joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『母と子のこころの相談室―"関係"を育てる心理臨床』 田中千穂子(著)

2007年04月17日 | Book



臨床心理士の田中千穂子さんが1993年に出した『母と子のこころの相談室―"関係"を育てる心理臨床』を読みました。7年後の2001年に第2刷が出ているので、少しずつ静かに読み継がれている本なのでしょう。

“心の専門家”が本を書くのは、じつはとても難しいのだと思います。“心”について語ることは、「自分は人間についていくらかのことを知っている」と言うことです。“心のメカニズム”は、それを学ぶまではなかなか気づくことができません。しかし、いったんその専門の世界に触れると、何かすべてを分かったような気にさせてくれます。他の分野の学問がそれぞれの個別領域だけを扱っていると自己限定しているのに対し、心理学は人の“こころ”の動きを扱うので、人間の根幹を理解したような錯覚に陥らせます。それゆえに私たち素人は、心理学をかじることで、他人より自分が優位に立ったような気にさせられます。

おそらく、心理学の“専門家”(たんにお金を得ているという意味ではなく)になれるかどうかは、身につけるべき知識を知った上で、なおかつ目の前の人の心理状態・雰囲気に対して真っさらな気持ちで向き合うだけのニュートラルな態度をもてるかどうかにかかっているのだと思います。

精神科医の神田橋條治さんは『精神療法面接のコツ』の中で、“医原症”という考えを提出しています。心理学などの氾濫で内省に耽り過ぎ、言葉の多さで余計に考えが混乱することです。また精神科医の中井久夫さんは、相手の心の動きを「見破る」のは、自慢すべきことでもなんでもないと語っています。

そうではなく、人の心は方程式に沿っているのではなく、その時・場に応じて絶えず変化しながら流れていること。その流れをつかむには、知識を持ち合わせながら、安易に相手の心理状態を自分の知識にあわせるのではなく、その時にだけ患者がもっている心理状態を察するだけの注意力が必要なのだと思います。

心理学の知識を持ちながら、つねに目の前の人の生身性に接しようとする態度、田中さんの本から感じることができるのは、そういう著者の謙虚でニュートラルな態度です。

田中さんは後に出された『ひきこもりの家族関係』の中で、現在の親の世代が子供の気持ち・感情に配慮することができず、つねに表面的な計算(具体的には経済的・家計的思考)だけで考え、子供をレールに上手く乗せようとコントロールすることを指摘しました。言わば神経症世代です。

それに対して現在の10代・20代(そしておそらく30代も)などの世代は、その親たちが失った感情を必死に取り戻そうとしている世代だということです。それゆえに、親たちがつねに子供に計算・行動を要求するのに対し、子供たちは計算・行動よりも、親の要求から自分の身を守り、自分の感情を尊重しようとします。その尊重の仕方が本当にベストの方法かどうかは分かりませんが、とにかく彼らはそうすることでしか、つねに行動を要求する親から自分の感情を守ることはできない、と思うほどにまで追い込まれています。

このように田中さんは、思春期の子供たちの診療にあたるときは、つねにその両親の心理的問題を考慮するのですが、その姿勢は1993年に出された本書の時から、と言うよりもそれ以前から一貫していたことがわかります。

つまり、子供の心の問題にはつねに親の側の焦り・無視などが絡んでいること。これは、単純に言えば「親が悪い」となってしまいますが、療法家にとっては誰が悪いかは重要ではなく、ただ子供の心の問題を見ていく上では、親御さんの心理的問題を同時に見ていく場合が有効なことを意味しています。

もちろん実際の治療過程では、相手を傷つけないようにする必要があるので、親に対して「あなたに原因があります」などとは決して言えません。また一人の療法家が親と子を同じ期間に面接することは、どちらか一方に感情移入してしまうともう一方を見捨てるという危険性を孕んでいます。

ですから実際の診療はケースバイケースで方法が選択されるのだと思いますが、ともかく両親の問題を見ていくことで、親と子の関係をより深く見ることになり、心の問題を関係性の問題として扱えることことができることを著者は指摘していきます。

この本は、悩んでいる人に安易な処方箋(「こうすれば上手く行く」のような)を提供するような本ではありません。著者の臨床の体験(おそらくプライバシーの保護のためにクライアントについての描写は脚色はされているでしょうが)を綴りながら、その時々に気づいたことを著者がメモしているという風情です。そのスタイルは、流行の心理学書とは正反対のものです。むしろこの本は、臨床家の著者の試行錯誤をそのまま語っています。

私はぱっぱっぱっと処方箋を提示するような心理学の本も読むし、そのなかに好きなものもあります。ただそういう本に比べると、著者のこの本は、より深刻に悩んでいる人に向けて書かれているのだと思います。

もうどこにも希望を見出せず、他人の安易なアドバイスを聴くことができない状態に陥った人を助けるにはどうすればいいでしょうか?それにはまず、「自分は答えを知っているよ」という態度を出さず、その人の話を聴いて、その人のこれからと私は付き合っていきますという覚悟を決めることでしょう。安易な答えは無いのだから、あなたと一緒に私は考えていきます、と決めることです。もちろんそこで治療者自身もクライアントの前で深刻に悩んでしまっては、クライアントは余計に絶望するでしょう。穏やかな楽観性で相手の気持ちを包みながら、同時に「自分は何でも知っている」という態度をもたないことです。

この書が提示している知識が学界の中でどういう重みをもつのか私には分かりませんが、著者が、クライアントと共に悩み、その人の傷の深さを感じることができ、同時に彼女または彼を利他的な親愛の情で包むことができる人であるように、読んでいて感じます。

2007年04月17日 | 日記



今年の桜の季節は、あまりいい天気が続かなかったかなぁという印象があります。曇りの日が多かった。でもこの季節は毎年天気の移り変わりが激しいから、こんなものかな。

『英文法絶対基礎力』 大西泰斗(著)

2007年04月16日 | 語学



大西泰斗さんが昨年に出した『ネイティブスピーカーの英文法絶対基礎力』の中で次のような説明があります。

すなわち、

英語とは配置の言葉

だということ。

たとえば日本語では、

「ジュンコに プレゼントを あげました」

でも

「プレゼントを ジュンコに あげました」

でも意味が通用します。

これは、日本語では「てにをは」によって、それが主語か目的語か補語かという機能が決まるからです。

しかし英語では、

I gave Junko a present.

または

I gave a present to Junko.

つまり、主語 動詞 目的語 (目的語)

という順番は絶対に守られなくてはなりません。

A present gave I to Junko.

では、普通は意味が通りません。

日本語では「てにをは」をつけることによって、主語か目的語か補語かが決まるのに対し、英語では言葉の並べ方によって、その単語か主語か目的語か補語かが決まります。

そこで僕が面白いなぁと思ったのが次の大西さんの説明。それは

Mary abc-ed Lucy an xyz.

という文章でも、ネイティヴな人たちはその意味をある程度類推できるということ。

これは、英語では

S(主語) V(動詞) O1(目的語 誰か) O2(目的語 何か) 

という配列になった場合、必然的に「SはO1にO2を手渡した(V)」という意味合いになるからだそうです。

例えば、

My sister got me Madonna's autograph.

のように。なので、

Mary abc-ed Lucy an xyz.

という文章でネイティヴは「MaryはLucyにxyzを与えたな」と類推するそうです。


この説明で私が思ったのは、自動詞(vi)か他動詞(vt)かという区別も、言葉それ自体が自動詞あるいは他動詞という意味をもっているのではなく、単に言葉の配列の習慣が積み重なったに過ぎないということ。

たとえば普通に学校で英語を習っていると、stand という動詞は自動詞として習います。

しかし辞書を引くと、standにも他動詞の意味がいくつかあります。

I will stand you dinner.

