joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『ガラス玉演戯』ヘルマン・ヘッセ(著)

2006年09月21日 | Book


ヘッセの『ガラス玉演戯』を読みました。

僕はヘッセの作品を一部しか読んでいないけど、『車輪の下』『知と愛』を読んだあとで読むと、類似のテーマが扱われ、彼にとって初期に抱いた問題は終生付きまとっていたのだなと思わされます。

『車輪の下』を読むと、人間の人生には、その人自身では抗いようもない力が働き、その人が歩もうとした道から引きずりおろすのだなと思わされます。ヘッセにとって、社会的規範であり成功の道だったエリート神学校からの逸脱は、人間の内部には、だれが見ても当然であり正当であると思われた人生の道ですらその人の生にとっては真実ではないことを意味しうることを表していました。

社会的規範に抗い、それから逃走し、既存の社会的なものとは異なる新しい個人的な道を歩むように、“何か”が個人に仕掛けることがあります。

『車輪の下』の主人公は、その抗いがたい力に翻弄され、神学校から脱落し、実家に帰ります。彼は神学校は自分の道ではないことを、自分の中の“何か”によって教えられました。

しかし同時に、その“何か”は、では主人公の彼にとって真実の道は何なのかまでは教えませんでした。

あるいは、その真実の道を教えるまで主人公は耐えることができませんでした。それまで明らかなエリートの道だけを信じていた彼にとって、その道から外れたとき、神学校が自分の道ではないことは分かっても、では本当の道は何なのかを理解するだけの力は彼には残っていませんでした。彼は、社会的な規範にも馴染むことができず、しかし彼に真実の道を教える“何か”について行くほどの精神的な力強さも養っていませんでした。社会的なものに沿うほど彼の個性は飼いならされてはいず、しかし自分自身の道を独り歩むだけの力強さも養っていませんでした。それゆえに、最後に彼が倒れたのは必然でした。

ほぼ自叙伝として書かれた『車輪の下』でヘッセは、自らは職業作家として成功し始めていましたが、神学校から逸脱した自分にとって正しい人生の道は何なのかは分からず、逸脱した時点で一度自分の人生は終ったものと感じられたのではないかと思います。

それに比べれば、円熟期の『知と愛』は、神学校という社会的規範と、それ以外の道との対立と融和がテーマになっています。ここでヘッセは舞台を中世に移しています。舞台を中世に移したからこそ、エリートの道と自分自身の真実の道との対立という問題を、その対立と融和というストーリーによって描くことができたのだと思います。

主人公のゴルトムントは神学校から逸脱したヘッセ自身を表しており、神学生であり学長となるナルチスは、社会的規範を表しています。舞台を中世に移すことで、ヘッセは自分自身の本能のままに生きるゴルトムントという人物を、あたかも本当にそういう人間がいるかのように描くことができ、自分自身の個性を生きることが人間にとって可能であるという理想を表現しました。またそのように個性を生き切るという理想を一方に描いたからこそ、他方で社会的なものたる神学校の象徴であるナルチスをもう一つの理想として描き、二つの対立と融和を表現することができました。

『ガラス玉演戯』は、このゴルトムントとナルチスを一人の人物に凝縮しようとしています。主人公のクネヒトは、作品全体において、ナルチスのような人物像を示しながら、彼は社会的規範たる神学校ではなく、芸術と学問を同時に追及する、現実には存在しない架空の理想共同体「カスターリエン」という舞台の中で「ガラス玉演戯」の名人として生きます。主人公の人柄はヘッセにとってはエリートの道を歩む者なのですが、その主人公が生きている世界は“精神”を追求する理想共同体です。

しかしこの理想共同体は同時に、国家と戦争というヘッセの生きた現実に囲まれています。ここでヘッセは再び、エリートとしての社会的規範と、個性的な真実の道との葛藤をテーマにします。

主人公のクネヒトは、その理想共同体で芸術においても学問においても頂点を極めますが、その芸術と学問が現実と遊離していることに悩み始めます。ここで、保護され閉鎖された空間で理想の“精神”を追求し続けるか、そこから逸脱して自分の個性をもう一度歩み直すかを主人公は迫られます。

この作品のラストは、ヘッセが最後まで、規範に囚われない個性の道を探し続け、彼自身は成功した作家として外面的には自分自身の道を歩んだように見えながらも、自分は本当に自分の道を見出したのだろうかと疑念にかられていたことを表しているようにも読めました。


涼風