「阪急夙川駅の下の川」
経営学者の大野正和さんが2005年に出された『まなざしに管理される職場』(青弓社)を読みました。教えられることの多い本でした。
この研究が目的としているのは、日本的な仕事の倫理と思われている「相互配慮」の精神が90年代以降アメリカやイギリスの職場にも移植されている実態を追い、そのことが米英の職場の人々の心理にどのような影響をもたらしているのかを明らかにすることです。またそれにより、そのような「相互配慮」に基づく職場の雰囲気が、それまでの欧米の職場の雰囲気といかに異なるかを説明し、欧米的な経営管理と日本的な経営管理との違いを明らかにすることです。
著者は、日本的経営を解説する上で「ピア・プレッシャー」という概念を紹介します。「ピア・プレッシャー」とは、管理者の部下に対する管理ではなく、労働者自身による相互的な「管理」です。それは「管理」と呼べるかどうかも曖昧な事態です。
欧米による管理が、管理者による部下への命令・統制という形を採るのに対し、日本の職場の特徴は、労働者たちが職場の成員全体を「チーム」と認識し、各人が「チーム」に対して貢献することを求められるし、また実際に労働者たち自身が「チーム」に貢献しようとします。
著者は、このような日本的な職場のあり方が90年代以降に米英の職場にも積極的に移植された実態を追います。
管理者と労働者という対立図式が描かれていたかつての欧米の職場では、労働者にとって管理職・会社とは“敵”であり、労働者の目的はどれだけ会社から利益の分け前を取るか、また上司の目を盗んでどれだけ自分の労力を節約するかでした。
しかし職場を「チーム」とみなし、同じ職員同士が互いの仕事をチェックしあうという体制を取ると、労働者の目標は敵である管理者と闘うのではなく、同じチームの仲間に“どれだけ迷惑をかけないか”になると著者は指摘します。
この著書で再三取り上げられているエピソードですが、工場のラインの各部門で「チーム」が編成され、その「チーム」の業績にチームの成員全体が責任を負います(まるで「五人組」のように)。そこで怠業などを行うと、それは“敵”である管理者に一矢を報いるどころか、同じ仲間である「チーム」のメンバーに“迷惑をかける”ことになります。
(“ご迷惑をおかけして申し訳ありません”という言葉は日本独特の挨拶言葉だと思います。あるいは欧米にもあるのでしょうか。“I’m sorry to disturb you.”とか)
引用されている例では、チーム制が採用されることにより、もはや労働者は“敵”である経営者ではなく、いかにまわりの人間に迷惑をかけないかに労働者が腐心するようになるかが描かれています。
ある働くシングルマザーのシャロンの例では、彼女が遅刻をすることがどれだけまわりに迷惑をかけるかを自覚していないかを示す発言をしたとき、職場の人々が彼女を叱責する場面があります(p.74)。
真面目に仕事をしないことを叱責することは、管理者でも、というより管理者こそすることで、欧米でもこれまでも頻繁に見られたことでしょう。しかし「チーム」という日本的な労働体制が独特なのは、シャロンに対する次のメンバーの言葉です。
「チームは、彼女の傷を癒すように態度を変えた。彼らは、彼女の気分を害するつもりはないが、シャロンの行いがいかにみんなに影響するかわかって欲しいと話した。…この事件の最後にチームは、「みんな、本当に君を頼りにしている。ここには君が必要なんだ」と彼女に告げた」(p.74)。
チームのメンバーのこの言葉は、本心からのものでしょう。誰も彼女を泣かしたいとは思っていない。ただ同時に、この言葉には、この言葉を発したメンバー自身の焦り・恐怖もあるように思います。
「シャロンの行いがいかにみんなに影響するかわかって欲しい」と彼(彼女)が言うとき、その影響とはもちろん工場の生産が滞ることを言うのですが、それによりこのチームは、会社にも、また納品先にも、ひいては「お客様」にも“迷惑をかける”ことになります。
「チーム」という体制は、すべてを自律的に決定できる体制になるわけではありません。例えば、作りたい商品を考えることができるわけではありません。一定の与えられた課題をこなすことでは旧来の工場と変わらないでしょう。ただそのノルマを果たす際に、一人でやるのではなく、「みんな・チームでする」という事態・心理状態が生まれる点が異なります。