は、「夕食をおごるよ」という意味。

これは上で述べたように、S(主語) V(動詞) O1(目的語) O2(目的語)という配列になった場合、必然的に「SはO1にO2を手渡した(V)」という意味になるので、

stand sb(誰か)sth(何か)

で「誰か」に「何か」をstand(おごる=手渡す)するとなります。

それに対して

stand a ladder against the fence

では、「はしごを塀に立て掛ける」となるのですが、これは SVO という言葉の配列では、S(主語)が0(目的語)に力を加える(V)という感覚が働くから、だそうです。

単語それ自体に自動詞か他動詞の意味があるのではなく、言葉の並べ方で自動詞にも他動詞にもなるということ。このことを学校英語で教えてくれていたら、英語学習にまつわる頭の混乱がかなり減少したんじゃないかと思います。

最近は小学生でも沢山英語を勉強しているそうですが、この配列が意味を決めるという感覚を徹底して教えると、子供たちの英語学習もかなりスムーズになるような気がします。



参考:《感覚》で学ぶと...(!!!)

『グッバイ、レーニン!』

2007年04月15日 | 映画・ドラマ



映画『グッバイ、レーニン!』を見ました。劇場公開時にも見ていたのでこれで二度目。

あらためて見てもとても面白く、かつ身につまされました。

内容は、ベルリンの壁崩壊直前の東ドイツで、主人公である息子がデモ行進に加わっているのを目撃した愛国心の強い母親が昏睡状態に陥り、壁崩壊後の8ヵ月後に目覚めるというもの。彼女は依然危険な状態でわずかなショックにも耐えられず絶対安静が必要な状態です。息子アレクサンダーは西側文化が入り込んでいる今の東ドイツの状態を母が知ることは危険だと思い、今もまだ東ドイツは存続していると思い込ませるために様々な演出をします。しかし…

この映画が伝えるショッキングなエピソードの一つは、かつて東ドイツで尊敬されていた職業に就いていた教師や技術者といった人たちが、体制が転換すると同時にその職から「追放」されていったという事実です。これは映画の中だけでなく実際に起きている(今も進行形の事実だ)ことで、大学教授などもその職を追われ失業者となっています。また福祉の面でも旧東ドイツの人たちはさまざまな冷遇を受けています。

あたかも敗戦国のように多くの人が「公職追放」を受けました。それは東ドイツの人たちに、まさに「あなたたちは敗れたのだ」と思い込ませるに十分なショックです。元々国家の存在とアイデンティティを同一化していた人たちは、肩書きも何も奪われ、社会の中の位置と役割(ドラッカー)をもたない人間と見なされていきます。

外見ではドイツは「立派」な資本主義国のリーダーですが、実際は国民の半分以上が、東ドイツ時代の(秘密警察による弾圧などによる)心の傷や、体制転換に伴う極端な冷遇を味わっているのです。

この映画は、壁崩壊から10年以上経ってもいまだに残る東と西の人々の深刻な葛藤の源泉を、他国の人にもわかりやすく伝えています。

私はこの映画をドイツの映画館で見たのですが、劇場一杯の人たちが一つ一つの場面に同じように大きく反応して、まるで何か国民的行事の中にいるようだったことを覚えています。この映画はエンターテイメントとしても非常によくできた映画ですが、同時にドイツの人たちにとっては自分たちが辿ってきた歴史を思い起こさせ、感情を揺さぶる映画なのです。

日本でも大ヒットしたみたいですが、まだ見ていない方にはぜひ見て欲しい映画です。


写真:ユキヤナギ

『ヴェロニカは死ぬことに決めた』 パウロ・コエーリョ(著)

2007年04月14日 | Book



パウロ・コエーリョのベストセラーの一つに『ヴェロニカは死ぬことに決めた』という小説があります。これはいわゆる「精神病院」を題材にした小説です。

以下ネタばれあり。

パウロ・コエーリョは、若い頃に親によって強制的に精神病院に入院させられました。彼自身は自分の心身の状態がどうであるかよりも、親によって病院に入れられたという事件に深いトラウマを負ったと後で語っています。ただ、彼は上記の小説の中で、その親ともすでに和解していると語っています。

主人公の若い女性ヴェロニカは自殺未遂を起こして昏睡状態に陥り、精神病院に入れられます。そこは、外界から隔絶されたがゆえの不思議な秩序が支配しています。

コエーリョの描写では、精神病院は決して異常な場ではありません。ただ外界と異なる点があるとすれば、外界自体が精神病院を「おかしな人たちが入る場所」とみなし、一度病院に入った人を受け入れないようにしていること。病院にいる人たちはそのような現実と折り合っていくのに疲れているがゆえに、あるいは人生に疲れて自分から進んで現実から逃避したいがゆえに、自分は精神が異常であると偽って意図的にその病院にとどまり続けているということ。

すでに二年入院しているマリーもその一人です。彼女は元弁護士ですが、私生活の疲れでまわりから休むように言われていました。法律事務所の同僚は、一度休んでからまた現場に復帰すればいいと彼女に言います。結局マリーはある事件をきっかけに病院に入ります。

病院で安静にしていたマリーはもう一度外界で働くことを決意します。彼女は同僚に対して現場に復帰したい旨を伝えます。しかし同僚は彼女にこう言います。「たしかに僕は君に休むように言った。しかし精神病院に入るようには一度も言っていない。君は越えてはいけない一線を越えてしまったんだ」と。

マリーはそのとき、一見穏やかで寛容に見える社会が根深い偏見をもっており、その偏見に気づかずに社会の「ルール」を破ってしまうと、社会はその穏やかな顔の裏にある冷酷な部分を見せることを悟ります。しかしそれを悟ったとき、時はすでに遅く、マリーは社会復帰の道を断たれていました。

マリーは「仕方なく」病院にとどまることを決意します。

マリーに限らず、この小説では、病院にいる人たちは本当は自分はおかしくないと知っているのですが、わざわざ精神病者のフリをします。パウロ・コエーリョは、そのような「患者」たちの深層心理に、自分たち自身から人生を放棄し、自分の人生を歩むことを諦め、義務を免除された「楽園」に進んでとどまろうとする心性を見出します。

パウロ・コエーリョがここで扱っている題材は、物書きとしては新しくないでしょうが、現実には今もある問題です。つまり、何が「普通」で何が「狂気」かは、人々の思い込みが決めているということ。そのことを示すエピソードがいくつか挙げられています。

その一つが、昔の国のある王様の話。賢い王様は、国中の民が毒の入った水を飲んで頭がおかしくなってしまったことを嘆きます。しかしそのとき王女が王に次のようにアドバイスをします。つまり、あなたも毒を飲んで頭がおかしくなってしまえば、もう民が狂ってしまったことを嘆かなくてすむということ。

「精神病者」の人たちは、「社会」の人たちが自分たちを「狂っている」とみなすことが間違いだと知っています。しかし彼らはそのことを「社会」に教えることは無駄であるし、また気力を失っているがゆえに、自分の人生を一歩踏み出す勇気をもつこともできません。そのような絶望から回避する方法はただ一つ。本当に自分たちは狂っている、と思い込むことです。

コエーリョは、市民・社会のもつ偏見の不条理さを容赦なく暴きます。しかし彼は同時に、その「不条理さ」から逃避する「精神病者」たちがただ人生を無駄にしているに過ぎないことも容赦なく描写し、「病院」にいる人たちの狡さ・弱さも白日の下にさらします。

たしかに社会の側が入院歴を受け入れないという側面はあるのですが、「患者」の人たち自身がその事実を逆手にとって、自分はもう社会に順応する義務を免除されているのだと自分を納得させ、病院に依存して生きていく道を選んでいるのです。

患者たちが社会復帰できない事情には、社会の側の偏見と、その偏見を「利用」して人生を歩む勇気を放棄する「患者」との、両方の共犯関係があることをコエーリョは描き出します。

それに対してコエーリョが用意する救いの道は、市民・社会の側がもつ偏見を告発することでもないし、「精神病者」の人たちを一方的に弱者にすることでもありません。むしろコエーリョは、進んで自分たちを「弱者」の側に置く「患者」に対して、自分たちから病院にとどまる限り救いはないことを示します。

最後に、登場人物たちは病院の外に出る決意をします。そこでの彼らは、自分たちが歩みたい道を知っているので、それに向かって進むだけです。そのとき彼らは、もう社会が自分たちをどのように見ているかを考えません。何が「普通」で何が「狂っている」かよりも、本当は大切なことがあることを彼らは見出します。



写真:夕陽を浴びる公園の道

『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』 2

2007年04月13日 | Book



『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』 1 からの続き


伝統、儀礼、守護者

このように「専門家」の有する専門性が疑わしいものとみなされていることこそが、現代社会の大きな特徴の一つです。では、その専門性は過去においては何によって保証されていたのでしょうか?

