バレーボールのワールドカップが始まっている。ゲーム中継の合間をぬって、へヴィーな練習中の風景が差し込まれる。あいかわらず、過度ともいえるTVプログラムの演出だ。しかし、実際に競技をプレイしていたものとしては、その場面をなんともいえない感慨で眺めることになる。
たとえば、レシーブ練習。コーチから手向けられるのは常軌を逸した速さのスパイクの連打であり、ちょっと努力しただけでは届きそうもない理不尽な場所に落とされるボール。いわゆる「ワンマン」といわれる練習法だ。広いコートに、たったひとりでコーチから繰り出されるすべてのボールを受け、追う、きわめてシンプルなしくみ。競技スポーツとしてのバレーボールを経験してきた人間にとっては、このシンプルな行為の繰り替えしこそが聞くだけで身が少しは引き締まる恐怖すべきトレーニングとなる。いや、これはトレーニングでもなんでもない。3分から10分間、ひどい場合は30分以上。回りの怒号と歓声のなか、立てなくなるまでボールを追い回すことを強要され、立てなくなれば、コートの外にいる人間が腕をつかみ、シャツをひっぱり無理やりコートに対峙させられる。ときには、コーチの「もうやめるか?コートから出るか?」との叱責に、「やります、できます、お願いします」と呼応しなければならない。もはや、ボロボロの体でこんなことを続けても、技術が向上することは一切ありえない。もちろん、こういった練習はほんの一部に過ぎない。徹底的に体と心を痛めつける練習がバリエーションを変えて日夜繰り返されているのだろう。
僕はそういった環境のチームで主将を務めたことがある。高校生のときだ。つまり当事者であり主謀者であったということだ。最初は、というかプレーヤーのとしての現役時代の大半は、伝統的に受け継がれてきた非情のプログラムに盲目的に従い、積極的に自分を含めたすべての選手たちを打ちのめすことに邁進していた。しかし、一方で、練習を繰り返してもいっこうに強くならないチームに業を煮やし、じつは最終的な局面、つまりチームを引退する直前には、そういった練習の理不尽さ、非合理さに気づき始めていた。俺たちには、もっと合理的で、何かの根拠、それは何かはわからないが、何か科学的な発想に基づいた練習法が必要ではないか、と。
だから、大学に入ってからは、あんなバカみたいな環境でバレーボールをするのはやめよう、と体育会ではなく同好会を選んだ。選んだ同好会は、結局は体育会なみにタフなクラブで練習じたいはかなりキツかったわけだが、それでも、技術の向上について合理的な議論がなされていた。この方法には充分納得できた。なにより、それがあることで高校のtきは毎日がいやでしようがなかったバレーボールの練習を心底たのしむことができた。
人生をやり直したいか?という問いがある。ぼくの答えは、まあ「NO」だ。ただし高校のチームのキャプテンを除いては。あの3年間だけは、もう一度、組み立てなおしてみたい、とずっと考え続けている。フィジカルにキツいのはかまわない。それこそ、あの頃以上の負荷をかけることに一切の異存はない。しかし、もっと「考える」べきだったのだ。それこそ、授業なんて出ないくらいの勢いでもっともっと技術向上のための合理的で連動性・関連性のある練習方法を考え尽くすべきだったし、ときには監督やOBのコーチに掛け合い、無茶な練習は受け入れるが、一方で個人個人の技術をていねいに修正していくような指導もしてほしい、と直談判すべきだったのではないか。その方法については、もうやり直すことなんて絶対にできないとわかっていながらも、この歳になるまで、ほんとうに何十回、いや何百回と夢想しシミュレーションしてきた。
しかし、この話の結論は、まったく逆の方向に落ちる。たしかに、「ワンマン」のような練習はまったく合理的ではないと思うし、そんな無慈悲で浅慮な行為が行われる場をリードしていた過去をやり直したいと悔いてはいる。悔いてはいるのだが、現実的にTVで放送されている、あの頃のコートと寸分違わない映像をみると、競技スポーツには、肉体と精神の限界まで降りていく経験は必ず必要であり、その限界を体と心でしっかり把握し、把握したうえでそれでもそこからもう一歩踏み出せる自分自身の可能性を知っておく必要がある、という思いに抗うことはできない。ぼく自身に、焼き付けられた烙印が、数年を経て疼いているということなのだろうか。仕事やふだんの暮らし、思考において、いちどは底が抜けるまで降りてみるべきだ、ということを指摘する根底には、この精神があるのかもしれない。もはや、スポーツだけとは限らない。襤褸きれのようになりながらも底というものを間近でみて、届くか届かないかのギリギリのところにある、光を放つ、しかしながら泥でできた可能性の高い縄に手を伸ばし、なんとかつかんでみる。そして、なんの担保もない泥縄を握り締めて、声を振り絞って再び立ち上がることができたなら、そのとき見えるものはそれまでと大きく違っているはずだ。この経験は何ものにも変えがたい、というのは一理あると思うのだが。