労働者と管理者が対立図式にあるとき、上で述べたように、労働者の団結とは会社からいかに分け前を多く取るか、また労力をどれだけ節約するかに関心が向けられます。しかし「チーム」が生まれるとき、「みんなでする」という行為自体が自己目的化します。労働者VS管理者という対立では金銭的な分け前の取り合いが焦点になるのですが、「チーム」が生まれると「みんなでする」「みんなに迷惑をかけない」という金銭以外の目的が入り込みます。
心理学者のチクセントミハイは、人がその人の技能・適性に合った行為に没頭する状態を“フロー”という概念で説明しました(チクセントミハイについての過去のエントリーは“Good Business” “Flow” 『楽しみの社会学』 「自己と“流れ”」 『フロー体験 喜びの現象学』など)。彼はそのようなフローの例の一つとして工場のライン労働も含めています。マルクス経済学者から見れば「搾取」にしか見えない労働も、それが労働者にとって喜びの源泉となりうるのです。
そのような“フロー”の特徴を元ソニー取締役でCDに開発者天外伺朗さんは、金銭とか名誉とかにリンクされていない活動と定義しています(『フロー経営の極意』)。また成果報酬と結びついた労働が生産性を生まないことを経営学者の高橋伸夫さんも指摘しています(『虚妄の成果主義―日本型年功制復活のススメ』))。
では、この著書で大野さんが取り上げている工場の事例は、“フロー”な状態に当て嵌まるのでしょうか。たしかに金銭以外の目的が労働者のエートスに入り込んできている点では、それまでの欧米の労働と異なるのかもしれません。「みんなでする」「チームワークでする」という行為も、それ自体が自己目的化する行為としては相応しい目標だと思います。
自分ひとりだけの世界を超えてまわりの人間と協力して何かをやり遂げるという体験は、自分ひとりだけではすべてがコントロールが効かないため、様々な相互作用を生み、予想外のトラブルも生じ、それだけに達成感も大きなものになります。
会社経営者の本田健さんは、現在の自分の会社を作るとき、社員にとってその会社で働くことが喜びとなるような会社、社員がその会社で働いて一番幸せになれるような会社を作ろうと思ったそうです(『小冊子を100万部配った、革命的口コミ術とは?』)。仕事自体の面白さもさることながら、会社が一つ家族としてまとまり、その場にいることが社員にとって楽しくなるような会社ですね。本田さんの会社では役職による上下関係もないそうです。
ただ、では大野さんが追跡している工場労働に、そのような“フロー”な雰囲気があるかというと、答えは微妙です。
著者が強調することの一つは、日本的な管理・「ピア・プレッシャー」が導入されたところでは、労働者は職場に心理的に一体化します。課題がチーム単位で与えられるため、業績は個人ではなくチームの成果として現れます。
そのため労働者は自分ひとりの仕事だけではなく、チームの仕事の成り行き全体に注意を向けるようになります。ここから、職場を離れてもつねにチームの仕事のことばかり考えるという態度が生まれます(p.93)。これはかつて日本の「社員」についてよく言われた特徴ですが、著者は今はそれが欧米でも見られることを、しかもそれが日本的経営が移植されたことによって生じていることを指摘します。
この日本的経営は、肯定的な面としては、次のある労働者の言葉に見られるように、かつては欧米の職場に見られなかった家族的な一体感を労働者にもたらしています。
「チームがうまくいっていれば、自分もいい具合に思う。そして、仕事がうまくいかなくて出荷が遅れて残業しなくちゃならないときなんか、お互いに周囲を見回して困っている仲間をかわいそうに思う。そういう羽目になったときは、自分たちのすることに責任を持つ、それが私は好きなのよ。
そして、わたしたちはゆがんだかたちでの家族みたいなものよ。ここで働いている人たちと一緒にいればそうなるわ。ほかの人がしようとしていることがわかるようになるし、彼らも私がしたいことがわかる。(略)ちょっといやなやつもいるけれど、全体として私たちはとっても親しい関係にある」(p.99-100)。
「ゆがんだかたちでの家族みたいなもの」と言っていることを考えると、これは完全に理想的な職場の姿とは言えないかもしれない。かと言って、単に「規律の内面化」とか「見えない形での経営者によるコントロール」というように割り切るのも難しい事態です。実際著者は、日本的経営を経営者VS労働者という対立図式で考える管理論では日本的経営を考察する際には限界があることを絶えず強調します。
著者は、「ピア・プレッシャーには二面性がある。お互いの仕事を厳しく監視し合う側面と、困ったときには仲間同士として力づけあう協調の側面である」と述べ(p.12)、この書の目的は、日本的経営に対して一面的な判断を下すのではなく、それがどういうときに労働者にとってプレッシャーとなるのかを明らかにしたいと述べます。
