考えるための道具箱

Thinking tool box

◎川上未映子です。

2008-01-18 00:14:31 | ◎読
▶間違っても川上美映子なんて人はいなくて、いるのは川上未映子なのです。たとえいくつかある未映子のうちたったひとつが美映子であっても、ブログなんてものはどんどん検索にひっかかってくるわけで、ひっかかってしまったみなさまには、ほんとうに申し訳ないことをしました。だからといってはなんですが、『チチトラン』が掲載されているバックナンバーを取り寄せて読んでご紹介をしなければあかんなあと思っていたところ、なんとちょうど、当該の『文學界12月号』を殊勝にも100円で販売されているお店があったので、ああこれはきっと運命の糸だとあらぬ妄想を拡げながら、ワンコインの恋を買いました。

▶入手したもの
[1]『文學界 07年12月号』\100.-
[2]『文學界 08年01月号』\100.-
[3]『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一/講談社現代新書)\300.-
[4]『アスペクト 08年1月号』\0.-

『乳と卵』は、かなりの要請によりずいぶん丸くなって、まあそのぶん、正しい凄みもでてきているわけだけれど、本来的には『アスペクト』に連載されている『お母さーんと叫ばなならんの、難しい』みたいなほうが、あったかくてうれしい感じはする。この連載は初めて読んだのでこれまでの経緯のようなものはまったくわからないけど、今回は「僕」が主人公ということらしいので、『イン歯ー』などとも違って、これもまたおもしろいトライアルかな、とも思う。

「色々な隙間がうるさいので、とうとうお金がなくなってしまいました。お金はなくなるものだから、仕方がないけれど、この場合お金がなくなるというのは、生活のための基本的な支払いを終えたあと、交通費を引いて、それからそのあまった中から一日の食事にかかる五百円を、生きてる日数だけ掛けて引くと、たとえば新しい靴下を買ってみようとか、まぐろの切れ端を食べてみたいとか、そういったふんわりした気持ちに、体をついてゆかせるだけの根拠というか、エネルギーがね、慢性的になくなってしまってることで、静かなのだね。僕の仕事はよくある登録制のアルバイト。アルバイトって、ドイツ語ではアルバイテンって、言うんだよ。…」

女町田といってしまえば、それまでだけれど、内容なんてまったくなくても、冒頭の、色々な隙間がうるさいから金がなくなる、といった抜けたロジックとか、「生活のための基本的な支払い」といったずれた言葉の感覚こそが、愉しみの泉だと思う。こういった、「痴にもっていける知」を書くノウハウは、卑下による韜晦にあり、ともすれば、嫌味な雰囲気をかもし出すリスクもあるわけだけれど、逆にこれがうまい人はやっぱりいい人なんだなあ、と感じてしまう。

▶読んでいるもの
[01]「倫理」「裏のアパート」「ピクニック」「大学勤め」(リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』/白水社)
[02]『大森荘蔵-哲学の見本』(野矢 茂樹/講談社)
[03]「小銃」(小島信夫『アメリカン・スクール』/新潮文庫)
[04]「小説と評論の環境問題」(新潮2月号
[05]「四方田犬彦の月に吠える」(新潮2月号

▶きっと、勘違いしてますよね。最近のエントリーで、本をたくさん(に見えるように)列挙しているから、ああ結構、読んでいるじゃない、って。とんでもないです。偽装とかジェスチャーとまではいいませんが、読んでる時間は、毎日眠る前のほんの10分~17分ぐらい。今年はたくさんゆっくり水を飲む、なんて約束したもんだから、仕方なく軽量文庫本を携行していて、そこでプラス4分程度を稼いでいるといった体たらくであります。▶L.ディヴィスの小説はほんとうに面白い。前も書いたけれど、荒涼で殺伐とした寂寥感を、怒りや妬みの感情もなく、むしろ喜びのようにたんたんと綴る説話が、心に響く。こんなふうに感じるのは、なにも、クールダウンに入った半スリープ状態に適合するからという理由だけではないだろう。昨日を読んだ話で言うと「裏のアパート」がそれにあたる。表通りに面し裕福な人が住むアパートとその裏にあり満足ゆく暮らしがおくれているとはいえない人々が暮らしを寄せ合うアパート。それぞれの住民の確執とまではいかない牽制の具合を、裏のアパートの住民である主人公の視点で描いている。いくぶんかの非対称関係により感じていた「あちらさんはねえ」くらいのルサンチマンは、それまでは「お互いに知らぬふり」という形で均衡を保てていたのだが、あるひとつの事件をきっかけに破調をこす。2つの関係が崩れる、というより裏のアパートがその中だけで、まさに音や激しい動きもなく自滅するように崩壊していく。表と裏は、もっと疎遠になり、だから羨望関係もなくなり、住人たちは、徐々に自分たちが荒れていっていることを気づかないまま荒れていく。主人公はその呪術にとらわれる寸前に、自分を取り戻し、裏のアパートからのエクソダスの必要性に気づく。といった話が、ある種の諦念のなか綴られる。しかし、それが暗い話なのか、というとそういうわけでもない。いわゆるハードボイルドから憐憫をとりのぞいたような巧みなバランス。訳者の仕業といえるかもしれないが、翻訳でしか実感をつかめない私にとっては、そんなことはどうでもよく、コラボレーションのおおいなる成果として読みたいと思う。もちろん、そんな荒ぶれた話だけではなく、次のわずか2行の作品「ピクニック」なんかにも、その計算にかなり唸らされる。▶あいかわらず『アメリカン・スクール』の短篇も面白い。たぶん「小銃」は、なにかのアンソロジーで読んだはずだが、今回あらためて細部に着目すると、当事者として(気づくことはない)執着と拘泥から生まれる狂いの兆候が、いろいろな形で埋め込まれていてその巧さに驚いてしまう。保坂和志はもういいので、この小島信夫を村上春樹がどう感じていたのか思い出すために、『若い読者のための短篇小説案内』を読み直す必要があるよなあ。