昨日、結論はでませんでした。『20世紀少年』の21巻がでちゃったので、『サッド・ヴァケイション』は先送り。
じつは、このblogは日によっては(※)『20世紀少年』での検索ヒット率が高く、せっかくアクセスいただいた方のために、ちっとはまじめに感想を書いたりしなくては、と思って昂ぶっていた時期もあったんだけれど、気持ちの盛り上がりも沈静化してきたのでほっぽらかしておいたら、どうやらストーリーのピークも過ぎてしまったようだ。
数ある進行形のマンガのなかでは際立ったた面白さを発揮していることは現在でも揺るぎはないし、マンガ本来の面白さをもっともシンプルでストレートに表現しているという点においてはケチのつけようはない。しかしながら、昨日の夜中に読んでいて、ふと覚醒してしまった。
亀がアキレスを追い抜いてしまった、と。
またわかりにくい物言いしやがって、とのそしりは免れないけれど、ちょっとうまい言い回しが見つからないので、措定してみた。ただし、終結がほぼ完全に見えるいま、読み手のペースが加速度的に進んだ結果、それぞれのエピソードが渋滞を発生させている、という感覚はわかってもらえるかもしれない。けっして過去にあった逸話ではないのに、ずっと同じような隘路を倦んでいるのではないかという錯覚にとらわれてしまうほど遅い。もちろん小説と同じくストーリーだけでなく描写が大切なものである以上、そのことが『20世紀少年』という表現をつまらなくしているわけではないのだけれど、18巻あたりまで続いてきた期待速度を完全に下回っているのは事実ではある。
「いつまでも終わってほしくない物語」というのはよくあるが、『20世紀少年』は、「早く終わってほしい物語」になってしまった、という考え方のほうがわかりやすいかもしれない。前者は、逆説的ではあるが往々にして「終わりがなくても終われる物語」の場合が多いが、後者はそんなわけにはいかず、「終わりがなければ終わることはできない」ことを宿命づけられているわけで、読み手の期待速度と書き手の物語速度が逆転した瞬間に、関心はすみやかに「終わり」の期待に移ってしまう。
もちろん、人気連載である以上、その表現形態や外野のさまざまな恣意・思惑により商業的には避けられない問題であると思うが、この連載期間の長さというのは、ストーリー漫画としては異様だし限界かもしれない。前世紀から続いているということを考えれば、かれこれ6年?最近では休載も多いようだし、物理的にも失速しているのはあきらかだ。そして、このことによって論点は微妙にずれてきていて、これはぼくだけの問題かもしれないけれど、「ともだち」の正体より、ケンヂと旧友の出会い方のほうに関心がシフトしていっている。そして、むしろ、その瞬間を巧みに描くことこそが大団円であり、そこで浦沢直樹の力量が発揮されるのではないか、と期待もしている。
いずれにしても、もはやできるだけ速やかに終わらなければならないことは間違いないのだが、しかしそのことは、この物語を損ねることにはいっさいならない。たとえストーリーを引っこ抜いたとしても、そのディールは十分に愉しめるし、枝葉を膨らませれば、浦沢が考える以外のエンディングをあれこれ夢想することもできる。そしてなにより重要なのは、『20世紀少年』は、おそらくマンガ以外のどの表現形態をとることもできないということであり、そういう意味では、マンガのひとつの到達点といっても、言いすぎではないだろう。
さて、連載のほうは次週の再開にて、どうやら正真正銘のクライマックスを迎えていくようなので、ちょいとばかし、復習しておこう。
◎前にも書いたけど、ウッドストックによる決壊。
◎好きだからいじめる幼い恋心。
◎死んだなんてのは「思い込み」で、引っ越していっただけってのはよくある話。
◎引っ越したなんてのも「思い込み」で、引っ越していなかったってのもよくある話。
◎彼らをずっと見つめ続けてきたフレームの外の人がキーマンだった、なんていう筒井康隆のようなことは勘弁ねがいたい。まあ、別にいいか。
てなことで。
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(※)よくわかんないですが、google danceとかEverfluxとか、そんなやつのご機嫌ですね。ほんとによくわかんないんですけれど。