過去すなわち「伝統社会」(この定義がどれほど曖昧でも、とりあえずここではこの語を使う)において「専門家」の役割を果たしていたのは、ギデンズによれば「守護者」でした。

現代社会における専門家の専門性は、主にテクストの権威によって支えられています。法曹家や医者、また各種の学位がその免状を与えられるのは、主にはペーパーテストを通して文字による知識をどれだけ体系的に理解しているかに拠っています。しかし同時に「一般の人」の専門家に対する疑いも、専門家としての資格が状況・文脈を無視するテクストに拠っていることに由来しています。

それに対して伝統社会では、「守護者」の権威はその人物が占めている「身分」に依拠していました。その人の発する言葉が正しいのは、その言葉が何らかのテクストと整合しているからではなく、まさにその人がある「身分」であるがゆえに正しいとされていました。「再帰的近代」においてはテクスト・文献が示す知識がつねに修正されていくのに対し、伝統社会では、ある知識の正しさはそれを口にする人の身分に拠っていたため、反証が不可能なものでした。

伝統社会では、「真理」とは文字によって示されるのではなく、それを口にする人のまさにその発話行為によって示されます。言葉の内容ではなく、まさにその人(=守護者)が話し身振りを示すその行為全体が、何らかの「真理」を表すと受け取られました。

これは一見非合理的に見えますが、必ずしも個人の恣意が「真理」に影響しているわけではありません。その個人が「真理」を体現することができるのは、その身分に位置しているからであり、その守護者はつねにその身分にある者として振舞うことを強いられます。その守護者が体現するのはその身分が有する真理保有の権限であり、彼or彼女自身がその真理を勝手に作りかえることは、必ずしも簡単ではなかったのだと私は思います。

ギデンズは伝統が伝達される過程を次のように描写しています。すなわち、伝統が伝達されるのは、ただ惰性的に後世に伝えられるのではなく、当事者たちが記憶をたえず能動的に再生産していくからです。たとえ内容は同じでも、それを維持しながら後続の世代に伝えていく作業は、意識的に意図されることによって初めて可能となります(p.120)。

伝統として当事者たちに「記憶」されることは、単に覚えたことを「想起」することとは異なります。想起が無意識のうちに思考に上るものを指すのに対し、「記憶」は意識的に言語化・記号化されるものです。

伝統社会では、比較的時間をもつ身分である守護者が、その身分的特権により、伝統の細部について確認する権限を有します。この確認・解釈作業にどこまで恣意が入り込むかは分かりませんが、おそらく主観的にも守護者たちはその記憶の確認作業に個人的な感情をはさみ難かったのではないかと思います。伝統社会のおける儀礼とは、そのように確認された記憶を社会全体に対して再演する行為です。それにより守護者の確認作業が正しいものと認められます。この儀礼は、単に惰性的に行われるのではなく、ある記憶を「伝統」として認めていく意識的な行為です(p.120)。

この儀礼が示す「真理」に対しては誰も反駁することはできません。そのような「真理」を検証する権限は守護者だけがもつからです。しかし守護者もまた、その「真理」が「真理」であることを自分の中で確認するためには、それが伝統にのっとっていることを自分の中で確信しなければならなかったのだと思います。ある「真理」が真理として認められるのは確かに絶対不可侵の有する守護者の権限が必要だったのですが、その守護者自身もまた「伝統」と自己の知識との突き合せを強いられていました。このことをギデンズは次のように説明しています。

「伝統の守護者は、それが長老であれ、治癒師や呪術師、宗教上の職務執行者であれ、伝統のなかで重要な行いを果たしていくが、それは、その人たちが伝統の有す原因力の作用主体、つまり原因力の極めて重要な仲介者であるからである。この人たちは秘伝の配り手であるが、この人たちのもつ秘儀の技能は、この人たちが秘密の、ないし秘伝の一連の知識を習得しているからというよりも、むしろ伝統の有す原因力に深く関与していることから生ずるのである」(p.123)。

また上で述べたように、この秘儀を仲介する権限は、まさにその守護者がその身分にあるという事実に由来していました。

しかし、ではこの「伝統の有す原因力」とは何か?という問いが出てきます。守護者自身が「何かの現実に対する適切な理解がその人の頭のなかにある人間ではな」いにもかかわらず、民衆をしてそれを伝統と認めせしめる「原因力」とは何なのか?

ギデンズによれば、伝統には「規範性」なり「道徳性」というものが含まれており、つまり伝統は習慣的になされる事柄(だけ)ではなく、「なすべき」ことをも示しています。この道徳性は人々に「何らかの生きていく上での安心感」をもたらすゆえに、伝統は人々に絶えず受け入れられていきます。その安心感のゆえに人々は伝統に対して感情を投入してそれを維持しようとします。

しかし、伝統がこのような感情移入によって支えられていることは、利点であると同時に伝統が絶対的に堅固ではないことをも意味します。「なすべき」ことを伝統という外的からの指図によって与えられて安心感を得ようとすることは、その裏には不安感があることを示しています。伝統の崩壊という事態は、それが示す「なすべきこと」を人々が無条件には受け入れられなくなったからです。

現代の専門的知識と同様に、過去の伝統も決して堅固なものではありませんでした。むしろ伝統は人々の異議や不安を無理やり押さえつけることで成立したのであり、何かのきっかけでその異議や不安が噴出したとき、伝統はその力だけで人々を押さえつけることは不可能でした。

知恵、秘伝、信頼

ところでギデンズは伝統の真理性が守護者の身分に拠って保証されることを強調する一方で、同時にその反対のことを、すなわち伝統の真理性が(ギデンズ自身は明示的にそう言っていないのだけれど)守護者自身の能力にも依存していたことをも示唆しています。

例えばギデンズは、伝統的知識の有す真理性が、守護者などが有す技能に依存していた事例を指摘しています。

「(伝統社会における)大多数の技能は、熟練を要す技巧であった。これらの技能は、見習い奉公や実例を通して教え込まれていくため、したがって、こうした技能がみずからの一部として権利主張していく知識は、秘密の、秘伝のものとして保護されてきた。被技は、駆け出しの新規参入者に対し奥義伝授を強要する。したがって、熟練を要す技能の持ち主は、たとえそうした技能が伝統という社会の明らかな幻影から相対的に隔離されている場合でさえ、事実上守護者になることが多い」(p.152)。

そのような技能の例として、狩猟社会における秘伝が紹介されます。

「クン族の男たちは、砂地の上に残る足跡から、その土地に生息する動物をすべて特定することが可能であった。クン族の男たちは、その動物の性別や年齢、どのくらい足速く移動しているのか、健康状態、さらにどのくらい前にその地域を通過したかを推測することができたのである」(p.152)。

