“Plants in the residental area”
中谷彰宏さんがあるところで、「人生の不条理を受け入れると、一段高いところからものを見ることができる。そうすると、今までよりもより大きな、不条理をつつみこむ新しい理を身につけることができる」と言っています。
より大きな理かどうかはわからないけど、自分の心が傷ついたときというのは、自分と同じように傷ついている人を助けることができるということだと思う。
だから、たくさん傷ついている人は、それだけたくさん人を助けることができる。
たぶんこのことは、たくさん傷ついている人が他の人よりエラいということを意味しているんじゃないと思う。
ただ、たくさん傷ついた人には、それだけより多くの人を助けるチャンスを与えられていますよ、ということなのでしょう。
イエスやブッダは、彼らができることをしただけなのかもしれない。だからと言って他の人がイエスやブッダより劣っているわけではないけど、ただ自分に与えられたチャンスを生かしきったという意味で、イエスやブッダという人たちは素晴らしい人だったのだと思います。
傷つくということは、それだけ自分がどういう点で他の人を助けることができるか、はっきりすることかもしれない。
どれだけ傷ついても、自分を傷つけた敵や権威へ復讐することはできないし、できたとしても、それで傷が癒されることはない。
ただ、その敵や権威がどれだけ大きいように思えても、自分と同じように傷つけられている人を助けることは、できるのかもしれない。
権威や“敵”に歯向かっていても、それを追い払うことはできない。でも、同じように傷つけられた人を助けることができるのなら、それは“権威”や“敵”という幻想を剥がし、癒しにつながるように思います。
涼風