joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『エデンより彼方に』

2007年04月19日 | 映画・ドラマ



2002年のアメリカ映画『エデンより彼方に』は、1950年代の「古きよき」黄金の時代のアメリカを舞台にした映画です。主演は、歳をとるほどキレイになっていく不思議女優、ジュリアン・ムーア。

以下ネタばれあり。

アメリカ郊外の高級住宅地に住む主婦が主人公。彼女の夫は大企業の重役。子供が二人。主人公の女性は、「理想の主婦」として雑誌に取り上げられるような、美しく、洗練された趣味をもつ女性です。

この典型的な「幸福」を絵に描いたような家庭が、夫の秘密を妻が知ることで壊れていく過程を映画は追っています。

この映画ではジュリアン・ムーア演じる主人公の白人女性が黒人男性と恋に落ちます。しかし映画の主題は恋愛それ自体ではなく、「古き良き」アメリカ社会(白人社会)が、その上品で輝いていた外面の下にもっている偏見と差別を浮き彫りにすることです。

その残酷さが最も表れるのが、主人公が「友人」の主婦仲間に、夫の秘密と、黒人男性への想いを打ち明ける場面。その友人は彼女を抱きかかえながらも、「越えてはいけない一線」を、これ以上ないと言うほど残酷な形で彼女に教えます。

また映画の中のある場面ではこういうセリフが吐かれます。「この土地に黒人差別はないさ。だって黒人はいないからね」


この映画は差別・偏見の残酷さを教えてくれますが、同時にそれがなぜ克服が難しいのかも教えてくれます。

差別・偏見は、それをもつ人にとっては、差別・偏見が存在することはまったくディメリットがないし、少なくとも自分たちにとって関わりのあることとは思っていません。

例えば「白人」社会の成員にとっては、「黒人」が差別を受けることは、自分たちの社会を(一応は)脅かしません。最初に「黒人」を連れてきた世代にとっては「黒人」を隷属的な地位に置くことは必要だったことですが、後の世代の「白人」はもはや「黒人」を無理に隷属的な地位に置こうとはしません。それは、後の世代の「白人」にとっては、社会の格差の構造がはっきりと固まっているので、今さら意識的に「黒人」を隷属させる必要がないからです。

「この土地に黒人差別はないさ。だって黒人はいないからね」というのは、もはや「黒人」を恐れる必要のない立場の人たちのセリフです。もはや、“差別する”ということを意識的に遂行しなくても、構造的に「黒人」が下に追いやられるシステムが出来上がっているので、「黒人」を排除する努力が要らないのです。

ここに差別の一つの特徴があります。確立した差別は、もはや差別している人が、自分は差別をしているということすら気づかないのです。

これは同時に、なぜ差別を克服するのが難しいのかを示しています。「黒人」「ユダヤ人」「女性」「障害者」etc… これらの人たちが自分たちのグループに入ることをマジョリティは拒否します。しかし、その拒否が差別であるとはマジョリティの人は思いつきません。むしろ、それは慣習であり伝統であり、あるいは理にかなったことと思い込んでいるので、彼らは、それがどれほど相手の心を傷つけ、また一部の人たちから人生の希望を奪うことに加担しているのかということに想像力が及ばないのです。

差別をする人たちは、それが偏った見方だとは思っていません。そもそも、自分の意見が偏っていることに気づく人は、実は偏った見方をしない人たちです。むしろ差別をする人たちは、自分の意見の正しさを疑うことを拒否します。

差別を受ける側は、差別・偏見によって築かれる障壁が克服困難であることを知り、絶望します。しかし差別する側は、それが悪いことであり、どれほど他人を絶望に追いやるかに気づきません。差別する側が自分たちがしていることが差別であることに気づかないことこそ、先に述べたように、差別の一つの特徴です。

このことは同時に、誰もが自分は他人の差別に加担する可能性があることを示しています。差別とは、差別する側が気づかずにいることができるほど一部のグループの人たちを排除することに機能している構造のことです。それゆえに、自分だけは他者を差別することはないとは、誰にも言えません。

差別とは、他人に対してあるレッテルを貼ることで、その相手がどういう人間であるかを吟味することなしに、一定の判断を下すことです。

人種差別を受けているグループの男性は、同時に女性だけが家事をすることを当然と見なすかもしれません。フェミニストの女性は、相手が男性であるというだけで罪深いと見なすかもしれません。

差別について考えることの難しさは、自分を容易に正義の側に立たせてしまい、自分が加担している差別の構造には気づきにくいことです。

もちろんこのことは、差別について考えることが無駄であることを意味しないでしょう。ただ差別について論じる際には、誰かを裁き攻撃することを目的にしないことと、それでも今日も一定のグループがいわれのない不条理な待遇を受けていることを世の中に知らせる必要のあること、これらのことに留意すべきなのだと思います。この二つの両立は、簡単なようで、難しいのだと思います。