この例は、伝統社会における技能・秘伝・真理が、(ギデンズ自身がどこまで理解しているかは疑問ですが)必ずしも守護者の身分に依存するわけではなく、むしろその知識の現実的有効性に対する人々の信頼によって支えられていたことを示唆しています。生きるか死ぬかという状況においては、その技能の現実的実効性だけがもっとも問題になります。このような技能は、身分によって効力を持つ儀礼とは異なるものです。以下の記述も同様のことを示しています。

「伝統の守護者には、その人の専門分野がある。だからたとえば、職人の技能や位置づけは、聖職者のそれとは通常まったく別個のものであった。とはいえ、専門分化された知識の所有者である伝統の守護者は、決して純然たる「普通の人」になりきることはできなかった。その人たちが「知恵」を有していることは、その人たちに共同体全体に通ずる独自な地位をもたらしてきた」(p.167)。

伝統の「知恵」と対比されるのが、近代以降の社会における「専門的知識」となります。「知恵」がその職人の能力と分かちがたく結びついているのに対し、「専門的知識」は非人格化され、誰もが近づくことができる、そうギデンズは説明します。例えば、理屈の上では、誰もが司法試験を受けることができるという意味で。

「専門的知識」の最大の特性は、それがつねに懐疑にさらされ、再検討されていくことです。上で述べたように、現代は専門家の専門性が激しく疑われている時代です。専門家の数は大量になっているのですが、科学的知識は変化する現実に追いつけないため、つねに知識は修正されていきます。

近代以降の専門知識がそのように修正を余儀なくされるのに対し、伝統の知恵は、社会の変化が緩慢であったがゆえに、一度確立し人々に真と認められると、ゆるぎない地位を保つことができました。

しかし、この「知恵」と、ギデンズが最初に提示した伝統の「定式的真理」、すなわち儀礼によって示される真理とは、異なるものです。儀礼は、それが現実的有効性をもつからではなく、「なすべきこと」という道徳性を頭ごなしに提示し、また一定の身分にある守護者によって提示されることでその真理性を認められました。それは、なぜそれが真理なのかを問われないからこそ、真理の地位を保持し続けることができました。この儀礼による真理の提示が、現実との接触を失っていることをギデンズも指摘しています。

「認識すべき重要な点は、儀礼がまた、毎日の活動の実務から程度の差こそあれ明確に切り離される傾向があることである」(p.121)。

上で、伝統はつねに意識的に検討され解釈され伝達されていくことを述べました。このような意識的な作業は、日々の具体的活動と切り離された、いわば「頭でっかちな活動」です。それに対し、熟練によって獲得される「知恵」は、その真理性を現実的な有効性によって保証されています。

私には、伝統社会におけるこの儀礼と知恵との相違は、現代社会にも持ち越されているように思います。

ギデンズは、伝統社会の定式的真理とは異なり、現代社会の専門的知識は非人格化され、たえず修正されることを強調します。ギデンズは、現代社会の知識のこの修正可能性は、現代では専門知識が、ローカルな状況に依存する知恵とは異なり、科学的知識としてテクストの上で定式化され、それゆえに場と時間に拘束されずに再検討されることが可能であることに由来すると指摘します。

この指摘自体は正しいとしても、おそらくこのような「修正可能性」は、必ずしも知識と現実との接触を促す効果はもちません。たしかにこの「修正可能性」により、知識は万人が近づくことができ、公開の場ですべての人によって議論・再検討されることが可能になっています。しかしそのような修正を経たとしても、専門知識がテクスト上で示される定式として示され続ける限り、それは無限に修正を重ねるだけで、人々の信頼を専門知識が獲得することはないでしょう。

多くのシンポジウムが開かれ、そこに「一般の人」がどれだけ参加しても、そこで提示された批判・意見によって修正された知識は、テクスト上の「新しい知識」として示され、その批判・意見が提出された場・時間すなわち状況を無視して定式化されます。その定式化された知識は、別の場・時間・状況で湧き起こった問題には対応できず、そこでまた知識は修正を余儀なくされます。

私には、そのような無限の修正要求が沸き起こる構造こそが、専門知識に対する人々の無限の要求と不信を増幅していく原因のように思います。

またこのように無限に不信を生む構造のゆえに、ギデンズが指摘するように、現代の専門家は自分の履歴に資格証明書や学位を付けることで、自分の権威を何とかつなぎとめようとします。それは、かつての伝統の守護者が自分の託宣の真理性の根拠を自分の身分に求めたことに似ています。

伝統社会における守護者が示す儀礼的真理にしても、それはギデンズが指摘するほど人々に安心感をもたらしていたのかは、疑わしい。単純な例ですが、中世の魔女狩りや宗教改革をみればわかるように、「伝統社会」における真理もつねに人々の不信と不安をむりやり押さえつけるだけの効果しか持ちえなかったのであり、それに対する疑いが出るや守護者たちはヒステリックな行動によって自らの権威を脅かすものに攻撃をしかけました。

それに対し、現実的な有効性を示す「知恵」は、単に「なすべきこと」を示す儀礼的真理とは異なり、人々に自然に納得して受け入れられていたものです。

この「知恵」の有効性は、おそらく現代の専門家にもあてはまるはずです。私たちが専門家を不信の目で見つめるのは、その専門的知識が現実との関係を失っているにもかかわらず、その専門家が自らの権威を資格証明書に求めるときです。それに対し、本当に私たちが専門家を信頼するのは、その専門家が個人的能力を実際に示して現実的な実効力を体現したときです。このような専門家に寄せる信頼は、おそらく近代以降の社会における専門的知識の有す修正可能性などとは関係の薄いことです。

知識の修正可能性と脱状況依存性という特徴は、それ自体は間違いではなくとも、知識が私たちにとって持つ意味という問題を考える際には、ギデンズが考えるほど中心的な問題ではないように思えます。

専門的知識の修正可能性により、すべての人が知識について公開的に討議し、それによって専門家と一般の人々の間に信頼が生まれるというモデルは、ギデンズやベックが考えるほどには、理想的な状態ではないと私は思います。そこには、いかにもヨーロッパ的な「自立した個人」「市民社会」「公共性」などの古い理念を現代において復活させようという意図も感じます。そのような明証的な議論の積み重ねによって安定した社会を築けるという理念を、彼らはどこかでもっているのではないかという印象が私にはあります。

しかし私には、実際に必要なことを、「知識」をもう一度、状況依存的な「知恵」に転換させることではないかと思います。状況依存的な「知恵」はテクストによって定式化されるのは困難であり、まったく違う場で討議の遡上に載せるのも困難になります。またすべての人がそれに意見を加えることも困難になります。

しかし、「自立した個人」がそれぞれ意見を言い合うというヨーロッパ市民社会のモデルでは、状況依存的な「知恵」がもつ現実的な有効性を信頼するだけの心理的余裕をもつことはできないのではないか、というのが私の印象です。

状況依存的な「知恵」を尊重することは、年長者・経験者を尊重することです。それには権威との葛藤を乗り越えることが個々人に要請され、簡単にはすべての人が口出しすることは不可能です。

ただ、状況依存的な「知恵」は、身分によって示される伝統・儀礼とは異なるものであり、「知恵」はつねに現実的な有効性をもつものだということを理解するのであれば、それを尊重する姿勢は人々の間で育まれるのではないかと思います。社会秩序への信頼を取り戻すには、まずそのような態度が必要のように思いました。



写真:銅像の前の自転車

『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』 1

2007年04月13日 | Book



社会学者アンソニー・ギデンズとウルリッヒ・ベック、スコット・ラッシュによる共著『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』を読みました。原著が出版されたのは1994年なので、もう13年も前の本です。

ただ、1990年の東西の壁崩壊以後は、基本的に社会状況は同じ方向に動いていると私は思うので、13年という時間もそれほど長くは感じません。1995年と1985年はそれぞれまったく違う時代かもしれませんが、1995年と2007年は同じ時代のように思えるのです。もちろん変化の速度はとてつもなく速いのですが、90年以前と以後は何かが決定的に変わってしまったような印象があります。

