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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『ピューリタン 近代化の精神構造』 大木英夫(著)

2007年04月24日 | Book



神学者の大木英夫さんが1968年に発表した『ピューリタン 近代化の精神構造』(中公新書)を読みました。

主に、イギリスにおける1600年代のピューリタン革命時の、ピューリタン、イギリス国教会、議会、国王などの間で行われた議論・闘争の経緯をスケッチし、そこからピューリタニズムの思想の特徴を描き出そうとしている本です。

この本で行われているピューリタニズム思想の特徴自体はよく知られているものですが、それは大木さんのような方々の努力で人口に膾炙し、私にも馴染み深いものになったのだと思います。

この本の中で私にとって印象的だったのは、ピューリタニズム思想と「人権」思想との強い結びつきについて。

著者は「人権」と所謂「市民権」との違いを強調します。つまり、「市民権」が主に財産の保護・職業選択の自由などを重視するのに対し、「人権」はより人間の自由の根幹に関わるものと受け取られます。言い換えれば、「人権」(「自然権」)の創出により、人間の「自由」というものが存在すると深く意識されるようになったともいえます。

大木さんは、英国の清教徒革命時にクロムウェルらが感得し・実践した「人間の自由」とピューリタニズム思想・真理観との結びつきを指摘します。

従来のキリスト教観では、神の真理はローマ教皇に与えられ、教皇から一般の人に与えられるものでした・それに対しピューリタ二ズムでは、神は個々人一人ひとりに真理を語りかけると考えられます。

ここから、もはや特別な人間だけではなく、すべての人間が神の真理を伝えうるという考えが出てきます。クロムウェルが率いた軍隊の一般兵士には次のような確信が見られたそうです。

「もしひとりの人間から多くの人間に伝えられた伝言を聞かないことが危険であるなら、われわれの多くによって語られた神からの言葉を拒絶することは、もっと危険である」(p.144)。

現実には様々な意見の相違がありながら、それでもすべての人は神の声を聴いていると信じるとき、ピューリタンは現実に存在する議論の相違を積極的な視点で見るよう強いられます。つまり、議論を「建設的」なものととらえるようになります。

現実に存在する意見の相違を肯定的に見るためには、自分の意見も他者の意見も、相互に相違するにもかかわらず、神の意思を反映すると見なす必要があります。ここから、自分や他者の意見は完全な真理に到達していないという相対主義の視点と、しかし神の真理は存在すると言う絶対主義の視点が共存が求められることになります。

我々は誰も真理を知りえない。しかし真理は存在する。この矛盾を生きるためには、一人では真理を知りえないがゆえに、つねに他者が知っている神の真理を参照する必要が生じます。ここから、神の意思を体現するものとしての他者の尊重と、他者が知る神の意思を聴く機会としての議論の重視という態度が生まれます。議論は、自分の意見を言うための場(だけ)ではなく、他者が知っている神の意思を聴く場となります。

大木さんは、以上のようなピューリタニズムの思想を述べたクロムウェルの言葉を引用しています。

「まことにわたしは多くの人々がわたしたちに語るのを聞いた。そして私はそれらの中で私たちに語られたのだと考えざるを得ない。ここに語られたことの中には神が私たちに示そうとされた事柄があると考えざるをえない。それにもかかわらず語られた言葉の中にはいくつか矛盾があった。しかしたしかに神は矛盾の作者ではない。わたしたちは同じ目的について語ったのであり、失敗はその方法においてであるにすぎないと思わざるをえない。目的はこの国を抑圧と隷属から解放することであり、神が私たちをそのために用いられたそのみわざを完成することであり、そこにわたしたちの正義と義の目的の希望を確立することである」(p.143)。

大木さんはこの思想に、ピューリタニズムが「寛容の精神」と結びつく契機を見出します。すなわちそれは、「一方において自分がとらえた真理の断片を大切にし、他方それを真理の全体のように絶対化しないで、他者がとらえた真理の断片をも真理の全体性の把握のために不可欠だと尊重していく態度から出てくる寛容」であるということです。また「近代デモクラシーの源流」は、ここに存すると指摘します。


ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で行った説明では、ピューリタニズムの思想では、神に選ばれた人間はその徴(しるし)を体現するはずであり、その徴は商業活動の実績によって証明されると考えられました。ここから、自分は神に選ばれているはずだということを証明するために、商人たちは商業活動に邁進していったと推測されます。到達不可能な「神に選ばれているはずだ」という徴を証明するための活動ですから、それは永遠に終りのない神経症的な反復へとつながっていきます。ウェーバーは、そこに近代の経済活動の一種の病的な反復性・嗜癖を見出したと言えます。

では、上記のクロムウェルらの思想にはそのような病的性格が見られるでしょうか?


ピューリタンの思想では、個々人は不完全でありながら、同時に真理を部分的に体現すると考えられます。またそれゆえ、その真理を完全なものとするために、他者が知る神の真理を参照する必要が強調されます。

しかし個人が真理を知りえないという前提がある以上、そこにもまた、神経症的な無限の真理追究活動があり、それには他者がもつ「欠陥」を無限に追及する精神が生まれます。「寛容の精神」は、他者が真理を知ることを認める態度から生まれますが、それはつねに、他者も完全な真理には到達していないと言う認識につながります。

ここから、自分への懐疑と同時に、他者への懐疑が生まれ続ける土壌が出来上がります。

それがいいことなのか悪いことなのか、私には分かりません。いや、もちろん悪いことじゃないでしょう。何かを信じきるよりは、つねに懐疑の態度を持つことのほうが健全に私には思えます。

大切なのは、そのような懐疑と人間への不信とが結びつかないような雰囲気が社会の中に生まれるかどうかですね。論理的な意見の異同と、意見が異なる他者への心理的な不信とが結びつきやすいこと、それが問題なのだと思います。私の印象では、その結びつきをもたないような成熟した人はほとんど存在しないのではと思います。それは、ピューリタニズム思想の伝統がある欧米でも日本でも、そしておそらく他の地域でも、事情は同じじゃないでしょうか。

民主主義に必要なのは、ピューリタニズム思想云々よりも、もっと深い部分での他者への信頼の感覚、意見が異なる者への心理的な信頼の感覚のように思います。それとも、ピューリタニズムにそのような信頼の感覚があったと言えるでしょうか?