『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』 1 からの続き
伝統、儀礼、守護者
このように「専門家」の有する専門性が疑わしいものとみなされていることこそが、現代社会の大きな特徴の一つです。では、その専門性は過去においては何によって保証されていたのでしょうか?
過去すなわち「伝統社会」(この定義がどれほど曖昧でも、とりあえずここではこの語を使う)において「専門家」の役割を果たしていたのは、ギデンズによれば「守護者」でした。
現代社会における専門家の専門性は、主にテクストの権威によって支えられています。法曹家や医者、また各種の学位がその免状を与えられるのは、主にはペーパーテストを通して文字による知識をどれだけ体系的に理解しているかに拠っています。しかし同時に「一般の人」の専門家に対する疑いも、専門家としての資格が状況・文脈を無視するテクストに拠っていることに由来しています。
それに対して伝統社会では、「守護者」の権威はその人物が占めている「身分」に依拠していました。その人の発する言葉が正しいのは、その言葉が何らかのテクストと整合しているからではなく、まさにその人がある「身分」であるがゆえに正しいとされていました。「再帰的近代」においてはテクスト・文献が示す知識がつねに修正されていくのに対し、伝統社会では、ある知識の正しさはそれを口にする人の身分に拠っていたため、反証が不可能なものでした。
伝統社会では、「真理」とは文字によって示されるのではなく、それを口にする人のまさにその発話行為によって示されます。言葉の内容ではなく、まさにその人(=守護者)が話し身振りを示すその行為全体が、何らかの「真理」を表すと受け取られました。
これは一見非合理的に見えますが、必ずしも個人の恣意が「真理」に影響しているわけではありません。その個人が「真理」を体現することができるのは、その身分に位置しているからであり、その守護者はつねにその身分にある者として振舞うことを強いられます。その守護者が体現するのはその身分が有する真理保有の権限であり、彼or彼女自身がその真理を勝手に作りかえることは、必ずしも簡単ではなかったのだと私は思います。
ギデンズは伝統が伝達される過程を次のように描写しています。すなわち、伝統が伝達されるのは、ただ惰性的に後世に伝えられるのではなく、当事者たちが記憶をたえず能動的に再生産していくからです。たとえ内容は同じでも、それを維持しながら後続の世代に伝えていく作業は、意識的に意図されることによって初めて可能となります(p.120)。
伝統として当事者たちに「記憶」されることは、単に覚えたことを「想起」することとは異なります。想起が無意識のうちに思考に上るものを指すのに対し、「記憶」は意識的に言語化・記号化されるものです。
伝統社会では、比較的時間をもつ身分である守護者が、その身分的特権により、伝統の細部について確認する権限を有します。この確認・解釈作業にどこまで恣意が入り込むかは分かりませんが、おそらく主観的にも守護者たちはその記憶の確認作業に個人的な感情をはさみ難かったのではないかと思います。伝統社会のおける儀礼とは、そのように確認された記憶を社会全体に対して再演する行為です。それにより守護者の確認作業が正しいものと認められます。この儀礼は、単に惰性的に行われるのではなく、ある記憶を「伝統」として認めていく意識的な行為です(p.120)。
この儀礼が示す「真理」に対しては誰も反駁することはできません。そのような「真理」を検証する権限は守護者だけがもつからです。しかし守護者もまた、その「真理」が「真理」であることを自分の中で確認するためには、それが伝統にのっとっていることを自分の中で確信しなければならなかったのだと思います。ある「真理」が真理として認められるのは確かに絶対不可侵の有する守護者の権限が必要だったのですが、その守護者自身もまた「伝統」と自己の知識との突き合せを強いられていました。このことをギデンズは次のように説明しています。
「伝統の守護者は、それが長老であれ、治癒師や呪術師、宗教上の職務執行者であれ、伝統のなかで重要な行いを果たしていくが、それは、その人たちが伝統の有す原因力の作用主体、つまり原因力の極めて重要な仲介者であるからである。この人たちは秘伝の配り手であるが、この人たちのもつ秘儀の技能は、この人たちが秘密の、ないし秘伝の一連の知識を習得しているからというよりも、むしろ伝統の有す原因力に深く関与していることから生ずるのである」(p.123)。
また上で述べたように、この秘儀を仲介する権限は、まさにその守護者がその身分にあるという事実に由来していました。
しかし、ではこの「伝統の有す原因力」とは何か?という問いが出てきます。守護者自身が「何かの現実に対する適切な理解がその人の頭のなかにある人間ではな」いにもかかわらず、民衆をしてそれを伝統と認めせしめる「原因力」とは何なのか?