三人の執筆者のうち、スコット・ラッシュの論文は途中で読むのをやめました。重要なことが書かれているかもしれませんが、とりあえずはここではギデンズとベックの議論に関する感想を述べたいと思います。

強いられた自己決定と選ばれた自己決定

読んで思ったのは、ギデンズとベックの間に「再帰的近代化」に関する意見の違いはほとんどないということ。力点は異なりますが、基本的に状況認識は同じです。

「再帰的近代化」とは、「近代化」を特徴づけると思われてきた制度と個人のあり方が、現代では崩壊・再構築の過程にあることを意味する概念です。

分かりやすい例では「福祉国家」という概念があります。「福祉国家」とは、国家が国民の生活を「ゆりかごから墓場まで」見るという理念です。このような理念が実現可能と思われたのは、19世紀終わりから20世紀初頭にかけては資本主義的大量生産が欧州各国で本格化し、また国家が領域内の国民生活を監視するシステムが完成した時期だからです。国家は国民の国家への従属を促して国内統一を図るために、福祉制度の整備が急務となりました。その財政基盤となったのが経済成長でした。

資本主義的大量生産は労働者の完全雇用を可能にし、労働者である男性の肉体・精神を維持し再生産するための「家庭」が女性によって担われました。また階級というコミュニティは労働者の精神的・物質的な支えとなりました。このような労働者の組織への従属、家庭による女性の束縛、労働者コミュニティの形成などによって、「近代」は形成・維持されてきました。男女分業やコミュニティという、一見近代的でないものによって初めて「近代」は完成されたのです。ベックはこのような「近代」を「単純な近代」と呼びます。

「単純な近代」に対して、現代は「第二の近代」あるいは「再帰的近代」という状況が出現している時代です。それは、「単純な近代」が達成した経済成長を基盤にして、例えば女性が家庭に縛られることを拒み社会に進出し始めた状況です。また労働者の子弟はもはや労働者コミュニティに縛られない職業選択を行っています。さらに経済成長によって消費者の嗜好が多様化したために、資本主義的大量生産は絶対無二の経済戦略ではなくなりました。

単線的な経済成長が終ると同時に、男性はかつての「労働者」という役割を脱ぎ、女性も「家庭」から脱し始め、企業の側は多様な生産形態と雇用形態を採用しはじめました。このように組織のあり方も個人の生き方も唯一の指針を失っているのが「再帰的近代」の特徴です。かつての制度・個人のあり方がもはや有効ではないため、組織も個人も自らのあり方を自己決定せざるをえないようになっています。

ギデンズとベックに違いがあるとすれば、ギデンズがこのような現代の社会状況において個人は能動的に自己の生活を自己決定によって構築しているとみなすのに対し、ベックは組織・制度の変化によって個人はむしろ自己決定を強いられていると見なしていることです。

たとえば、派遣労働の増加というトピックをとると、ギデンズ的にみれば、その現象は個々人が労働と人生の関係を画一的に見るのをやめ、自己の私生活面での充実と仕事とのバランスを自分で決定しようとする現象と見ることができます。元々マルクス主義的な社会構造分析をしていたギデンズですから、派遣・パート労働の増加には企業の都合が大きく影響していることは必ず考慮しているはずですが、同時にそのような組織・制度の変化には働く側の意識変化が大きく影響していることを指摘するはずです。

それに対しベック的な視点では、企業が多様な雇用形態を採るのは雇用側の都合でそのような制度改革を推し進めた結果であり、個々人はそれによって派遣労働を採るかor正社員として働くかという決定を迫られ、また派遣労働として働く場合でもその決定は自己責任によると認識することを強いられているのだと見なします。つまり、個々人による自己の人生の構築という現象は、個人がそれを望んだ結果ではなく、多くの人にとっては制度変化によってそうするように強いられている結果だということです。

ベックにとって、“reflexive Modernization”(「再帰的近代化」)とは個々人が自分を省察する“reflexive”な態度を意味していません。ギデンズとは違って、そのような反省能力を個人が身につけていることを言いたいのではないのです。

ベックは、「近代社会」すなわち技術発展・経済成長・福祉国家・完全雇用・男女分業といった理念が崩壊していった原因は何かということを考察しません。おそらく、そのような「単純な近代」の制度を崩壊せしめた単一の原因を求めることは、彼にとってはできないのです。

「単純な近代」の制度は環境破壊をもたらし、完全雇用を終らせ、女性を社会進出させています。ギデンズであればそのような変化に一つの筋道を見つけます。企業が完全雇用を採らなくなったのは消費者の嗜好が多様化したため、需要動向を正確に把握することが不可能になったからです。またそのような嗜好・価値観の多様化によって個々人が様々な生き方を模索することにつながり、働く人自らがフルタイム労働という道を必ずしも選ばなくなりました。また女性の社会進出により少子化になり、ピラミッド型の人口構成を前提にする福祉国家は不可能になったのです。

それに対しベックは、そのような制度変化の原因は考察せず、単に「単純な近代」が「再帰的近代」へと移行している現象を取り上げ、すべてが不確実でとなっている現象の表面を描写します。また、ギデンズが個々人による人生の再構築ととらえた現象も、制度の変化によって個人は自己決定を強いられているとみなします。

ベックにとっては現象の原因の追究ではなく、あくまで現象の表面に接して直感的に感じることをそのまま描写することが重要になります。それゆえ彼には、個々人が自己決定を強いられている状況は、必ずしも個人にとって自分の人生を決める機会が増えているとはみなされず、制度の変化によって安定した人生を個人がもはや歩めなくなり、ただ状況に流されるように見えていきます。ベックが「再帰的近代化」の典型的特徴として「大量失業」「先進国における第三世界」といった事柄を挙げるのはそのためです。もはや失業は階級問題ではなく、個々人の選択の結果として捉えられ、個々人は失業すら自己責任によるものと認識することを強いられていきます。

ベックにとって制度の不確実さは、個々人が作り出したものではなく、単一の原因が何かはつかめない状況であり、その状況によって個々人は「自分で決める」というルール以外のルールを与えられなくなっているのです。彼は次のように述べています。

「労働に参加するには教育を受けることが必要であり、労働への参加も教育への参加も、社会移動と、容易に社会移動ができる態勢を前提条件にしている。これらの条件はすべて、人が進んで自分自身を一個人として組み立てていくことを、つまり、個人として計画し、理解し、構想し、行為する―あるいは失敗した場合には、みずからが招いた帰結に耐える―こと以外何も求めない、そうした必要条件である。
 ここにもまた同じ構図を見出すことができる。意思決定ではあるが、おそらく意思決定不可能な意思決定、つまり、決して自由な意思決定ではなく、ジレンマを引き起こすモデルのもとで、他の人によって強制され、自分自身を無理やり奪い取られた意思決定である、という構図である」(p.35)。

こうやって説明してしまうと、あまりにも身も蓋もないことに私自身もあきれてしまいますが、「再帰的近代化」をめぐるギデンズとベックの違いは上記にあると思います。ただ、それも力点が異なるだけであり、両者はともに互いの意見を否定しているわけではありません。むしろ、「自己決定」という現代社会の特徴に対して、一方はそれを状況変化によって強いられることを強調し、もう一方はそこで個人は始めて自己省察して自己の人生を切り開くことを強調します。現代社会において見捨てられた人と成功している人の両者がいるなかで、ベックは前者を、ギデンズは後者に焦点を当てているとも言えます。

参考:『親密性の変容』 アンソニー・ギデンズ(著) 1 2『モダニティと自己アイデンティティ』 アンソニー・ギデンズ(著)


専門性の崩壊

私にとっては議論の面白さはやはりギデンズの方にありました。彼の議論で印象に残ったことなど。

この本でも他の本でも、ギデンズが社会を分析するのに着目しているのは、社会の“規則”の源泉です。端的に言えば、この“規則”は過去には権威者・首長者による託宣によって与えられ、現代では「専門家」によって与えられています。