じつは、このblogは日によっては(※)『20世紀少年』での検索ヒット率が高く、せっかくアクセスいただいた方のために、ちっとはまじめに感想を書いたりしなくては、と思って昂ぶっていた時期もあったんだけれど、気持ちの盛り上がりも沈静化してきたのでほっぽらかしておいたら、どうやらストーリーのピークも過ぎてしまったようだ。
数ある進行形のマンガのなかでは際立ったた面白さを発揮していることは現在でも揺るぎはないし、マンガ本来の面白さをもっともシンプルでストレートに表現しているという点においてはケチのつけようはない。しかしながら、昨日の夜中に読んでいて、ふと覚醒してしまった。
亀がアキレスを追い抜いてしまった、と。
またわかりにくい物言いしやがって、とのそしりは免れないけれど、ちょっとうまい言い回しが見つからないので、措定してみた。ただし、終結がほぼ完全に見えるいま、読み手のペースが加速度的に進んだ結果、それぞれのエピソードが渋滞を発生させている、という感覚はわかってもらえるかもしれない。けっして過去にあった逸話ではないのに、ずっと同じような隘路を倦んでいるのではないかという錯覚にとらわれてしまうほど遅い。もちろん小説と同じくストーリーだけでなく描写が大切なものである以上、そのことが『20世紀少年』という表現をつまらなくしているわけではないのだけれど、18巻あたりまで続いてきた期待速度を完全に下回っているのは事実ではある。
「いつまでも終わってほしくない物語」というのはよくあるが、『20世紀少年』は、「早く終わってほしい物語」になってしまった、という考え方のほうがわかりやすいかもしれない。前者は、逆説的ではあるが往々にして「終わりがなくても終われる物語」の場合が多いが、後者はそんなわけにはいかず、「終わりがなければ終わることはできない」ことを宿命づけられているわけで、読み手の期待速度と書き手の物語速度が逆転した瞬間に、関心はすみやかに「終わり」の期待に移ってしまう。
もちろん、人気連載である以上、その表現形態や外野のさまざまな恣意・思惑により商業的には避けられない問題であると思うが、この連載期間の長さというのは、ストーリー漫画としては異様だし限界かもしれない。前世紀から続いているということを考えれば、かれこれ6年?最近では休載も多いようだし、物理的にも失速しているのはあきらかだ。そして、このことによって論点は微妙にずれてきていて、これはぼくだけの問題かもしれないけれど、「ともだち」の正体より、ケンヂと旧友の出会い方のほうに関心がシフトしていっている。そして、むしろ、その瞬間を巧みに描くことこそが大団円であり、そこで浦沢直樹の力量が発揮されるのではないか、と期待もしている。
いずれにしても、もはやできるだけ速やかに終わらなければならないことは間違いないのだが、しかしそのことは、この物語を損ねることにはいっさいならない。たとえストーリーを引っこ抜いたとしても、そのディールは十分に愉しめるし、枝葉を膨らませれば、浦沢が考える以外のエンディングをあれこれ夢想することもできる。そしてなにより重要なのは、『20世紀少年』は、おそらくマンガ以外のどの表現形態をとることもできないということであり、そういう意味では、マンガのひとつの到達点といっても、言いすぎではないだろう。
さて、連載のほうは次週の再開にて、どうやら正真正銘のクライマックスを迎えていくようなので、ちょいとばかし、復習しておこう。
◎前にも書いたけど、ウッドストックによる決壊。
◎好きだからいじめる幼い恋心。
◎死んだなんてのは「思い込み」で、引っ越していっただけってのはよくある話。
◎引っ越したなんてのも「思い込み」で、引っ越していなかったってのもよくある話。
◎彼らをずっと見つめ続けてきたフレームの外の人がキーマンだった、なんていう筒井康隆のようなことは勘弁ねがいたい。まあ、別にいいか。
てなことで。
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(※)よくわかんないですが、google danceとかEverfluxとか、そんなやつのご機嫌ですね。ほんとによくわかんないんですけれど。
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