支援の大枠も決まり、その方法が正しいかどうかは別として(というかこの後に続く話からもわかるようにまったく正しくない)、三菱自動車工業の再生のレールはみえつつある。
しかし、最近の三菱自動車の広告を軸とした顧客コミュニケーションを見ている限りでは、あいかわらず官僚的な呪縛からは逃れることができず、彼らを支配し続けている勘違いは、完全に解体しない限りは潰えることはないのだろう、と思わせてしまう。
NIKKEI DESIGN誌2005年2月号(※)は、『「安全」を「安心」に変える伝え方』という特集のなかで「ありがとうから始める信頼回復」として三菱自動車工業の1月から始まった広告キャンペーンをとりあげている。話題の中心は、例のプチ感動新聞広告である。
「まず同社は2005年1月6日、全国紙などに新聞広告を掲出した。江戸川の土手、鎌倉の踏み切り、横浜の住宅街でそれぞれ撮影したという、国内のどこにでもありそうな風景の中に同社の自動車を溶け込むように置いた。日本人ならだれもが身近に感じる情景を強調し「マイナス状況の中でも乗ってくれている人に向けたメッセージ」(三菱自動車工業の関雅文・広報・IR部シニアエキスパート・企業広告担当)とした。
少し淡い色を感じさせる写真は、誠実に話をしなければならないという姿勢を表したものだ。小津安二郎の映画をイメージした表現という。
「いまも乗ってくれている人がいる」という一文から始まる広告中のコピーは、既存のユーザーと、今後乗ってくれるかもしれないユーザーに対してのお礼を伝える内容となっている。コピーの最後にある「いまも乗ってくれているあなたのために」と「いつか乗ってくださるあなたのために」との敬語の使い分けによって、前者には既存のユーザーに対する親しみを込めることで安心感を強調し、後者に対してはへり下って誠実さを一層強調するよう配慮している」(NIKKEI DESIGN 2005/2 P72-74)
この企業広告は、見方によってはある種の感動を呼ぶ「格好いい」広告ではある。しかし、少し考えてみればわかるのだが、三菱自動車は、まだこんなふうに格好をつけている場合ではないはずだ。
顧客(現ユーザー)を「親しみを込めて」とひとくくりにしてしまっているが、その「いまも乗ってくれている」人のさまざま気持ちを慮れば、こんなふうに簡単に演出材料として現ユーザーを引き合いにだしていいわけはない。とうぜん必ずしも親しくしてほしくないと考えている人も数多くいるだろう。親しみを受けいれている人も、それはけっして三菱の車の親しみを受け入れているわけではなく、たいへんな状況でへとへとになっている、いち個人としての営業マンへの親しみであることも多いのではないだろうか。
そして、そんななかでも場合によっては我慢しながら乗ってくれている人にはへりくだらず、これからのユーザーへの対応をより大切にするという発想は、たとえなんらかの調査に基づく結果だったとしても、どこか間違ってはいないか。
また、実際に販売と修理の現場の社員は、大きな不安を抱えながらも、不眠不休でそれこそボロ雑巾のようになりながら企業活動しているに違いない。それを、あのような安っぽい流行りの感動物語で美しくまとめてしまってよいものだろうか。小津の世界を目指してつくるこの「嘘」はたいへん罪深い。
思えば、彼らの広告・CFによるユーザーコミュニケーションは、品質問題が露呈する以前からひどかった。たとえば、クラプトンをBGMに「あなたの人生の重要な場面には、必ず自動車がありましたよね」といったようなこと訴求するCF。これも人によっては感動を呼ぶ演出といえるが、自動車会社が人の人生を語るなんておこがましくはないか。もちろんクルマは場合によっては人生を豊かにすることもあるだろうが、豊かになったかどうかを感じるのはユーザーであり、メーカーが押し売りするものではない。
もっと遡れば、気色の悪いエリマキトカゲを引っ張り出してきたCFだって根は同じだ。商品情報を伝えることをネグって、作り上げられたイメージだけを伝えるという姿勢は基本的に変わっていない。
NIKKEI DESIGN の記事は続く。
「現在はテレビCMにおいてもエンターテイメント性を一切持ち込まない。2004年10月に発売したコルトプラスの新CMにしても『有名人やタレントに商品の世界観を代弁してもらう段階にはない。今の三菱自動車工業には、自分たちの気持ちや商品を出しているという事実を素直に伝えるほかに伝達手段がない』(関シニアエキスパート)」(NIKKEI DESIGN 2005/2 P74)
「…今後は消費者の意識がどう変わったか調査を続けながら、少しずつユーモアのある方向に戻していこうと考えていると言う。」(NIKKEI DESIGN 2005/2 P74)
