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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』 2

2007年04月13日 | Book



『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』 1 からの続き


伝統、儀礼、守護者

このように「専門家」の有する専門性が疑わしいものとみなされていることこそが、現代社会の大きな特徴の一つです。では、その専門性は過去においては何によって保証されていたのでしょうか?

過去すなわち「伝統社会」(この定義がどれほど曖昧でも、とりあえずここではこの語を使う)において「専門家」の役割を果たしていたのは、ギデンズによれば「守護者」でした。

現代社会における専門家の専門性は、主にテクストの権威によって支えられています。法曹家や医者、また各種の学位がその免状を与えられるのは、主にはペーパーテストを通して文字による知識をどれだけ体系的に理解しているかに拠っています。しかし同時に「一般の人」の専門家に対する疑いも、専門家としての資格が状況・文脈を無視するテクストに拠っていることに由来しています。

それに対して伝統社会では、「守護者」の権威はその人物が占めている「身分」に依拠していました。その人の発する言葉が正しいのは、その言葉が何らかのテクストと整合しているからではなく、まさにその人がある「身分」であるがゆえに正しいとされていました。「再帰的近代」においてはテクスト・文献が示す知識がつねに修正されていくのに対し、伝統社会では、ある知識の正しさはそれを口にする人の身分に拠っていたため、反証が不可能なものでした。

伝統社会では、「真理」とは文字によって示されるのではなく、それを口にする人のまさにその発話行為によって示されます。言葉の内容ではなく、まさにその人(=守護者)が話し身振りを示すその行為全体が、何らかの「真理」を表すと受け取られました。

これは一見非合理的に見えますが、必ずしも個人の恣意が「真理」に影響しているわけではありません。その個人が「真理」を体現することができるのは、その身分に位置しているからであり、その守護者はつねにその身分にある者として振舞うことを強いられます。その守護者が体現するのはその身分が有する真理保有の権限であり、彼or彼女自身がその真理を勝手に作りかえることは、必ずしも簡単ではなかったのだと私は思います。

ギデンズは伝統が伝達される過程を次のように描写しています。すなわち、伝統が伝達されるのは、ただ惰性的に後世に伝えられるのではなく、当事者たちが記憶をたえず能動的に再生産していくからです。たとえ内容は同じでも、それを維持しながら後続の世代に伝えていく作業は、意識的に意図されることによって初めて可能となります(p.120)。

伝統として当事者たちに「記憶」されることは、単に覚えたことを「想起」することとは異なります。想起が無意識のうちに思考に上るものを指すのに対し、「記憶」は意識的に言語化・記号化されるものです。

伝統社会では、比較的時間をもつ身分である守護者が、その身分的特権により、伝統の細部について確認する権限を有します。この確認・解釈作業にどこまで恣意が入り込むかは分かりませんが、おそらく主観的にも守護者たちはその記憶の確認作業に個人的な感情をはさみ難かったのではないかと思います。伝統社会のおける儀礼とは、そのように確認された記憶を社会全体に対して再演する行為です。それにより守護者の確認作業が正しいものと認められます。この儀礼は、単に惰性的に行われるのではなく、ある記憶を「伝統」として認めていく意識的な行為です(p.120)。

この儀礼が示す「真理」に対しては誰も反駁することはできません。そのような「真理」を検証する権限は守護者だけがもつからです。しかし守護者もまた、その「真理」が「真理」であることを自分の中で確認するためには、それが伝統にのっとっていることを自分の中で確信しなければならなかったのだと思います。ある「真理」が真理として認められるのは確かに絶対不可侵の有する守護者の権限が必要だったのですが、その守護者自身もまた「伝統」と自己の知識との突き合せを強いられていました。このことをギデンズは次のように説明しています。

「伝統の守護者は、それが長老であれ、治癒師や呪術師、宗教上の職務執行者であれ、伝統のなかで重要な行いを果たしていくが、それは、その人たちが伝統の有す原因力の作用主体、つまり原因力の極めて重要な仲介者であるからである。この人たちは秘伝の配り手であるが、この人たちのもつ秘儀の技能は、この人たちが秘密の、ないし秘伝の一連の知識を習得しているからというよりも、むしろ伝統の有す原因力に深く関与していることから生ずるのである」(p.123)。

また上で述べたように、この秘儀を仲介する権限は、まさにその守護者がその身分にあるという事実に由来していました。

しかし、ではこの「伝統の有す原因力」とは何か?という問いが出てきます。守護者自身が「何かの現実に対する適切な理解がその人の頭のなかにある人間ではな」いにもかかわらず、民衆をしてそれを伝統と認めせしめる「原因力」とは何なのか?