封建世界やそれ以前の世界では首長と従者の関係は現代ほど明文化されておらず、ヴェーバーが言うところの「個人的」「人格的」な絆によって結ばれていました(と、ここではとりあえず言っておきます)。

それに対して現代では、行政が認定する「専門家」や法曹家によって社会の規則が決められています。企業の技術者・医者は大学で学位を認定されていますが、過去にはそれらの専門家は国家の認定を受けずに活動することが許されていました。

「単純な近代」の時代は、上記の「専門家」たちの絶対性が信奉されていた時代でした。社会も科学も単線的に発展していくだろうと考えられていた時代では、近代国家によって創設された「専門家」制度は、無条件に信頼できる専門家を輩出すると思われていました。それに対して「第二の近代」「再帰的近代」の現代は、そのような「専門家」の資格が疑われている時代です。

表面だけを見れば、現代は「専門家」が増えている時代です。司法試験合格者は増え、博士号やMBAをもつ人は日本でも世界でも激増しています。行政は資格制度を創出して様々な分野の専門家を作り出しています。

しかし同時に現代はそのような専門家たちの専門性が激しく疑われている時代です。それには、環境破壊によって科学技術の絶対性への信奉が激しく揺らいでいることを初め、様々な分野で絶対的に信頼できる知というものが存在するとは考えられなくなったことが影響しています。例えばタバコやコーヒーや牛乳は健康によいのか悪いのかは専門家によって意見はまちまちです。経済を発展させる処方箋について確信をもって意見を述べることのできる経済学者はいないでしょう。医療者と患者との信頼関係の構築は現代になってその端緒についたばかりです。

大学や行政によって「専門家」が大量に輩出されると同時に、「一般」の人はその専門性を疑うようになっています。ただ、これは悪貨が良貨を駆逐するという単純な話ではなく、(科学)知識の増大が社会・対象への認識を深めることにはつながらないという事実に人々がやっと気づき始めたからです。その気づきに至るまでに、「単純な近代」の理念の崩壊という現象を社会は体験しなければなりませんでした。

大学や行政による「専門家」の大量の輩出は、知が社会・対象への認識を深めることには必ずしもつながらないという時代の趨勢を前にして、時の権限保有者たちがなんとか知の信頼を取り戻そうと色々な手を打っている現れです。新しい名称の学科や様々な資格を作ることで、「専門家」という制度を時代の変化に合わせようとしているのです。

また多くの人はこの不確実な時代では自分のキャリアに保証を求めるので、それらの制度に参加して自らを専門家にしようとします。しかし、そもそも時代が不確実なのは、技術も経済も社会も安定していないことに原因があります。そのことに目を向けずにとりあえず「専門家」になってもキャリアが安定することはありえません。MBAや博士号を取っても、実際に変化するビジネス社会で行き抜く知恵を持たなければ、誰も彼を雇おうとはしません。現代は法曹家でも職が安定しなくなりつつあります(これは決して日本だけの現象ではありません)。

ギデンズもベックも、このような時代認識を踏まえつつ、専門家がその専門性を自分で疑い、その知識を公開的な討議によって再検証することの必要性を訴えます。



『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』2 へ続く



写真:公園で遊ぶ親子

『「意地」の心理』 佐竹洋人・中井久夫(編)

2007年04月11日 | Book



「意地」の心理 という本を読みました。4人の家庭裁判所調査官と2人の精神科医による共著です。印象としては、家裁調査官が離婚調停などに携わった経験から、人間の「意地」とも言うべき心理現象の特徴をまとめたものが中心になっています。ざっと読んだ印象から、ほぼ共通して述べている「意地」の特徴について感想を述べてみたいと思います。

まず、というか、やはり、というか。「意地」とは相手があって初めて成り立つ心理だということが分かります。

「意地になる」というと、執念や根性などの激しい頑張りを思い起こします。例えば、甲子園を目指したり、受験勉強に集中したりすることも、言いようによっては「意地」だと言えます。

しかし著者たちの多くは、単に頑張ったりすることと「意地」とは区別したほうが、より人間の特異な心理現象を分析できることを指摘します。

甲子園を目指したり受験勉強を頑張ったりすることは、それ自体は極めて能動的な行為です。それは、自己の能力の限界を試そうとしている点で、自己完結的な行為になりえます。

しかし家裁調査官は、離婚調停などに日々接するなかで、人間は他人・相手があって初めて感情を強固に注入して行為に及ぶことがあることを指摘します。端的に言えばそれは、配偶者と結婚生活が破綻した際に、相手を困らせるために、決して離婚に応じなかったり、あるいは何とかして離婚しようとする行為・決意に表れます。

意地とは自分の身が滅んでも相手を負かそうとすること

離婚調停などでは、相手と離婚したいor相手と絶対に離婚したくないという意思が、相手と意思とは無関係に存在するとは考えにくいことが、調査官たちの記述からは窺えます。むしろ、裁判所による調停に持ち込まれた家庭の不和では、まず最初に相手である配偶者とは反対の意思表示をして、相手を困らせたいという動機が当事者たちにあるようです。

離婚という作業は、単にお互いが合わなくなったから別れるという単純なものではなく、相手と心理的に競争するという状態がある期間続いている状態です。傍から見れば、嫌いなんだから別れればいいじゃないと言いたくなります。しかし本人たちは、恋愛感情のあるなしに関わらず、「相手に負けたくない」という競争状態にあり、本当に相手と関係を続けたいのかor別れたいのかという本人たちの意思以上に、まず相手に負けたくないという競争心が前面に出てきて当事者たちの行為をコントロールしていきます。

「意地になる」ということは、まず相手・他人を負かしたいという動機が根本にあり、そのためであれば結果的に自分がどういう状況になるかという客観的な考量は入る余地がありません。

離婚するなら早く整理して新しい生活を始めたほうがよいし、やり直すなら一日も早く一緒に生活するのがいい。それは頭では誰でも分かります。

しかし当事者たちにとっては、自分たちにとって何が本当にプラスになるのか?を考慮する感情的余裕がすでになくなっています。彼・彼女たちにとっては、相手に負けないこと・相手に屈辱を味合わせることが最大の目標となっており、そのためであれば自分たちの身が滅ぶのもいとわないような心理状態になっています。極端に言えば、競争している相手と無理心中するのもいとわないというのが「意地」の実態です。

意地とは「正義」の看板を掲げるもの

また「意地」になっている人たちに共通に見られる言動の一つは、自分たちの主張を道徳的に正当化しようとしていることです。

ただ単に自分は相手と競争していて、相手を負かそうとしているだけだと腹の底から納得できれば、その非合理さに自分で自分を笑う余裕も生まれるかもしれません。しかし「意地」になっている人は、自分たちの主張は道徳的に正しいのであるから、自分たちが譲るいわれはないし、自分の身を滅ぼしてもその正義を貫くのは価値があると考えています。彼らは、そのような「正義」は、自分の競争心は子供のわがままとは違って、大人に相応しい意見なのだと主張したいのです。

そのことは、じつは彼ら自身が自分たちの主張の根底に単なる子供の駄々があることを知っていることを示しています。だからこそ彼らは、その主張を押し通すには、それが子供のわがままではなく、大人に相応しい立派な意見なのだと見せる必要があるのです。

こうした「道徳的正当性」を前面に押し出す際に、それが他者への攻撃を含んでいるとき、その根底には単なる「意地」があります。また同時に、それが単なる「意地」であり競争心であることを認めることを怖れるとき、「正義」という仮面をつけることで、自分の本当の動機を見る勇気を持たなくてすむようになります。