すでに充分に安っぽいエンターテイメント性が持ち込まれていることになぜ気づかないのだろうか。少なくとも、いまはまだ「イメージ広告」も出稿すべきときではない、と思うのだがどうだろう。そんな広告表現ロードマップを描いている場合ではない、と思うのだがどうだろう。
いったい三菱自動車にとって消費者とはなんなのか?顧客とはなんなのか?もっといえばクルマとはなんなのか?エンドユーザー、もしくはものづくりを知らない支援先にこのことが解読できるのだろうか。
●
う~ん。けっこう辛口ですね。でもまあ社会的企業だということで、批判の矢面にたってくださいな。営業の現場、メンテナンスの現場、開発の現場でタフな毎日を送られている員の人たちにはほんとうに申しわけないですが。いかれたへそ曲がりの戯言と流してください。ただ、わたしが言いたいのは、きわめて単純なことで「もっと商品のことを伝えてくださいよ」ということにつきます。このあたりは難しいけれど、わかってもらえるのではないか、と。
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(※)これ以外のNIKKEI DESIGNの記事は、初田製作所(ハッタ)の簡易消火具「CASSO」のデザイン、コクヨの「地震対策生徒用デスク」、ヤマタニの震災対応ラジオ付き懐中電灯「マルチパワーステーション」、シャープの石油ファンヒーターのデザイン、日産自動車の「ラフェスタ」、コンビの子守帯「ニンナナンナ」、タカタのチャイルドシート「takata04-neo」、「ツーカーS」(説明書がいらないくらいの携帯)のデザイン、トステムの防犯サッシ「デュオPG」、松下電産のホームネットワークカメラ「BL-C10」、テムザック三洋の監視ロボット「ロボリア」といった製品、さらには卵メーカー・イセ食品の広告表現、カゴメの「野菜一日これ一本」のネーミング、やきそばUFOほかのパッケージなど、安心・安全のコミュニケーション・表現技法と盛りだくさんの特集。わたしは、創刊当時購読していたんだけど、しばらく気に留めない間に、昨年初頭くらいからですかね、ずいぶんよくなりましたよ、この雑誌。
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↑威張ってムカつく駄文のお口直しは、
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しかし、最近の三菱自動車の広告を軸とした顧客コミュニケーションを見ている限りでは、あいかわらず官僚的な呪縛からは逃れることができず、彼らを支配し続けている勘違いは、完全に解体しない限りは潰えることはないのだろう、と思わせてしまう。
NIKKEI DESIGN誌2005年2月号(※)は、『「安全」を「安心」に変える伝え方』という特集のなかで「ありがとうから始める信頼回復」として三菱自動車工業の1月から始まった広告キャンペーンをとりあげている。話題の中心は、例のプチ感動新聞広告である。
「まず同社は2005年1月6日、全国紙などに新聞広告を掲出した。江戸川の土手、鎌倉の踏み切り、横浜の住宅街でそれぞれ撮影したという、国内のどこにでもありそうな風景の中に同社の自動車を溶け込むように置いた。日本人ならだれもが身近に感じる情景を強調し「マイナス状況の中でも乗ってくれている人に向けたメッセージ」(三菱自動車工業の関雅文・広報・IR部シニアエキスパート・企業広告担当)とした。
少し淡い色を感じさせる写真は、誠実に話をしなければならないという姿勢を表したものだ。小津安二郎の映画をイメージした表現という。
「いまも乗ってくれている人がいる」という一文から始まる広告中のコピーは、既存のユーザーと、今後乗ってくれるかもしれないユーザーに対してのお礼を伝える内容となっている。コピーの最後にある「いまも乗ってくれているあなたのために」と「いつか乗ってくださるあなたのために」との敬語の使い分けによって、前者には既存のユーザーに対する親しみを込めることで安心感を強調し、後者に対してはへり下って誠実さを一層強調するよう配慮している」(NIKKEI DESIGN 2005/2 P72-74)
この企業広告は、見方によってはある種の感動を呼ぶ「格好いい」広告ではある。しかし、少し考えてみればわかるのだが、三菱自動車は、まだこんなふうに格好をつけている場合ではないはずだ。