ギデンズによれば、伝統には「規範性」なり「道徳性」というものが含まれており、つまり伝統は習慣的になされる事柄(だけ)ではなく、「なすべき」ことをも示しています。この道徳性は人々に「何らかの生きていく上での安心感」をもたらすゆえに、伝統は人々に絶えず受け入れられていきます。その安心感のゆえに人々は伝統に対して感情を投入してそれを維持しようとします。

しかし、伝統がこのような感情移入によって支えられていることは、利点であると同時に伝統が絶対的に堅固ではないことをも意味します。「なすべき」ことを伝統という外的からの指図によって与えられて安心感を得ようとすることは、その裏には不安感があることを示しています。伝統の崩壊という事態は、それが示す「なすべきこと」を人々が無条件には受け入れられなくなったからです。

現代の専門的知識と同様に、過去の伝統も決して堅固なものではありませんでした。むしろ伝統は人々の異議や不安を無理やり押さえつけることで成立したのであり、何かのきっかけでその異議や不安が噴出したとき、伝統はその力だけで人々を押さえつけることは不可能でした。

知恵、秘伝、信頼

ところでギデンズは伝統の真理性が守護者の身分に拠って保証されることを強調する一方で、同時にその反対のことを、すなわち伝統の真理性が(ギデンズ自身は明示的にそう言っていないのだけれど)守護者自身の能力にも依存していたことをも示唆しています。

例えばギデンズは、伝統的知識の有す真理性が、守護者などが有す技能に依存していた事例を指摘しています。

「(伝統社会における)大多数の技能は、熟練を要す技巧であった。これらの技能は、見習い奉公や実例を通して教え込まれていくため、したがって、こうした技能がみずからの一部として権利主張していく知識は、秘密の、秘伝のものとして保護されてきた。被技は、駆け出しの新規参入者に対し奥義伝授を強要する。したがって、熟練を要す技能の持ち主は、たとえそうした技能が伝統という社会の明らかな幻影から相対的に隔離されている場合でさえ、事実上守護者になることが多い」(p.152)。

そのような技能の例として、狩猟社会における秘伝が紹介されます。

「クン族の男たちは、砂地の上に残る足跡から、その土地に生息する動物をすべて特定することが可能であった。クン族の男たちは、その動物の性別や年齢、どのくらい足速く移動しているのか、健康状態、さらにどのくらい前にその地域を通過したかを推測することができたのである」(p.152)。

この例は、伝統社会における技能・秘伝・真理が、(ギデンズ自身がどこまで理解しているかは疑問ですが)必ずしも守護者の身分に依存するわけではなく、むしろその知識の現実的有効性に対する人々の信頼によって支えられていたことを示唆しています。生きるか死ぬかという状況においては、その技能の現実的実効性だけがもっとも問題になります。このような技能は、身分によって効力を持つ儀礼とは異なるものです。以下の記述も同様のことを示しています。

「伝統の守護者には、その人の専門分野がある。だからたとえば、職人の技能や位置づけは、聖職者のそれとは通常まったく別個のものであった。とはいえ、専門分化された知識の所有者である伝統の守護者は、決して純然たる「普通の人」になりきることはできなかった。その人たちが「知恵」を有していることは、その人たちに共同体全体に通ずる独自な地位をもたらしてきた」(p.167)。

伝統の「知恵」と対比されるのが、近代以降の社会における「専門的知識」となります。「知恵」がその職人の能力と分かちがたく結びついているのに対し、「専門的知識」は非人格化され、誰もが近づくことができる、そうギデンズは説明します。例えば、理屈の上では、誰もが司法試験を受けることができるという意味で。

「専門的知識」の最大の特性は、それがつねに懐疑にさらされ、再検討されていくことです。上で述べたように、現代は専門家の専門性が激しく疑われている時代です。専門家の数は大量になっているのですが、科学的知識は変化する現実に追いつけないため、つねに知識は修正されていきます。

近代以降の専門知識がそのように修正を余儀なくされるのに対し、伝統の知恵は、社会の変化が緩慢であったがゆえに、一度確立し人々に真と認められると、ゆるぎない地位を保つことができました。

