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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

「自退症について」宝彩有菜(著)

2006年09月12日 | Book


「ひきこもり」や「ニート」という現象については、『ひきこもりと不登校―こころの井戸を掘るとき』(関口 宏 著))や『希望のニート 現場からのメッセージ』 (二神能基 著)といった本を以前読みました。

これらの本では、「ひきこもり」や「ニート」の人たちへの批判的記述はなく、またどうして「ひきこもり」や「ニート」といった行動パターンが生まれるのかについての分析もなかったように記憶しています。

なぜそういった現象が生まれるのかといった原因を追究するのではなく、現実にそういう行動パターンを示す人々を前にして、ともかくそういう人たちが存在するという現実を社会の側が受け入れようという姿勢が貫かれていると思います。

それに対して、『ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』(玄田有史 曲沼美恵著)でも、同じように「ニート」の人たちがなぜそういう行動パターンを取るのかという分析はなく、彼・彼女たちの置かれた社会的・経済的な状況を客観的に示しながら、社会はどういう対策を採るべきかを考えると言うスタンスが取られています。例えば学校時代からの就業体験など。

それらの本に比べて、『社会的ひきこもり―終わらない思春期 』(斎藤環著)は、学校から企業へという社会のシステムの中で、戦後に社会が豊かになる中で、過剰な期待を背負った男子が、社会に適応できずにひきこもってしまうという分析を提示し、まず彼らを社会に参加させることで治療しましょうという提言をしました。「ひきこもり」を、社会に参加していない(例えば家族以外で親密な関係を持つ友人関係をもたない等)ことで、不安障害や鬱的傾向をもつようになるという臨床例を示しながら、より実践的な治療を提言しました。

上記の本に比べて、斎藤さんの本は、なぜ若い人が「ひきこもる」ようになるのかという原因を大まかに示し、それへの対処を“治療法”としてより緊急を要する問題として提示しました。

ただこれらの本を読んでも、「ひきこもり」や「ニート」という行動パターンの心理は納得いく説明がなされていないという感じでした。

「ひきこもり」や「ニート」に関する記述の多くは、印象では、どうも自分自身の彼・彼女たちに関わった経験をそのまま話すというタイプになり、どうも深みがないという印象がありました。

僕が知っている中では、宝彩有菜さんの「自退症について」という文章が、「ひきこもり」や「ニート」といった行動パターンの心理分析で最も詳しいものです。

この文章を読むと、どういう立場の人が読んでも、「ひきこもり」や「ニート」という行動パターンに陥いることの苦しみが理解できるのではないかと思います。

「ニート」や「ひきこもり」を扱う記述の多くが一方的な擁護だったり非難だったりするなかで、この「自退症について」は、「ニート」や「ひきこもり」の人たちはどういう心理メカニズムが原因で何に苦しんでいるのかを理解できるし、それは一方的に家族や社会が悪いわけではないし、また「ニート」や「ひきこもり」の人たちが一方的に悪いわけではない。そもそも何が“悪い”のかを探しても意味がない。しかし、原因が心理メカニズムにある以上、どこかで「ニート」や「ひきこもり」の人たち自身が意欲を持たなければ、彼ら・彼女たち自身が今までと同様に苦しんでしまいますよ、ということを説得的に説明しているように思います。

要するに、“心理メカニズム”という人間の客観的な装置の不調が問題で、それによって「ニート」や「ひきこもり」の人たちは苦しんでいるのであって、誰かを非難するのではなく、その装置をもう一度円滑に動くようにすることが必要だということを、詳しく述べられています。

もちろん、その心理メカニズムの不調を引き起こした原因には、社会の側にも問題があるのですが、その現実を前にしても、個人個人の対処でできることも大きいものがありますよ、とおっしゃっているようにも思います。

長い文章なので、それを詳しくここでコピーすることはできませんが、宝彩さんの主張のポイントは、「ニート」「ひきこもり」の人たちは、子供の頃からの経験から、“社会は自分にとって危険である”と過剰に意識していること。つまり自分を安全な場所につなぎとめておくことを第一としていること。

この“社会は危険である”という認識には、例えばご両親なり他の大人など社会からのメッセージなどによって、過労死など労働世界の過酷さを子供のときに敏感に察知し、それから身を守ろうとするセンサーが働いていること。

その点から見れば、「ひきこもり」や「ニート」には、今の社会では労働世界において過剰に競争が強調され、大人のアイデンティティが労働世界と同一化してしまっているため、大人たちのアイデンティティが脆弱なものとなり、そのことに子供が拒否反応を起こし、“大人になることは危険なことだ”と(間違って?)認識してしまっているということです。

ソニー役員で技術者の天外伺朗さんは、対談『フロー経営の極意』で、「ニート」や「ひきこもり」というのは、今の競争社会の中に入っていけず、どうしても闘えない人たちなんだと言っていますが、それも宝彩さんと似た認識を示しているのだと思います。

人間が自立して生きていかなければならないとき、その自立のためには他人と“競争”しなければならないという社会的通念があるため、その競争を恐れて成長をストップさせているのです。

しかし、競争を恐れて成長をストップさせても、苦しみから逃れられるわけではありません。社会の競争から逃れてひきこもっても、“競争しなければならない”という規範は内面化してしまっているので、ひきこもってしまうと、今度は「自分はちゃんと競争していない失格者だ」というコンプレックスに悩まされます。

また同時に、安全への固執と重なると思うのですが、“競争”という社会の現実に向き合うのを避けるために、長い間司法試験や公認会計士試験に挑戦し続けたり、作家や画家やミュージシャンになる夢を持ち続けて、親を頼って生活し続ける場合もあります。

本来であれば、“競争”という社会の現実に向き合う中で、本当は他人と戦わなくていいことを学ぶのが理想なのかもしれませんが、成長をストップさせているので、非現実的な夢を追い続けることになる場合もあります。

このような状態になってしまったことの原因を、社会の側に求めるか、当事者に求めるかは意味がないことかもしれません。重要なのは、当事者が“社会は危険な場所だ”という断定を訂正することと、必ずしも競争だけではない現実の社会を直視すること、そうすることで初めて当事者は変われるということを宝彩さんは言いたいのではないかと思います。

宝彩さんの文章は、「ニート」や「ひきこもり」の心理メカニズムで苦しんでいる人たちいるなら、その原因はたしかに家庭環境や社会の現実にあるかもしれないこと、しかし、その苦しみは自分自身が変わることによってしか抜けられる可能性があることを説明されています。

「ニート」や「ひきこもり」と言っても、人によっていろいろな場合はあるかもしれません。しかし、もしその人たちが苦しんでいるのなら、宝彩さんの文章は、当事者や周りの人たちがその苦しみの原因を理解する手助けとなるかもしれません。


涼風