「海に浮かぶ船」
画集『J.M.W.ターナー』(ミヒャエル ボッケミュール (著) タッシェンジャパン )をみました。
ターナーといえば「雨、蒸気、スピード-グレート・ウェスタン鉄道」(1884)が有名で、僕でも知っているくらいです。でもその他の絵は知りませんでした。
ターナーは印象派の先駆者と言われているそうですが、彼は1775年生まれなんですね。そんなに昔の人だとは想像しにくいくらい、素人の僕にも(だから?)彼の絵はとても斬新なものにみえます。
イギリスの人というのはやはり絵に影響しているのでしょうか。フランスで活躍したいわゆる印象派の人たちの絵よりも、線が細い印象を受けます。一つ一つのタッチが繊細なのです。
他の画集と同じようにこの本でも画家の絵がほぼ年次順並べられています。解説は詳しく読んでいないのですが、最初は流行の風景画家だったターナーは、ある時期を境に、40代を過ぎてから、現在よく知られている“ターナー風”“印象派風”の絵を描くようになったそうです。その感覚重視の絵は、やはり当時の評論家には受け入れられなかったそうです。
今のわたし(たち)からみると、初期の一つ一つの描写がはっきりしたターナーの絵はとても退屈なものに見えます。
その退屈な絵を見ていて思ったのですが、写真を撮っていて気づくことは、肉眼でどれだけいいと思った風景も、写真に撮ってみると自分が注意を向けていなかった物が入ってきて、とても退屈な写真に見えるということです。
惹かれる被写体に出会ったときは、その被写体にだけ注意を向けているので、それだけで画面を思い描きます。おそらく注意を集中的にある焦点に向けているので、その被写体の特徴だけが頭のイメージで強調されているのです。その強調されたイメージは、撮る者の頭の中で「現実」から離れた理想化された絵です。
しかし写真を撮ると、その強調されたイメージ以外の「現実」も画像に入り込んでいます。その想定外の余分なものが画像に入ることで、撮る者が見たのは、強調された理想的イメージではなく、退屈な現実だったことを思わされます。
ターナーの後期の絵にせよ、印象派の絵にせよ、そのぼやけたイメージは、写真が映すような退屈な現実とは異なる、彼ら自身が見た現実です。
おそらく、印象派のような純化された感覚を描くのではなく、現実を描こうとする芸術家がいるとすれば、それはしかし退屈な現実ではないはずです。
そうではなく、その現実を描こうとする芸術家は、現実によって自分の中で喚起されたイメージを、抽象派のように感覚に頼らずに、輪郭は現実と同じようにハッキリさせながら、しかし焦点は自分の惹かれた被写体にあわせ、その被写体が喚起したもの以外のもの=退屈な現実は画像・キャンバスに入り込まないようにするのではないかと思います。
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