しかし、この「知恵」と、ギデンズが最初に提示した伝統の「定式的真理」、すなわち儀礼によって示される真理とは、異なるものです。儀礼は、それが現実的有効性をもつからではなく、「なすべきこと」という道徳性を頭ごなしに提示し、また一定の身分にある守護者によって提示されることでその真理性を認められました。それは、なぜそれが真理なのかを問われないからこそ、真理の地位を保持し続けることができました。この儀礼による真理の提示が、現実との接触を失っていることをギデンズも指摘しています。

「認識すべき重要な点は、儀礼がまた、毎日の活動の実務から程度の差こそあれ明確に切り離される傾向があることである」(p.121)。

上で、伝統はつねに意識的に検討され解釈され伝達されていくことを述べました。このような意識的な作業は、日々の具体的活動と切り離された、いわば「頭でっかちな活動」です。それに対し、熟練によって獲得される「知恵」は、その真理性を現実的な有効性によって保証されています。

私には、伝統社会におけるこの儀礼と知恵との相違は、現代社会にも持ち越されているように思います。

ギデンズは、伝統社会の定式的真理とは異なり、現代社会の専門的知識は非人格化され、たえず修正されることを強調します。ギデンズは、現代社会の知識のこの修正可能性は、現代では専門知識が、ローカルな状況に依存する知恵とは異なり、科学的知識としてテクストの上で定式化され、それゆえに場と時間に拘束されずに再検討されることが可能であることに由来すると指摘します。

この指摘自体は正しいとしても、おそらくこのような「修正可能性」は、必ずしも知識と現実との接触を促す効果はもちません。たしかにこの「修正可能性」により、知識は万人が近づくことができ、公開の場ですべての人によって議論・再検討されることが可能になっています。しかしそのような修正を経たとしても、専門知識がテクスト上で示される定式として示され続ける限り、それは無限に修正を重ねるだけで、人々の信頼を専門知識が獲得することはないでしょう。

多くのシンポジウムが開かれ、そこに「一般の人」がどれだけ参加しても、そこで提示された批判・意見によって修正された知識は、テクスト上の「新しい知識」として示され、その批判・意見が提出された場・時間すなわち状況を無視して定式化されます。その定式化された知識は、別の場・時間・状況で湧き起こった問題には対応できず、そこでまた知識は修正を余儀なくされます。

私には、そのような無限の修正要求が沸き起こる構造こそが、専門知識に対する人々の無限の要求と不信を増幅していく原因のように思います。

またこのように無限に不信を生む構造のゆえに、ギデンズが指摘するように、現代の専門家は自分の履歴に資格証明書や学位を付けることで、自分の権威を何とかつなぎとめようとします。それは、かつての伝統の守護者が自分の託宣の真理性の根拠を自分の身分に求めたことに似ています。

伝統社会における守護者が示す儀礼的真理にしても、それはギデンズが指摘するほど人々に安心感をもたらしていたのかは、疑わしい。単純な例ですが、中世の魔女狩りや宗教改革をみればわかるように、「伝統社会」における真理もつねに人々の不信と不安をむりやり押さえつけるだけの効果しか持ちえなかったのであり、それに対する疑いが出るや守護者たちはヒステリックな行動によって自らの権威を脅かすものに攻撃をしかけました。

それに対し、現実的な有効性を示す「知恵」は、単に「なすべきこと」を示す儀礼的真理とは異なり、人々に自然に納得して受け入れられていたものです。

この「知恵」の有効性は、おそらく現代の専門家にもあてはまるはずです。私たちが専門家を不信の目で見つめるのは、その専門的知識が現実との関係を失っているにもかかわらず、その専門家が自らの権威を資格証明書に求めるときです。それに対し、本当に私たちが専門家を信頼するのは、その専門家が個人的能力を実際に示して現実的な実効力を体現したときです。このような専門家に寄せる信頼は、おそらく近代以降の社会における専門的知識の有す修正可能性などとは関係の薄いことです。

知識の修正可能性と脱状況依存性という特徴は、それ自体は間違いではなくとも、知識が私たちにとって持つ意味という問題を考える際には、ギデンズが考えるほど中心的な問題ではないように思えます。

専門的知識の修正可能性により、すべての人が知識について公開的に討議し、それによって専門家と一般の人々の間に信頼が生まれるというモデルは、ギデンズやベックが考えるほどには、理想的な状態ではないと私は思います。そこには、いかにもヨーロッパ的な「自立した個人」「市民社会」「公共性」などの古い理念を現代において復活させようという意図も感じます。そのような明証的な議論の積み重ねによって安定した社会を築けるという理念を、彼らはどこかでもっているのではないかという印象が私にはあります。