たとえば、レシーブ練習。コーチから手向けられるのは常軌を逸した速さのスパイクの連打であり、ちょっと努力しただけでは届きそうもない理不尽な場所に落とされるボール。いわゆる「ワンマン」といわれる練習法だ。広いコートに、たったひとりでコーチから繰り出されるすべてのボールを受け、追う、きわめてシンプルなしくみ。競技スポーツとしてのバレーボールを経験してきた人間にとっては、このシンプルな行為の繰り替えしこそが聞くだけで身が少しは引き締まる恐怖すべきトレーニングとなる。いや、これはトレーニングでもなんでもない。3分から10分間、ひどい場合は30分以上。回りの怒号と歓声のなか、立てなくなるまでボールを追い回すことを強要され、立てなくなれば、コートの外にいる人間が腕をつかみ、シャツをひっぱり無理やりコートに対峙させられる。ときには、コーチの「もうやめるか?コートから出るか?」との叱責に、「やります、できます、お願いします」と呼応しなければならない。もはや、ボロボロの体でこんなことを続けても、技術が向上することは一切ありえない。もちろん、こういった練習はほんの一部に過ぎない。徹底的に体と心を痛めつける練習がバリエーションを変えて日夜繰り返されているのだろう。
僕はそういった環境のチームで主将を務めたことがある。高校生のときだ。つまり当事者であり主謀者であったということだ。最初は、というかプレーヤーのとしての現役時代の大半は、伝統的に受け継がれてきた非情のプログラムに盲目的に従い、積極的に自分を含めたすべての選手たちを打ちのめすことに邁進していた。しかし、一方で、練習を繰り返してもいっこうに強くならないチームに業を煮やし、じつは最終的な局面、つまりチームを引退する直前には、そういった練習の理不尽さ、非合理さに気づき始めていた。俺たちには、もっと合理的で、何かの根拠、それは何かはわからないが、何か科学的な発想に基づいた練習法が必要ではないか、と。
だから、大学に入ってからは、あんなバカみたいな環境でバレーボールをするのはやめよう、と体育会ではなく同好会を選んだ。選んだ同好会は、結局は体育会なみにタフなクラブで練習じたいはかなりキツかったわけだが、それでも、技術の向上について合理的な議論がなされていた。この方法には充分納得できた。なにより、それがあることで高校のtきは毎日がいやでしようがなかったバレーボールの練習を心底たのしむことができた。
人生をやり直したいか?という問いがある。ぼくの答えは、まあ「NO」だ。ただし高校のチームのキャプテンを除いては。あの3年間だけは、もう一度、組み立てなおしてみたい、とずっと考え続けている。フィジカルにキツいのはかまわない。それこそ、あの頃以上の負荷をかけることに一切の異存はない。しかし、もっと「考える」べきだったのだ。それこそ、授業なんて出ないくらいの勢いでもっともっと技術向上のための合理的で連動性・関連性のある練習方法を考え尽くすべきだったし、ときには監督やOBのコーチに掛け合い、無茶な練習は受け入れるが、一方で個人個人の技術をていねいに修正していくような指導もしてほしい、と直談判すべきだったのではないか。その方法については、もうやり直すことなんて絶対にできないとわかっていながらも、この歳になるまで、ほんとうに何十回、いや何百回と夢想しシミュレーションしてきた。
しかし、この話の結論は、まったく逆の方向に落ちる。たしかに、「ワンマン」のような練習はまったく合理的ではないと思うし、そんな無慈悲で浅慮な行為が行われる場をリードしていた過去をやり直したいと悔いてはいる。悔いてはいるのだが、現実的にTVで放送されている、あの頃のコートと寸分違わない映像をみると、競技スポーツには、肉体と精神の限界まで降りていく経験は必ず必要であり、その限界を体と心でしっかり把握し、把握したうえでそれでもそこからもう一歩踏み出せる自分自身の可能性を知っておく必要がある、という思いに抗うことはできない。ぼく自身に、焼き付けられた烙印が、数年を経て疼いているということなのだろうか。仕事やふだんの暮らし、思考において、いちどは底が抜けるまで降りてみるべきだ、ということを指摘する根底には、この精神があるのかもしれない。もはや、スポーツだけとは限らない。襤褸きれのようになりながらも底というものを間近でみて、届くか届かないかのギリギリのところにある、光を放つ、しかしながら泥でできた可能性の高い縄に手を伸ばし、なんとかつかんでみる。そして、なんの担保もない泥縄を握り締めて、声を振り絞って再び立ち上がることができたなら、そのとき見えるものはそれまでと大きく違っているはずだ。この経験は何ものにも変えがたい、というのは一理あると思うのだが。