばそれは、配偶者と結婚生活が破綻した際に、相手を困らせるために、決して離婚に応じなかったり、あるいは何とかして離婚しようとする行為・決意に表れます。

意地とは自分の身が滅んでも相手を負かそうとすること

離婚調停などでは、相手と離婚したいor相手と絶対に離婚したくないという意思が、相手と意思とは無関係に存在するとは考えにくいことが、調査官たちの記述からは窺えます。むしろ、裁判所による調停に持ち込まれた家庭の不和では、まず最初に相手である配偶者とは反対の意思表示をして、相手を困らせたいという動機が当事者たちにあるようです。

離婚という作業は、単にお互いが合わなくなったから別れるという単純なものではなく、相手と心理的に競争するという状態がある期間続いている状態です。傍から見れば、嫌いなんだから別れればいいじゃないと言いたくなります。しかし本人たちは、恋愛感情のあるなしに関わらず、「相手に負けたくない」という競争状態にあり、本当に相手と関係を続けたいのかor別れたいのかという本人たちの意思以上に、まず相手に負けたくないという競争心が前面に出てきて当事者たちの行為をコントロールしていきます。

「意地になる」ということは、まず相手・他人を負かしたいという動機が根本にあり、そのためであれば結果的に自分がどういう状況になるかという客観的な考量は入る余地がありません。

離婚するなら早く整理して新しい生活を始めたほうがよいし、やり直すなら一日も早く一緒に生活するのがいい。それは頭では誰でも分かります。

しかし当事者たちにとっては、自分たちにとって何が本当にプラスになるのか?を考慮する感情的余裕がすでになくなっています。彼・彼女たちにとっては、相手に負けないこと・相手に屈辱を味合わせることが最大の目標となっており、そのためであれば自分たちの身が滅ぶのもいとわないような心理状態になっています。極端に言えば、競争している相手と無理心中するのもいとわないというのが「意地」の実態です。

意地とは「正義」の看板を掲げるもの

また「意地」になっている人たちに共通に見られる言動の一つは、自分たちの主張を道徳的に正当化しようとしていることです。

ただ単に自分は相手と競争していて、相手を負かそうとしているだけだと腹の底から納得できれば、その非合理さに自分で自分を笑う余裕も生まれるかもしれません。しかし「意地」になっている人は、自分たちの主張は道徳的に正しいのであるから、自分たちが譲るいわれはないし、自分の身を滅ぼしてもその正義を貫くのは価値があると考えています。彼らは、そのような「正義」は、自分の競争心は子供のわがままとは違って、大人に相応しい意見なのだと主張したいのです。

そのことは、じつは彼ら自身が自分たちの主張の根底に単なる子供の駄々があることを知っていることを示しています。だからこそ彼らは、その主張を押し通すには、それが子供のわがままではなく、大人に相応しい立派な意見なのだと見せる必要があるのです。

こうした「道徳的正当性」を前面に押し出す際に、それが他者への攻撃を含んでいるとき、その根底には単なる「意地」があります。また同時に、それが単なる「意地」であり競争心であることを認めることを怖れるとき、「正義」という仮面をつけることで、自分の本当の動機を見る勇気を持たなくてすむようになります。

こうしてみると、いわゆる知識人の「議論」「論争」というもののほとんどが、その根底に「意地」があることが分かります。

「議論」「論争」とは、細かい事実のすり合わせによって、自分の正しさではなく客観的な正しさの追求のために相手と協力して行うというのが、その理想の姿です。しかし本当にその作業を行えるだけの感情的な成熟さを持ち合わしているのは、私の印象では極めて稀か、あるいはそういう人は存在しません。むしろ、感情的に成熟している人は、自分にはそのような理想の議論を行うのは無理だと判断して、意図的に「議論」「論争」というものを避けるのではないかと私は思います。

執筆者の一人・精神科医の中井久夫さんは、「正義」をめぐる論争と「損得」のそれとを比較して、次のように指摘しています。

「損得にもとづく打算は、(結果的に得られる利益を重視するために妥協が可能であるという点で)正義や善悪にもとづく議論よりも一般に成熟したものである。後者(=正義や善悪にもとづく議論)、そして後者のみが、一方が正しければ他方が不正であり、一方が勝てば他方が敗北し、屈辱を味わうという、食うか食われるかの、平衡に達する可能性の低い、未熟な場である。正義原理にもとづく場の未熟性は、あまり知られていないので、是非一言しておきたい」(p.217)。