しかし私には、実際に必要なことを、「知識」をもう一度、状況依存的な「知恵」に転換させることではないかと思います。状況依存的な「知恵」はテクストによって定式化されるのは困難であり、まったく違う場で討議の遡上に載せるのも困難になります。またすべての人がそれに意見を加えることも困難になります。

しかし、「自立した個人」がそれぞれ意見を言い合うというヨーロッパ市民社会のモデルでは、状況依存的な「知恵」がもつ現実的な有効性を信頼するだけの心理的余裕をもつことはできないのではないか、というのが私の印象です。

状況依存的な「知恵」を尊重することは、年長者・経験者を尊重することです。それには権威との葛藤を乗り越えることが個々人に要請され、簡単にはすべての人が口出しすることは不可能です。

ただ、状況依存的な「知恵」は、身分によって示される伝統・儀礼とは異なるものであり、「知恵」はつねに現実的な有効性をもつものだということを理解するのであれば、それを尊重する姿勢は人々の間で育まれるのではないかと思います。社会秩序への信頼を取り戻すには、まずそのような態度が必要のように思いました。



写真:銅像の前の自転車

『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』 1

2007年04月13日 | Book



社会学者アンソニー・ギデンズとウルリッヒ・ベック、スコット・ラッシュによる共著『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』を読みました。原著が出版されたのは1994年なので、もう13年も前の本です。

ただ、1990年の東西の壁崩壊以後は、基本的に社会状況は同じ方向に動いていると私は思うので、13年という時間もそれほど長くは感じません。1995年と1985年はそれぞれまったく違う時代かもしれませんが、1995年と2007年は同じ時代のように思えるのです。もちろん変化の速度はとてつもなく速いのですが、90年以前と以後は何かが決定的に変わってしまったような印象があります。

三人の執筆者のうち、スコット・ラッシュの論文は途中で読むのをやめました。重要なことが書かれているかもしれませんが、とりあえずはここではギデンズとベックの議論に関する感想を述べたいと思います。

強いられた自己決定と選ばれた自己決定

読んで思ったのは、ギデンズとベックの間に「再帰的近代化」に関する意見の違いはほとんどないということ。力点は異なりますが、基本的に状況認識は同じです。

「再帰的近代化」とは、「近代化」を特徴づけると思われてきた制度と個人のあり方が、現代では崩壊・再構築の過程にあることを意味する概念です。

分かりやすい例では「福祉国家」という概念があります。「福祉国家」とは、国家が国民の生活を「ゆりかごから墓場まで」見るという理念です。このような理念が実現可能と思われたのは、19世紀終わりから20世紀初頭にかけては資本主義的大量生産が欧州各国で本格化し、また国家が領域内の国民生活を監視するシステムが完成した時期だからです。国家は国民の国家への従属を促して国内統一を図るために、福祉制度の整備が急務となりました。その財政基盤となったのが経済成長でした。

資本主義的大量生産は労働者の完全雇用を可能にし、労働者である男性の肉体・精神を維持し再生産するための「家庭」が女性によって担われました。また階級というコミュニティは労働者の精神的・物質的な支えとなりました。このような労働者の組織への従属、家庭による女性の束縛、労働者コミュニティの形成などによって、「近代」は形成・維持されてきました。男女分業やコミュニティという、一見近代的でないものによって初めて「近代」は完成されたのです。ベックはこのような「近代」を「単純な近代」と呼びます。

「単純な近代」に対して、現代は「第二の近代」あるいは「再帰的近代」という状況が出現している時代です。それは、「単純な近代」が達成した経済成長を基盤にして、例えば女性が家庭に縛られることを拒み社会に進出し始めた状況です。また労働者の子弟はもはや労働者コミュニティに縛られない職業選択を行っています。さらに経済成長によって消費者の嗜好が多様化したために、資本主義的大量生産は絶対無二の経済戦略ではなくなりました。

単線的な経済成長が終ると同時に、男性はかつての「労働者」という役割を脱ぎ、女性も「家庭」から脱し始め、企業の側は多様な生産形態と雇用形態を採用しはじめました。このように組織のあり方も個人の生き方も唯一の指針を失っているのが「再帰的近代」の特徴です。かつての制度・個人のあり方がもはや有効ではないため、組織も個人も自らのあり方を自己決定せざるをえないようになっています。