こうしてみると、いわゆる知識人の「議論」「論争」というもののほとんどが、その根底に「意地」があることが分かります。

「議論」「論争」とは、細かい事実のすり合わせによって、自分の正しさではなく客観的な正しさの追求のために相手と協力して行うというのが、その理想の姿です。しかし本当にその作業を行えるだけの感情的な成熟さを持ち合わしているのは、私の印象では極めて稀か、あるいはそういう人は存在しません。むしろ、感情的に成熟している人は、自分にはそのような理想の議論を行うのは無理だと判断して、意図的に「議論」「論争」というものを避けるのではないかと私は思います。

執筆者の一人・精神科医の中井久夫さんは、「正義」をめぐる論争と「損得」のそれとを比較して、次のように指摘しています。

「損得にもとづく打算は、(結果的に得られる利益を重視するために妥協が可能であるという点で)正義や善悪にもとづく議論よりも一般に成熟したものである。後者(=正義や善悪にもとづく議論)、そして後者のみが、一方が正しければ他方が不正であり、一方が勝てば他方が敗北し、屈辱を味わうという、食うか食われるかの、平衡に達する可能性の低い、未熟な場である。正義原理にもとづく場の未熟性は、あまり知られていないので、是非一言しておきたい」(p.217)。

知的であることが道徳的な優秀さをも示すと私たちは考えがちです。しかしそのような思い込みによって、私たちは自分の正しさを主張するために相手よりも自分はものがわかっていることを必死で証明しようとし、結果的に他人を傷つけたりします。しかし、本当に道徳的に正しいことというものがあるとするなら、それは誰もが心理的に勝てるような状況を作り出せることではないでしょうか。

「意地」は平等主義を生み、平等主義はいじめを生む

「意地」とは、結果的な幸せや豊かさではなく、相手に心理的な傷を負わせようとする必死の行為です。そのように「意地」になっている人の腹の虫を収めるには、「正義」がなされたという納得感を第三者が用意する必要があります。ここから、喧嘩両成敗という、分かるような分からないような理屈が出てきます。

当事者は、とにかく相手に敗北を味あわせることが最大の目的となっており、そのためには身を滅ぼすことも厭いません。

そのとき、第三者であり、権威・父性を表すような人(裁判官、専門家、精神的指導者など)が、「喧嘩両成敗」としてお互いに非があると諭すと、当事者は「自分にも非はあるかもしれないが、相手にも非はある」ということが公けに認められることに安堵を覚える場合があります。これは、「意地」というものは、根本的には単に「自分の言い分を分かって欲しい」という子供のような駄々であることに由来します。根本は他人に言い分を認めてもらいたいという欲求であることから、なんとか自分の体面が保てる形で相手にも非があると認定されることで、和解に至ります。

相手を心理的に負かしたいという欲求と、自分は道徳的に勝者でいたいという欲求から、権威を表す人がすべての当事者を罰するという形で物事が決着する場合があるのです。そこでは、権威が正義をなすことによって、すべての人が損をします。損をしますが、正義が行われたと同時に、自分の主張も一部認められることになります。

中井久夫さんは、そのような平等主義が日本の江戸時代には支配していたと指摘します。

意地とは「道徳」という形をとった心理的な競争です。「道徳」とは、キリスト教においても、日本の民衆文化においても、特別に目立つ者・秀でる者を引っこ抜いて、「平等」を達成するという現象となって表れます。したがって、「意地」による「道徳」的競争は、相手が「トクをしている」部分を弾劾する形を採ります。それは、「相手はずるがしこいことをしてトクしている」という主張になって表れます。

浮気をした人は、恋愛・セックスを人より愉しんだことで妬まれ攻撃されます。お金を儲けた人は、その努力を顧みられずに、稼いだ額だけ指摘されて断崖されます。日本では、年収数千万の国家官僚・大企業エリートの存在は許されますが、年収数億以上の企業家がそのことを自慢すると、世間の非難の的となり、メディア・司法による攻撃を受け、実刑判決を受けます。アメリカでは、政治家の浮気は政治生命を絶つことになります。

平等主義は、特別なもの・異なった者を排除することで成り立ちます。“いじめ”という行為も、自分はマジョリティであることを心理的に確認するための民衆による儀式という面があります。“いじめ”を受けた者が自らも“いじめ”を行うのは、自分はマジョリティであることを必死で証明したいからでしょう。

2005年に行われた衆議院選挙は、どちらがマジョリティであるかをさまざまな陣営が競った選挙でした。“抵抗勢力”という呼び方自体が、自分は時代・歴史の流れの勝者であることを示そうとする「意地」の表れでした。また時の首相を「ヒトラー」と呼ぶのも、そう呼ぶことで相手を道徳的に貶めようとする「意地」の反撃でした。

こういった光景は決して日本独特のものではないと思います。それは、民主国家・普通選挙制を採る国家に共通して見られるものだと思います。「意地」とは、平等主義・民主主義と強い親和性をもつ心理状態です。

またその民主主義・平等主義は、権威となる父性的な人が前面に出てくることで、「俺たち民衆はみな同じだ」と人々が思うことによって支えられます。

何度も繰返しますが、「意地」とは道徳的に相手を負かそうとする非合理的な感情です。この「意地」は、近代社会の特徴である普通選挙制・民主主義・平等主義と結びつきやすい。どちらが卵でどちらが鶏かはわからないけれども。



写真:夕暮れの通り

“Frank Lloyd Wright―Fallingwater Taliesin” 上田義彦

2007年04月10日 | 絵本・写真集・画集
           


写真家・上田義彦さんの写真集“Frank Lloyd Wright―Fallingwater Taliesin”を見ました。フランク・ロイド・ライトという有名な建築家による豪邸とその周りの風景を写真に収めたもの。

上田さんが写真に収める構図・秩序というものは、少し変です。何か中途半端に写真を撮っている感じです。しかしその中途半端さの匙加減が、上田さん独特の世界を作っているように見えます。

被写体を丸々全部収めるようなことはしません。かといって特定の物をクローズアップしたような写真も少ない。

強いて言えば、カメラ・写真の秩序に流されずに、あくまで自分が肉眼でその時に見た世界を忠実に再現しようとしているのかな。だから、少し曲がっていたり、アル被写体とある被写体のバランスがアンバランスだったりする。でもそれが、他の写真とは違って異化作用をもたらし、観る者をハッとさせます。

フランク・ロイド・ライトという人の建物の革新性は私にはわかりませんでした。でも、生年月日をみて少しびっくり。1867年生れの人なんですね。それを考えると、この建物自体はまさに現代的であって、この建築家はとても時代を先取りした人なのでしょうか。


Frank Lloyd Wright―Fallingwater Taliesin

エクスナレッジ

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写真:公園の彫刻

“REMINISCENCE” ボニー・ピンク

2007年04月09日 | Music



ボニー・ピンクのアルバム“REMINISCENCE”を聴きました。これは他の人の曲を彼女が歌ったカバー・アルバムです。曲目のオリジナルは、

Perfect [original:Fairground Attraction]
Manic Monday [original:The Bangles]
Got Me A Feeling [original:Misty Oldland]
The Origin of Love [original:Hedwig And The Angry Inch]
Don't Get Me Wrong [original:The Pretenders]
真夏の果実 [original:サザンオールスターズ]
That's Just What You Are [original:Aimee Mann]
Your Eyes [original:山下達郎]
Through The Dark [original:TheSUNDAYS ]

など。有名な曲が多いけど、僕ははじめて聴く曲もありました。でもどれもとてもいい仕上がりです。

印象に残ったのはサザンの真夏の果実。サザンのアルバムは私は初期のものはよく聴いたのですが、最近の出せばミリオンヒットというシングル・アルバムは全然聞いていませんでした。それに、サザンはいいと知っているはずなのに、ここまで国民的バンドになってしまうと、無条件に拒否反応が出てしまうのですよ。宮崎駿のアニメをなかなか観る気になれないように(ハウルもまだ観ていない)。

