考えるための道具箱

Thinking tool box

町田康のスパークするバカ言語。

2005-01-04 15:02:16 | ◎読
『アフターダーク』は、がんばれば書けるかもしれないが、どうあがいても、何年かかっても書くことはできないだろうと思わせるのが町田康の『パンク侍、斬られて候』(マガジンハウス)である。
すでにさまざまなかたちで高い評価を得ている小説だが、もっとも端的なのは朝日新聞書評の中条省平の短文だろう。

「(パンク侍…)は、著者初の長編で時代小説。腹ふり党の反乱に立ちむかうパンク剣士のゲリラ戦というふざけた題材で、全編ホラとむだ話の連続から、世界の破滅と救済という巨大なテーマを浮き彫りにする鮮やかな手際は天才というほかはない」(朝日新聞2005.12.26)

この短い文章を読む限りでは、中条は物語の構成力とストーリーテリングに天才という称号を与えているように見えるが、彼とて、そこだけに着目しているわけではないだろう。

たしかにこの小説の全編各所に埋め込まれた寓意は洗練されており、それが町田に真意に基づくものかどうかは別として、現在の日本と世界のていたらくに対し、衝撃的なバツの悪さを与えている。

城中での無用な権力闘争とそこから派生するリストラクチュアリングに右往左往するサラリーマン武士の言動は現代においてありがちな組織構造の機能不全を端的に言い表しているし、若輩のきわみパンク侍・掛十之進が老獪のきわみ重臣・内藤帯刀に懐柔されてしまうくだりは、よく見かける若造の客気といやな権力の、勘弁願いたい交渉事だ。
謀により失脚し最果てに飛ばされた同じく重臣の大浦が、結局はあてがわれた猿まわしの任務に新しい生きがいを感じていくライフスタイル、自分が理解できない事変の発生において小賢しい対処療法は繰り出すものの、根本問題の解決をどんどん先送りにしてしまうビヘイビアなど、なんで小説家がここまで知ってんの?と思わせるほど見事にビジネスの世界の膿とくだらなさを照射している。おまいらが勝ち組とか負け組とかいって、さもそのことが人間にとって大切な評価基準であるかのように喧伝している世界は、こんなにもしょーもない、虚無的で嘘臭いむだ話を日夜繰り返しとるわけや、と。

物語はこういった矮小な世界を断罪するだけではない。世界を条虫(=真田虫)の腹の中にたたえる宗教団体「腹ふり党」のあほらしい教義や腹ふりダンスは、どこかの新興宗教に対し、立ち直れないほどの一閃をくらわしているし、莫迦と猿の最終決戦は、人の争いというものは、それが飲み屋での諍いであれ、もっと大掛かりな国の喧嘩であれ、結局は「莫迦と猿の闘い」以外のなにものでもないことを言い切った。

もちろん、含意はこれほど明示的なものだけではない。たとえば、人智と言葉を解する猿の大将・大臼の「なるほど。本当に人間と猿を混ぜ合わすのか。俺は俺が猿として支配層に入ることによって現実を破壊しつつ、最終的にはより低次のところで現実の一角をしめ、そのことによってこの世界を存続させようと考えていたのだが。しかしまあそんなものは大抵の革命政権がそうなわけで別に目新しいことではなかった。つまり俺は敗北した。我が事敗れたり」といった台詞が、さらりと脱構築という発想の抽象性ゆえの弱みを一蹴しているかのようにも読み取れる。

全編を通じて、トリックスターが、裸の王様をつまびらかにしているわけだが、じつは、ごく普通の人間的身体感覚にもとづき、いいことはいい、悪いことは悪いというシンプルな判断基準を提起しているに過ぎず、このことが、最終ページのすばらしい会心の一撃に集約されている。そしてこのストーリーラインは、たしかに凡百の小説家のスキルでは構成できないだろう、と思わせる。

しかし、この小説の抱腹絶倒を支えているのは、物語の構成力だけではない。いや構成力ではないというべきかもしれない。それは、町田康のほとばしる言語感覚であり、スパークするバカ言語であり、ここにこそ天才的という称号を与えてしかるべきである。
時代劇の日本語と現代の日本語をボーダレスに縦横無尽にまさに使い尽くす手法、この無境界性ゆえに許される、へんな言葉・読めない言葉・辞書にものっていないような言葉・死語・紋きり型の言い回しの多用により生まれる違和感と妥協のないギャップが、読むわたしたちを爆笑と失笑の渦に巻き込む。

これはまさに中学生のときにに初めて筒井康隆に接し、『関節話法』(※1)で腹が千切れそうになったとき以来の爆笑感覚であり、サザンの年越しコンサート「暮れのサナカ」における『マンピーのGスポット』や『愛と欲望の日々』のバックダンサーへの演出の(もしくは同曲のPV。とりわけ♂♀のマーク)、「バカやなあ」という失笑感覚である。さまぁ~ずのマイナスターズ(※2)の楽曲のはちゃめちゃな詞づくりといったほうがわかりやすいかもしれない。ここまで、マジになって書評してきたが、そんなことがまったくバカバカしくなってくるような言葉と状況の混乱が全編を通して描かれているのだ。

そして、こういった饒舌で膨大な珍妙な言語を駆使しながら小さな物語で大きな物語を描いていく技術は、少なくともすでにあの頃の筒井康隆を超越し、もはやガルシア=マルケスの近くに位置するといえるかもしれない。彼のこれまでの詩作や『くっすん大黒』などでの、へんな、しかし真に正しい言語感覚によるもの語りが、この一作に集結した。

文学は漫画を超えられるのか?という議論は、おおむね「文学を超える漫画が登場してきた」つまり「漫画が文学を超えた」という文脈のなかで、「では、逆に文学はどうなのか?」と語られる話ではある。2項対立する表現手法のうち、これまで文学というジャンルは、いささか分が悪かった。ストーリー漫画はもとより秀逸のギャグ漫画は文学に比して圧倒的に力があるという意見もあるかもしれない。
しかし、ここにある『パンク侍。斬られて候』は、文学を軽く超えてしまった文学による漫画である。「なにをしてもいい」という文学の制約を枠ぎりぎりまで使えばここまでできるんだ、ということをあらわした最高の一作に違いない。ちょっと褒めすぎっすかね?


---------------------------------------------
(※1)『宇宙衞生博覽會』(新潮文庫)所収。
(※2)さまぁ~ずの大竹扮する「ヘローことへロ岡瞬」率いる6人のバンド。彼らのライブではおなじみで、ここでの演奏を中心とした楽曲がCDにまとめられている、とまじめに紹介するような代物ではなく、ただ呆けてなにもかもを忘れて爆笑したいときにみる/聴くもの。かなり面白い。



------------------------
↓今年もまじめに書きますので
↓よろしくお願いします。
↓本と読書のblogランキングサイトへ。