ギデンズとベックに違いがあるとすれば、ギデンズがこのような現代の社会状況において個人は能動的に自己の生活を自己決定によって構築しているとみなすのに対し、ベックは組織・制度の変化によって個人はむしろ自己決定を強いられていると見なしていることです。

たとえば、派遣労働の増加というトピックをとると、ギデンズ的にみれば、その現象は個々人が労働と人生の関係を画一的に見るのをやめ、自己の私生活面での充実と仕事とのバランスを自分で決定しようとする現象と見ることができます。元々マルクス主義的な社会構造分析をしていたギデンズですから、派遣・パート労働の増加には企業の都合が大きく影響していることは必ず考慮しているはずですが、同時にそのような組織・制度の変化には働く側の意識変化が大きく影響していることを指摘するはずです。

それに対しベック的な視点では、企業が多様な雇用形態を採るのは雇用側の都合でそのような制度改革を推し進めた結果であり、個々人はそれによって派遣労働を採るかor正社員として働くかという決定を迫られ、また派遣労働として働く場合でもその決定は自己責任によると認識することを強いられているのだと見なします。つまり、個々人による自己の人生の構築という現象は、個人がそれを望んだ結果ではなく、多くの人にとっては制度変化によってそうするように強いられている結果だということです。

ベックにとって、“reflexive Modernization”(「再帰的近代化」)とは個々人が自分を省察する“reflexive”な態度を意味していません。ギデンズとは違って、そのような反省能力を個人が身につけていることを言いたいのではないのです。

ベックは、「近代社会」すなわち技術発展・経済成長・福祉国家・完全雇用・男女分業といった理念が崩壊していった原因は何かということを考察しません。おそらく、そのような「単純な近代」の制度を崩壊せしめた単一の原因を求めることは、彼にとってはできないのです。

「単純な近代」の制度は環境破壊をもたらし、完全雇用を終らせ、女性を社会進出させています。ギデンズであればそのような変化に一つの筋道を見つけます。企業が完全雇用を採らなくなったのは消費者の嗜好が多様化したため、需要動向を正確に把握することが不可能になったからです。またそのような嗜好・価値観の多様化によって個々人が様々な生き方を模索することにつながり、働く人自らがフルタイム労働という道を必ずしも選ばなくなりました。また女性の社会進出により少子化になり、ピラミッド型の人口構成を前提にする福祉国家は不可能になったのです。

それに対しベックは、そのような制度変化の原因は考察せず、単に「単純な近代」が「再帰的近代」へと移行している現象を取り上げ、すべてが不確実でとなっている現象の表面を描写します。また、ギデンズが個々人による人生の再構築ととらえた現象も、制度の変化によって個人は自己決定を強いられているとみなします。

ベックにとっては現象の原因の追究ではなく、あくまで現象の表面に接して直感的に感じることをそのまま描写することが重要になります。それゆえ彼には、個々人が自己決定を強いられている状況は、必ずしも個人にとって自分の人生を決める機会が増えているとはみなされず、制度の変化によって安定した人生を個人がもはや歩めなくなり、ただ状況に流されるように見えていきます。ベックが「再帰的近代化」の典型的特徴として「大量失業」「先進国における第三世界」といった事柄を挙げるのはそのためです。もはや失業は階級問題ではなく、個々人の選択の結果として捉えられ、個々人は失業すら自己責任によるものと認識することを強いられていきます。

ベックにとって制度の不確実さは、個々人が作り出したものではなく、単一の原因が何かはつかめない状況であり、その状況によって個々人は「自分で決める」というルール以外のルールを与えられなくなっているのです。彼は次のように述べています。

「労働に参加するには教育を受けることが必要であり、労働への参加も教育への参加も、社会移動と、容易に社会移動ができる態勢を前提条件にしている。これらの条件はすべて、人が進んで自分自身を一個人として組み立てていくことを、つまり、個人として計画し、理解し、構想し、行為する―あるいは失敗した場合には、みずからが招いた帰結に耐える―こと以外何も求めない、そうした必要条件である。
 ここにもまた同じ構図を見出すことができる。意思決定ではあるが、おそらく意思決定不可能な意思決定、つまり、決して自由な意思決定ではなく、ジレンマを引き起こすモデルのもとで、他の人によって強制され、自分自身を無理やり奪い取られた意思決定である、という構図である」(p.35)。