でも、このテレビでよくサビの部分を聴いた真夏の果実も、ボニー・ピンクのしっとりした歌声と落ち着いたアレンジで聴くと、ホントいい曲だなぁと思います。楽曲そのものの素晴らしさを再確認させてもらった感じです。

他にはプリテンダーズの“Don't Get Me Wrong”。これもオリジナルを知っていたのですが、佳曲という感じで、特別好きな曲ではなかった。それが今回のカバーで聴くと、そのユラユラしたテンポにこちらも身体が揺れるようで、とても楽しい曲になっています。

私が一番気に入っているのは、エイミー・マンをカバーした“That's Just What You Are ”。エイミー・マンについては、アルバム『マグノリア』という傑作アルバムを聴いた事がありますが、“That's Just What You Are ”は今回が初めて。これも一見静かな曲なのだけど。聴いていると元気というか希望の湧いてくるメロディだし、またボニー・ピンクの声がそれにとてもよく合っている。なんだか世界が朝陽で照らされるような雰囲気なのですよ。

あぁ、聴いてよかったぁと思えるアルバムでした。



写真:木瓜の花

画集 『近代の浮世絵師・高橋松亭の世界』 清水久男(編)

2007年04月08日 | 絵本・写真集・画集




画集『こころにしみるなつかしい日本の風景―近代の浮世絵師・高橋松亭の世界』を見ました。私は浮世絵を画集で見たのは初めて。浮世絵と言っても葛飾北斎とかも名前ぐらいしか知りません。

この高橋松亭という人は1871年生れの人なので、明治・大正・昭和に活躍した人なのだと思います。

浮世絵というと、イメージとして、いかにも“日本的”な画法が用いられているイメージがあります。でも、じゃあその“日本的”とは何なんだ?と問われても答えられないのだけど。でも、私たちが普通の絵画と思う西洋画とは雰囲気が違うのは分かります。

つまり、ある時代に発達した特異な画法であって、今の時代にはそぐわない描き方だという思い込みがあります。

でも、この高橋松亭という人の絵を見て思ったのですが、そもそも「浮世絵」という範疇は浮世絵師たちにとってどれほど重要だったのだろうか?と感じました。様々な技法から浮世絵を選んだのかもしれませんが、でも彼らにとって最終的に大事だったのは描こうとした現実の風景であり、現実の中の美をどのように切り取るかという問題だったはず、と思いたくなります。

つまり、高橋松亭の絵を見ても、浮世絵を見ているというより、彼がその目で見た風景を見ているというようにしか見えないのです。当たり前だけど。

ただ目の前にあるものを描写するのに筆を走らせる。その際の技術がたまたま彼にとっては浮世絵だった、と。

何か、日本画と西洋画という区別も意味もないものに思えてきます(いや、意味はあるのだろうけど)。

浮世絵というと、普通の絵とは違うとっつきにくいもの、というイメージがありましたが、この画集の絵は、むしろ淡々と現実の風景を描いている絵という印象があって、「浮世絵」という範疇はそれほど重要なものとは思えませんでした。


こころにしみるなつかしい日本の風景―近代の浮世絵師・高橋松亭の世界

国書刊行会

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写真:ゆきやなぎ

詩画集 『クレーの天使』 絵・パウル・クレー 文・谷川俊太郎

2007年04月07日 | 絵本・写真集・画集
          


スイス生れの画家パウル・クレーと詩人の谷川俊太郎さんによる詩画集『クレーの天使』を読んで見ました。

クレーの絵は不思議だし、こういう絵を見ると画家というのは不思議だと思います。画家という人たちにとっては、“上手い絵下手な絵”という区別はもう存在しないのだと思います。彼らは“上手い絵”などというものには興味はなく、ただ自分から湧き出てくるものを自分が邪魔せずに上手く表現できたか、あるいは自意識で表現できなかったかという区別しかないんじゃないでしょうか。

クレーの絵は、そしてどんな優れた画家の絵も、真似て書けるものじゃない。画法の上達のために最初は模倣が大事でも、その人にとって気に入る作品が書けるようになるのは、真似るという意図的な作業を抜けてただ自分の中から湧き起こってくるものを表現できるようになったときだと思う。

どうしてクレーはクレーのような絵を描けるようになったのか、素人にはちょっと想像がつきません。クレーも人の子ですから、同時代の絵画の潮流に当然影響されているだろうけど、でも彼の絵を「クレーの絵」たらしめているものは、最終的には言葉で説明できないもののように思います。

一見説明のつかないめちゃくちゃな線の引き方なのに、クレーの絵を見ていると、何か今まで届かなかった胸の中の感情を針線で突付かれて、ジワッと溜まっていた感情が浮かび上がってくるようです。

それはクレーの絵が、今まで私が接したことのない、あるいは忘れてしまった秩序をもった図を描いているので、私が胸の奥に抑圧した感情がえぐられて表面に浮かび上がってくるのです。

なぜクレーの絵がすばらしいのかは今は説明できません。でもクレーの絵に動揺している自分がいることは、クレーの才能が描く秩序を私もかつて知っていたのかもしれません。

成長するにつれ、常識的な物の見方が私の身体には張り付いてしまっていますが、クレーの絵は、その表面的な常識の多くにある、普通とは異なる物の見方を思い出させます。





クレーの天使

講談社

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写真:

中毒を治したい

2007年04月07日 | 日記

インターネットの中毒症状をなんとか治したい。ブログの記事を書いたりすることは苦ではないし、時間も惜しくない。でも、他のサイトをついついいろいろ見ていくと、なかなかブラウザを閉じられない。

何かやめられる方法はないだろうか?


2007年04月06日 | 絵画を観て・写真を撮って

四月に入って桜の季節だと言うのに、イマイチの天気が続いています。でも今日は晴れているかな。

昨日も撮ってみたけれど、桜の写真をきれいに撮るって難しいように思う。ただ桜を撮るのではなく、自分が気に入るような写真にするのは難しいかもしれない。

肉眼で桜を見ると桜の花びらのきれいさだけに目が行っています。でも、実際に写真に撮ると、自分の想定外のいろいろな被写体がレンズに入り込んでいます。

「桜」という花が特別な色・形をしているので、その「桜」以外のものとが上手く調和し難いようにも思うのです。

まぁ、そんなむずかしく考えずに、いいなぁと思ったらシャッターを押せばいいんですけど。

絵本 『じぶんだけのいろ』 レオ・レオニ(文・絵)

2007年04月05日 | 絵本・写真集・画集



1978年に発行されたレオ・レオニの絵本『じぶんだけのいろ いろいろさがしたカメレオンのはなし』を読みました。

夜、本を読まなきゃ(読みたい、ではなく)と思って、布団に入っても活字を読もうとします。そのとき、活字を手放すことが惜しくなります。義務で本を読まなきゃなきゃならないわけではないのですが、「読まなきゃ」と自分で思い込んでいるのです。

そのとき、それでも思い切って本を手放して見ます。そして絵本を手にとってみます。すると、何かしがみついていたものを手放したときのように、宙に浮いたような居心地の悪さがあり、それでも解放感を感じます。

このレオ・レオニの絵本を読んだときも、宙に浮いたようになり、その色彩のきれいさに吸い込まれそうになります。活字を手放し、レオ・レオニの色彩を眺めていると、自分が真空にいるような感覚になります。そのキレイな色を眺めていると、頭を働かせることが無粋なことに思えてきます。そして、ただ色彩を味わうように誘われていきます。

この絵本は、人のアイデンティティというものを、この上もなく上手に説明しています。「そうそう、結局そうなんだよな」と思えてきます。

ストーリーも素晴らしいし、絵も素晴らしいし、色も素晴らしい。

大袈裟な動きはないですが、目の動き一つで、レオ・レオニは登場人物の気持ちを表現していきます。

とても素晴らしい絵本だと思います。



写真:いろいろな色のビオラ