顧客(現ユーザー)を「親しみを込めて」とひとくくりにしてしまっているが、その「いまも乗ってくれている」人のさまざま気持ちを慮れば、こんなふうに簡単に演出材料として現ユーザーを引き合いにだしていいわけはない。とうぜん必ずしも親しくしてほしくないと考えている人も数多くいるだろう。親しみを受けいれている人も、それはけっして三菱の車の親しみを受け入れているわけではなく、たいへんな状況でへとへとになっている、いち個人としての営業マンへの親しみであることも多いのではないだろうか。
そして、そんななかでも場合によっては我慢しながら乗ってくれている人にはへりくだらず、これからのユーザーへの対応をより大切にするという発想は、たとえなんらかの調査に基づく結果だったとしても、どこか間違ってはいないか。
また、実際に販売と修理の現場の社員は、大きな不安を抱えながらも、不眠不休でそれこそボロ雑巾のようになりながら企業活動しているに違いない。それを、あのような安っぽい流行りの感動物語で美しくまとめてしまってよいものだろうか。小津の世界を目指してつくるこの「嘘」はたいへん罪深い。
思えば、彼らの広告・CFによるユーザーコミュニケーションは、品質問題が露呈する以前からひどかった。たとえば、クラプトンをBGMに「あなたの人生の重要な場面には、必ず自動車がありましたよね」といったようなこと訴求するCF。これも人によっては感動を呼ぶ演出といえるが、自動車会社が人の人生を語るなんておこがましくはないか。もちろんクルマは場合によっては人生を豊かにすることもあるだろうが、豊かになったかどうかを感じるのはユーザーであり、メーカーが押し売りするものではない。
もっと遡れば、気色の悪いエリマキトカゲを引っ張り出してきたCFだって根は同じだ。商品情報を伝えることをネグって、作り上げられたイメージだけを伝えるという姿勢は基本的に変わっていない。
NIKKEI DESIGN の記事は続く。
「現在はテレビCMにおいてもエンターテイメント性を一切持ち込まない。2004年10月に発売したコルトプラスの新CMにしても『有名人やタレントに商品の世界観を代弁してもらう段階にはない。今の三菱自動車工業には、自分たちの気持ちや商品を出しているという事実を素直に伝えるほかに伝達手段がない』(関シニアエキスパート)」(NIKKEI DESIGN 2005/2 P74)
「…今後は消費者の意識がどう変わったか調査を続けながら、少しずつユーモアのある方向に戻していこうと考えていると言う。」(NIKKEI DESIGN 2005/2 P74)
すでに充分に安っぽいエンターテイメント性が持ち込まれていることになぜ気づかないのだろうか。少なくとも、いまはまだ「イメージ広告」も出稿すべきときではない、と思うのだがどうだろう。そんな広告表現ロードマップを描いている場合ではない、と思うのだがどうだろう。
いったい三菱自動車にとって消費者とはなんなのか?顧客とはなんなのか?もっといえばクルマとはなんなのか?エンドユーザー、もしくはものづくりを知らない支援先にこのことが解読できるのだろうか。
●
う~ん。けっこう辛口ですね。でもまあ社会的企業だということで、批判の矢面にたってくださいな。営業の現場、メンテナンスの現場、開発の現場でタフな毎日を送られている員の人たちにはほんとうに申しわけないですが。いかれたへそ曲がりの戯言と流してください。ただ、わたしが言いたいのは、きわめて単純なことで「もっと商品のことを伝えてくださいよ」ということにつきます。このあたりは難しいけれど、わかってもらえるのではないか、と。
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(※)これ以外のNIKKEI DESIGNの記事は、初田製作所(ハッタ)の簡易消火具「CASSO」のデザイン、コクヨの「地震対策生徒用デスク」、ヤマタニの震災対応ラジオ付き懐中電灯「マルチパワーステーション」、シャープの石油ファンヒーターのデザイン、日産自動車の「ラフェスタ」、コンビの子守帯「ニンナナンナ」、タカタのチャイルドシート「takata04-neo」、「ツーカーS」(説明書がいらないくらいの携帯)のデザイン、トステムの防犯サッシ「デュオPG」、松下電産のホームネットワークカメラ「BL-C10」、テムザック三洋の監視ロボット「ロボリア」といった製品、さらには卵メーカー・イセ食品の広告表現、カゴメの「野菜一日これ一本」のネーミング、やきそばUFOほかのパッケージなど、安心・安全のコミュニケーション・表現技法と盛りだくさんの特集。わたしは、創刊当時購読していたんだけど、しばらく気に留めない間に、昨年初頭くらいからですかね、ずいぶんよくなりましたよ、この雑誌。
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