ギデンズによれば、伝統には「規範性」なり「道徳性」というものが含まれており、つまり伝統は習慣的になされる事柄(だけ)ではなく、「なすべき」ことをも示しています。この道徳性は人々に「何らかの生きていく上での安心感」をもたらすゆえに、伝統は人々に絶えず受け入れられていきます。その安心感のゆえに人々は伝統に対して感情を投入してそれを維持しようとします。
しかし、伝統がこのような感情移入によって支えられていることは、利点であると同時に伝統が絶対的に堅固ではないことをも意味します。「なすべき」ことを伝統という外的からの指図によって与えられて安心感を得ようとすることは、その裏には不安感があることを示しています。伝統の崩壊という事態は、それが示す「なすべきこと」を人々が無条件には受け入れられなくなったからです。
現代の専門的知識と同様に、過去の伝統も決して堅固なものではありませんでした。むしろ伝統は人々の異議や不安を無理やり押さえつけることで成立したのであり、何かのきっかけでその異議や不安が噴出したとき、伝統はその力だけで人々を押さえつけることは不可能でした。
知恵、秘伝、信頼
ところでギデンズは伝統の真理性が守護者の身分に拠って保証されることを強調する一方で、同時にその反対のことを、すなわち伝統の真理性が(ギデンズ自身は明示的にそう言っていないのだけれど)守護者自身の能力にも依存していたことをも示唆しています。
例えばギデンズは、伝統的知識の有す真理性が、守護者などが有す技能に依存していた事例を指摘しています。
「(伝統社会における)大多数の技能は、熟練を要す技巧であった。これらの技能は、見習い奉公や実例を通して教え込まれていくため、したがって、こうした技能がみずからの一部として権利主張していく知識は、秘密の、秘伝のものとして保護されてきた。被技は、駆け出しの新規参入者に対し奥義伝授を強要する。したがって、熟練を要す技能の持ち主は、たとえそうした技能が伝統という社会の明らかな幻影から相対的に隔離されている場合でさえ、事実上守護者になることが多い」(p.152)。
そのような技能の例として、狩猟社会における秘伝が紹介されます。
「クン族の男たちは、砂地の上に残る足跡から、その土地に生息する動物をすべて特定することが可能であった。クン族の男たちは、その動物の性別や年齢、どのくらい足速く移動しているのか、健康状態、さらにどのくらい前にその地域を通過したかを推測することができたのである」(p.152)。
この例は、伝統社会における技能・秘伝・真理が、(ギデンズ自身がどこまで理解しているかは疑問ですが)必ずしも守護者の身分に依存するわけではなく、むしろその知識の現実的有効性に対する人々の信頼によって支えられていたことを示唆しています。生きるか死ぬかという状況においては、その技能の現実的実効性だけがもっとも問題になります。このような技能は、身分によって効力を持つ儀礼とは異なるものです。以下の記述も同様のことを示しています。
「伝統の守護者には、その人の専門分野がある。だからたとえば、職人の技能や位置づけは、聖職者のそれとは通常まったく別個のものであった。とはいえ、専門分化された知識の所有者である伝統の守護者は、決して純然たる「普通の人」になりきることはできなかった。その人たちが「知恵」を有していることは、その人たちに共同体全体に通ずる独自な地位をもたらしてきた」(p.167)。
伝統の「知恵」と対比されるのが、近代以降の社会における「専門的知識」となります。「知恵」がその職人の能力と分かちがたく結びついているのに対し、「専門的知識」は非人格化され、誰もが近づくことができる、そうギデンズは説明します。例えば、理屈の上では、誰もが司法試験を受けることができるという意味で。
「専門的知識」の最大の特性は、それがつねに懐疑にさらされ、再検討されていくことです。上で述べたように、現代は専門家の専門性が激しく疑われている時代です。専門家の数は大量になっているのですが、科学的知識は変化する現実に追いつけないため、つねに知識は修正されていきます。
近代以降の専門知識がそのように修正を余儀なくされるのに対し、伝統の知恵は、社会の変化が緩慢であったがゆえに、一度確立し人々に真と認められると、ゆるぎない地位を保つことができました。
しかし、この「知恵」と、ギデンズが最初に提示した伝統の「定式的真理」、すなわち儀礼によって示される真理とは、異なるものです。儀礼は、それが現実的有効性をもつからではなく、「なすべきこと」という道徳性を頭ごなしに提示し、また一定の身分にある守護者によって提示されることでその真理性を認められました。それは、なぜそれが真理なのかを問われないからこそ、真理の地位を保持し続けることができました。この儀礼による真理の提示が、現実との接触を失っていることをギデンズも指摘しています。
「認識すべき重要な点は、儀礼がまた、毎日の活動の実務から程度の差こそあれ明確に切り離される傾向があることである」(p.121)。
上で、伝統はつねに意識的に検討され解釈され伝達されていくことを述べました。このような意識的な作業は、日々の具体的活動と切り離された、いわば「頭でっかちな活動」です。それに対し、熟練によって獲得される「知恵」は、その真理性を現実的な有効性によって保証されています。