それでは、この「お互いの仕事を厳しく監視し合う側面」と「仲間同士として力づけあう協調の側面」とをそれぞれ生み出す条件の違いは、実際にどのようなものなのでしょうか。
本を読んだ印象から伝わってくる欧米の職場は、これまで紹介してきたように、日本的な「一致団結」の精神で、「和」を尊び、まわりと協調し合う労働者の姿が浮かびます。
ただ私には、「お互いの仕事を厳しく監視し合う側面」と「仲間同士として力づけあう協調の側面」が、日本的経営という同じコインの裏表とは考え難いのです。これは現場を知らないものの感想です。もっと正確に言えば、「仲間同士として力づけあう協調の側面」という肯定的な側面は、必ずしも「お互いの仕事を厳しく監視し合う側面」と結びつくものではないと思えるのです。
「お互いの仕事を厳しく監視し合う側面」として、周りの労働者が一人の労働者を問い詰める場面がこの本では紹介されます。それは「仕事の厳しさ」として不可欠な態度だと言えますが、同時に“ミス”というものを極端に恐れる労働者たちの恐怖心から発しているようにも思います。
このような一つのミスを極端に恐れる心性は、精神の健康度という点から言えば健全とは言えないものです。まして、そのミスをめぐって一人の労働者をまわりの人間が問い詰めるというのも、一種の集団的なヒステリーにも見えます。
しかし、例えばチクセントミハイが言う“フロー”の状態は、そのような他者に対する罪悪感とは異なるものです。“フロー”の状態においても、行為者は自らの仕事に厳しい規律を課しますが、あくまでそれは自分が納得して設定するハードルです。しかし大野さんの著書で紹介されている工場労働では明らかに、工場・会社によって他律的に設定されたハードルに、チーム全体がおびえている姿がうかがえます。
著者は労働者が極端に“ミス”を気にするのは、その労働者が絶えず他人の目を気にするからだと指摘します。
「ここでは、仕事の良し悪しが職場の人間関係のなかで評価され決まってくることに注意しなくてはならない。仕事とは、いつでも他人との関係において遂行されるべきものであり、彼らがそれをどう見るか、どう受け止めるかが大事なのである。職人気質や天職観念にみられるような、ある絶対的なものを志向する仕事観ではなく、他者との相互依存関係のなかで自分の仕事を位置づける相対的な観念が求められる」(p.80)。
ただ私の想像では、「チーム」として、他者と協力して何かを成し遂げる際にも、ちょうど「プロジェクトX」が紹介していたように、職人気質や天職観念にのっとって仕事が行われることがあるのではないかと思います。
天外伺朗さんは人材は「不良(ハミダシ)社員」からさがせ―画期的プロジェクト成功の奥義』の中で、「集団」という観念に押しつぶされずに、いかに社員を自由に行動させるかが経営にとって大事かを述べています。「チーム」として「プロジェクト」を進めることは不可欠なのですが、その際にディレクションを多く与えてミスを恐れさせることは、必然的にチームの動きを阻害していくのです(“Good Business” by Mihaly Csikszentmihalyi)。
おそらく「チーム」が労働者にとってプレッシャーとなるのは、そこで指示が多く与えられるときです。もちろん「チーム」でなくとも、指示を多く与えられることは、指示を受ける人のミスを誘いやすいでしょう。「~をしてはいけない」と強くいうことは、まさにその「~」をするように人を仕向けてしまう結果になるからです(『四つの約束 』 ドン・ミゲル ルイス (著))。ただ、ミスが「チーム」全体に迷惑を及ぼすとき、それは「五人組」のように、それまで欧米ではあまり知られていなかった罪悪感を生じさせるのかもしれません。
罪悪感とは人に対して感じるもので、幼いころの親に対する罪悪感がそのまま成長しても持ち越され、それがまわりとの人間関係に投影されます。「チーム」制は、それがミスに対する懲罰を協調する際には、その人間関係への罪悪感をよりダイレクトに労働者に意識させる制度です。
「チーム」として働くこと自体は、それが必然的に労働者を心理的に追い詰めることにはならないでしょう。問題は、経営者がその「チーム」にミスの防止を義務付けるとき、それは個々の労働者に個別に指示を与えるよりも、より罪悪感を労働者に多く生じさせ、心理的なプレッシャーになるのではないかと思います。
参考:大野正和さんのHP「〈私〉と過労死の日本的経営論」