こうやって説明してしまうと、あまりにも身も蓋もないことに私自身もあきれてしまいますが、「再帰的近代化」をめぐるギデンズとベックの違いは上記にあると思います。ただ、それも力点が異なるだけであり、両者はともに互いの意見を否定しているわけではありません。むしろ、「自己決定」という現代社会の特徴に対して、一方はそれを状況変化によって強いられることを強調し、もう一方はそこで個人は始めて自己省察して自己の人生を切り開くことを強調します。現代社会において見捨てられた人と成功している人の両者がいるなかで、ベックは前者を、ギデンズは後者に焦点を当てているとも言えます。

参考:『親密性の変容』 アンソニー・ギデンズ(著) 1 2『モダニティと自己アイデンティティ』 アンソニー・ギデンズ(著)


専門性の崩壊

私にとっては議論の面白さはやはりギデンズの方にありました。彼の議論で印象に残ったことなど。

この本でも他の本でも、ギデンズが社会を分析するのに着目しているのは、社会の“規則”の源泉です。端的に言えば、この“規則”は過去には権威者・首長者による託宣によって与えられ、現代では「専門家」によって与えられています。

封建世界やそれ以前の世界では首長と従者の関係は現代ほど明文化されておらず、ヴェーバーが言うところの「個人的」「人格的」な絆によって結ばれていました(と、ここではとりあえず言っておきます)。

それに対して現代では、行政が認定する「専門家」や法曹家によって社会の規則が決められています。企業の技術者・医者は大学で学位を認定されていますが、過去にはそれらの専門家は国家の認定を受けずに活動することが許されていました。

「単純な近代」の時代は、上記の「専門家」たちの絶対性が信奉されていた時代でした。社会も科学も単線的に発展していくだろうと考えられていた時代では、近代国家によって創設された「専門家」制度は、無条件に信頼できる専門家を輩出すると思われていました。それに対して「第二の近代」「再帰的近代」の現代は、そのような「専門家」の資格が疑われている時代です。

表面だけを見れば、現代は「専門家」が増えている時代です。司法試験合格者は増え、博士号やMBAをもつ人は日本でも世界でも激増しています。行政は資格制度を創出して様々な分野の専門家を作り出しています。

しかし同時に現代はそのような専門家たちの専門性が激しく疑われている時代です。それには、環境破壊によって科学技術の絶対性への信奉が激しく揺らいでいることを初め、様々な分野で絶対的に信頼できる知というものが存在するとは考えられなくなったことが影響しています。例えばタバコやコーヒーや牛乳は健康によいのか悪いのかは専門家によって意見はまちまちです。経済を発展させる処方箋について確信をもって意見を述べることのできる経済学者はいないでしょう。医療者と患者との信頼関係の構築は現代になってその端緒についたばかりです。

大学や行政によって「専門家」が大量に輩出されると同時に、「一般」の人はその専門性を疑うようになっています。ただ、これは悪貨が良貨を駆逐するという単純な話ではなく、(科学)知識の増大が社会・対象への認識を深めることにはつながらないという事実に人々がやっと気づき始めたからです。その気づきに至るまでに、「単純な近代」の理念の崩壊という現象を社会は体験しなければなりませんでした。

大学や行政による「専門家」の大量の輩出は、知が社会・対象への認識を深めることには必ずしもつながらないという時代の趨勢を前にして、時の権限保有者たちがなんとか知の信頼を取り戻そうと色々な手を打っている現れです。新しい名称の学科や様々な資格を作ることで、「専門家」という制度を時代の変化に合わせようとしているのです。

また多くの人はこの不確実な時代では自分のキャリアに保証を求めるので、それらの制度に参加して自らを専門家にしようとします。しかし、そもそも時代が不確実なのは、技術も経済も社会も安定していないことに原因があります。そのことに目を向けずにとりあえず「専門家」になってもキャリアが安定することはありえません。MBAや博士号を取っても、実際に変化するビジネス社会で行き抜く知恵を持たなければ、誰も彼を雇おうとはしません。現代は法曹家でも職が安定しなくなりつつあります(これは決して日本だけの現象ではありません)。

ギデンズもベックも、このような時代認識を踏まえつつ、専門家がその専門性を自分で疑い、その知識を公開的な討議によって再検証することの必要性を訴えます。



『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』2 へ続く



写真:公園で遊ぶ親子