joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『ヴェロニカは死ぬことに決めた』 パウロ・コエーリョ(著)

2007年04月14日 | Book



パウロ・コエーリョのベストセラーの一つに『ヴェロニカは死ぬことに決めた』という小説があります。これはいわゆる「精神病院」を題材にした小説です。

以下ネタばれあり。

パウロ・コエーリョは、若い頃に親によって強制的に精神病院に入院させられました。彼自身は自分の心身の状態がどうであるかよりも、親によって病院に入れられたという事件に深いトラウマを負ったと後で語っています。ただ、彼は上記の小説の中で、その親ともすでに和解していると語っています。

主人公の若い女性ヴェロニカは自殺未遂を起こして昏睡状態に陥り、精神病院に入れられます。そこは、外界から隔絶されたがゆえの不思議な秩序が支配しています。

コエーリョの描写では、精神病院は決して異常な場ではありません。ただ外界と異なる点があるとすれば、外界自体が精神病院を「おかしな人たちが入る場所」とみなし、一度病院に入った人を受け入れないようにしていること。病院にいる人たちはそのような現実と折り合っていくのに疲れているがゆえに、あるいは人生に疲れて自分から進んで現実から逃避したいがゆえに、自分は精神が異常であると偽って意図的にその病院にとどまり続けているということ。

すでに二年入院しているマリーもその一人です。彼女は元弁護士ですが、私生活の疲れでまわりから休むように言われていました。法律事務所の同僚は、一度休んでからまた現場に復帰すればいいと彼女に言います。結局マリーはある事件をきっかけに病院に入ります。

病院で安静にしていたマリーはもう一度外界で働くことを決意します。彼女は同僚に対して現場に復帰したい旨を伝えます。しかし同僚は彼女にこう言います。「たしかに僕は君に休むように言った。しかし精神病院に入るようには一度も言っていない。君は越えてはいけない一線を越えてしまったんだ」と。

マリーはそのとき、一見穏やかで寛容に見える社会が根深い偏見をもっており、その偏見に気づかずに社会の「ルール」を破ってしまうと、社会はその穏やかな顔の裏にある冷酷な部分を見せることを悟ります。しかしそれを悟ったとき、時はすでに遅く、マリーは社会復帰の道を断たれていました。

マリーは「仕方なく」病院にとどまることを決意します。

マリーに限らず、この小説では、病院にいる人たちは本当は自分はおかしくないと知っているのですが、わざわざ精神病者のフリをします。パウロ・コエーリョは、そのような「患者」たちの深層心理に、自分たち自身から人生を放棄し、自分の人生を歩むことを諦め、義務を免除された「楽園」に進んでとどまろうとする心性を見出します。

パウロ・コエーリョがここで扱っている題材は、物書きとしては新しくないでしょうが、現実には今もある問題です。つまり、何が「普通」で何が「狂気」かは、人々の思い込みが決めているということ。そのことを示すエピソードがいくつか挙げられています。

その一つが、昔の国のある王様の話。賢い王様は、国中の民が毒の入った水を飲んで頭がおかしくなってしまったことを嘆きます。しかしそのとき王女が王に次のようにアドバイスをします。つまり、あなたも毒を飲んで頭がおかしくなってしまえば、もう民が狂ってしまったことを嘆かなくてすむということ。

「精神病者」の人たちは、「社会」の人たちが自分たちを「狂っている」とみなすことが間違いだと知っています。しかし彼らはそのことを「社会」に教えることは無駄であるし、また気力を失っているがゆえに、自分の人生を一歩踏み出す勇気をもつこともできません。そのような絶望から回避する方法はただ一つ。本当に自分たちは狂っている、と思い込むことです。

コエーリョは、市民・社会のもつ偏見の不条理さを容赦なく暴きます。しかし彼は同時に、その「不条理さ」から逃避する「精神病者」たちがただ人生を無駄にしているに過ぎないことも容赦なく描写し、「病院」にいる人たちの狡さ・弱さも白日の下にさらします。

たしかに社会の側が入院歴を受け入れないという側面はあるのですが、「患者」の人たち自身がその事実を逆手にとって、自分はもう社会に順応する義務を免除されているのだと自分を納得させ、病院に依存して生きていく道を選んでいるのです。

患者たちが社会復帰できない事情には、社会の側の偏見と、その偏見を「利用」して人生を歩む勇気を放棄する「患者」との、両方の共犯関係があることをコエーリョは描き出します。

それに対してコエーリョが用意する救いの道は、市民・社会の側がもつ偏見を告発することでもないし、「精神病者」の人たちを一方的に弱者にすることでもありません。むしろコエーリョは、進んで自分たちを「弱者」の側に置く「患者」に対して、自分たちから病院にとどまる限り救いはないことを示します。

最後に、登場人物たちは病院の外に出る決意をします。そこでの彼らは、自分たちが歩みたい道を知っているので、それに向かって進むだけです。そのとき彼らは、もう社会が自分たちをどのように見ているかを考えません。何が「普通」で何が「狂っている」かよりも、本当は大切なことがあることを彼らは見出します。



写真:夕陽を浴びる公園の道