私には、伝統社会におけるこの儀礼と知恵との相違は、現代社会にも持ち越されているように思います。
ギデンズは、伝統社会の定式的真理とは異なり、現代社会の専門的知識は非人格化され、たえず修正されることを強調します。ギデンズは、現代社会の知識のこの修正可能性は、現代では専門知識が、ローカルな状況に依存する知恵とは異なり、科学的知識としてテクストの上で定式化され、それゆえに場と時間に拘束されずに再検討されることが可能であることに由来すると指摘します。
この指摘自体は正しいとしても、おそらくこのような「修正可能性」は、必ずしも知識と現実との接触を促す効果はもちません。たしかにこの「修正可能性」により、知識は万人が近づくことができ、公開の場ですべての人によって議論・再検討されることが可能になっています。しかしそのような修正を経たとしても、専門知識がテクスト上で示される定式として示され続ける限り、それは無限に修正を重ねるだけで、人々の信頼を専門知識が獲得することはないでしょう。
多くのシンポジウムが開かれ、そこに「一般の人」がどれだけ参加しても、そこで提示された批判・意見によって修正された知識は、テクスト上の「新しい知識」として示され、その批判・意見が提出された場・時間すなわち状況を無視して定式化されます。その定式化された知識は、別の場・時間・状況で湧き起こった問題には対応できず、そこでまた知識は修正を余儀なくされます。
私には、そのような無限の修正要求が沸き起こる構造こそが、専門知識に対する人々の無限の要求と不信を増幅していく原因のように思います。
またこのように無限に不信を生む構造のゆえに、ギデンズが指摘するように、現代の専門家は自分の履歴に資格証明書や学位を付けることで、自分の権威を何とかつなぎとめようとします。それは、かつての伝統の守護者が自分の託宣の真理性の根拠を自分の身分に求めたことに似ています。
伝統社会における守護者が示す儀礼的真理にしても、それはギデンズが指摘するほど人々に安心感をもたらしていたのかは、疑わしい。単純な例ですが、中世の魔女狩りや宗教改革をみればわかるように、「伝統社会」における真理もつねに人々の不信と不安をむりやり押さえつけるだけの効果しか持ちえなかったのであり、それに対する疑いが出るや守護者たちはヒステリックな行動によって自らの権威を脅かすものに攻撃をしかけました。
それに対し、現実的な有効性を示す「知恵」は、単に「なすべきこと」を示す儀礼的真理とは異なり、人々に自然に納得して受け入れられていたものです。
この「知恵」の有効性は、おそらく現代の専門家にもあてはまるはずです。私たちが専門家を不信の目で見つめるのは、その専門的知識が現実との関係を失っているにもかかわらず、その専門家が自らの権威を資格証明書に求めるときです。それに対し、本当に私たちが専門家を信頼するのは、その専門家が個人的能力を実際に示して現実的な実効力を体現したときです。このような専門家に寄せる信頼は、おそらく近代以降の社会における専門的知識の有す修正可能性などとは関係の薄いことです。
知識の修正可能性と脱状況依存性という特徴は、それ自体は間違いではなくとも、知識が私たちにとって持つ意味という問題を考える際には、ギデンズが考えるほど中心的な問題ではないように思えます。
専門的知識の修正可能性により、すべての人が知識について公開的に討議し、それによって専門家と一般の人々の間に信頼が生まれるというモデルは、ギデンズやベックが考えるほどには、理想的な状態ではないと私は思います。そこには、いかにもヨーロッパ的な「自立した個人」「市民社会」「公共性」などの古い理念を現代において復活させようという意図も感じます。そのような明証的な議論の積み重ねによって安定した社会を築けるという理念を、彼らはどこかでもっているのではないかという印象が私にはあります。
しかし私には、実際に必要なことを、「知識」をもう一度、状況依存的な「知恵」に転換させることではないかと思います。状況依存的な「知恵」はテクストによって定式化されるのは困難であり、まったく違う場で討議の遡上に載せるのも困難になります。またすべての人がそれに意見を加えることも困難になります。
しかし、「自立した個人」がそれぞれ意見を言い合うというヨーロッパ市民社会のモデルでは、状況依存的な「知恵」がもつ現実的な有効性を信頼するだけの心理的余裕をもつことはできないのではないか、というのが私の印象です。
状況依存的な「知恵」を尊重することは、年長者・経験者を尊重することです。それには権威との葛藤を乗り越えることが個々人に要請され、簡単にはすべての人が口出しすることは不可能です。
ただ、状況依存的な「知恵」は、身分によって示される伝統・儀礼とは異なるものであり、「知恵」はつねに現実的な有効性をもつものだということを理解するのであれば、それを尊重する姿勢は人々の間で育まれるのではないかと思います。社会秩序への信頼を取り戻すには、まずそのような態度が必要のように思いました。
写真:
銅像の前の自転車