知的であることが道徳的な優秀さをも示すと私たちは考えがちです。しかしそのような思い込みによって、私たちは自分の正しさを主張するために相手よりも自分はものがわかっていることを必死で証明しようとし、結果的に他人を傷つけたりします。しかし、本当に道徳的に正しいことというものがあるとするなら、それは誰もが心理的に勝てるような状況を作り出せることではないでしょうか。

「意地」は平等主義を生み、平等主義はいじめを生む

「意地」とは、結果的な幸せや豊かさではなく、相手に心理的な傷を負わせようとする必死の行為です。そのように「意地」になっている人の腹の虫を収めるには、「正義」がなされたという納得感を第三者が用意する必要があります。ここから、喧嘩両成敗という、分かるような分からないような理屈が出てきます。

当事者は、とにかく相手に敗北を味あわせることが最大の目的となっており、そのためには身を滅ぼすことも厭いません。

そのとき、第三者であり、権威・父性を表すような人(裁判官、専門家、精神的指導者など)が、「喧嘩両成敗」としてお互いに非があると諭すと、当事者は「自分にも非はあるかもしれないが、相手にも非はある」ということが公けに認められることに安堵を覚える場合があります。これは、「意地」というものは、根本的には単に「自分の言い分を分かって欲しい」という子供のような駄々であることに由来します。根本は他人に言い分を認めてもらいたいという欲求であることから、なんとか自分の体面が保てる形で相手にも非があると認定されることで、和解に至ります。

相手を心理的に負かしたいという欲求と、自分は道徳的に勝者でいたいという欲求から、権威を表す人がすべての当事者を罰するという形で物事が決着する場合があるのです。そこでは、権威が正義をなすことによって、すべての人が損をします。損をしますが、正義が行われたと同時に、自分の主張も一部認められることになります。

中井久夫さんは、そのような平等主義が日本の江戸時代には支配していたと指摘します。

意地とは「道徳」という形をとった心理的な競争です。「道徳」とは、キリスト教においても、日本の民衆文化においても、特別に目立つ者・秀でる者を引っこ抜いて、「平等」を達成するという現象となって表れます。したがって、「意地」による「道徳」的競争は、相手が「トクをしている」部分を弾劾する形を採ります。それは、「相手はずるがしこいことをしてトクしている」という主張になって表れます。

浮気をした人は、恋愛・セックスを人より愉しんだことで妬まれ攻撃されます。お金を儲けた人は、その努力を顧みられずに、稼いだ額だけ指摘されて断崖されます。日本では、年収数千万の国家官僚・大企業エリートの存在は許されますが、年収数億以上の企業家がそのことを自慢すると、世間の非難の的となり、メディア・司法による攻撃を受け、実刑判決を受けます。アメリカでは、政治家の浮気は政治生命を絶つことになります。

平等主義は、特別なもの・異なった者を排除することで成り立ちます。“いじめ”という行為も、自分はマジョリティであることを心理的に確認するための民衆による儀式という面があります。“いじめ”を受けた者が自らも“いじめ”を行うのは、自分はマジョリティであることを必死で証明したいからでしょう。

2005年に行われた衆議院選挙は、どちらがマジョリティであるかをさまざまな陣営が競った選挙でした。“抵抗勢力”という呼び方自体が、自分は時代・歴史の流れの勝者であることを示そうとする「意地」の表れでした。また時の首相を「ヒトラー」と呼ぶのも、そう呼ぶことで相手を道徳的に貶めようとする「意地」の反撃でした。

こういった光景は決して日本独特のものではないと思います。それは、民主国家・普通選挙制を採る国家に共通して見られるものだと思います。「意地」とは、平等主義・民主主義と強い親和性をもつ心理状態です。

またその民主主義・平等主義は、権威となる父性的な人が前面に出てくることで、「俺たち民衆はみな同じだ」と人々が思うことによって支えられます。

何度も繰返しますが、「意地」とは道徳的に相手を負かそうとする非合理的な感情です。この「意地」は、近代社会の特徴である普通選挙制・民主主義・平等主義と結びつきやすい。どちらが卵でどちらが鶏かはわからないけれども。



写真:夕暮れの通り