考えるための道具箱

Thinking tool box

◎高橋弘希、『短冊流し』その他の小説についての仮説。

2016-07-18 17:20:30 | ◎読
どのような絶望的な状況におちいってもデッドエンドでない限り、ブラックアウトのあと、ほどなくLIFE(生活/生・命)は回復してくる。というか、そんなことしている場合ではないとあいまいな不安を感じながらも、人はLIFEをこなしていかねばならない。家に帰らなければならないし、飯のこともいちおう気になるし、しかし作るって感じじゃないから買って帰るかとか考えながら、なんとなく煙草を手にしている。ま、明日の会社の仕事はなんとかなるか、そろそろ寝たほうがいいな、明日のことはとりあえず朝起きてから考えればいいかとか考えながら、寝てる場合ではないのに寝てしまう、そしてなんかしらんけどまた今日が始まる……。

そのLIFEを記録すれば、行動も思考も詳細である。絶望と不安と、それを稀薄していく詳細なLIFE。言ってしまえばこの繰り返しこそが、毎日の真実だ。高橋弘希の小説は、この「絶望と不安と、それを稀薄していく詳細なLIFE」を、経験ではなく想像力だけで埋めていく。

いちばん新しい『スイミングスクール』(新潮8月号)でも、主人公と母、主人公と娘との関係のなかで反復(そして差異化)されるかのような、暴力と死のあいまいな不安が「想像上でリアルに」描かれ、ふだんの「想像上のリアルな」暮らしのなかにあいまいなまま埋め込まれていく。

デビュー作である『指の骨』は、「戦争を知らない世代でも『戦争』を書ける。」という評価を受ける一方で、「戦争」という特異な状況を描いたがために、「戦争の本質が描けているか/描けていないか」という議論に着地してしまったが、じつは普段どおりにそこにあるはずのLIFE(生活/生・命)を描く試みだったのかもしれない。 本来的な企図が迷彩に溶け込んでしまったのだろう。

そして、再び芥川賞候補となった『短冊流し』だ。幼い娘の熱性痙攣が端緒となる父親のLIFEは、じつは、彼同様に娘が小さい頃に熱性痙攣で繰り返し救急車に搬送されていた私にとって切実なリアルだ(娘は重篤なインフルエンザではなかったし、都度すぐに意識は回復していたが)。こんな思い出しくもないタフな経験と不安を、なぜ(おそらく)経験したこともないあなたが具体的に精緻に正しく書けてしまうのか。それが、取材に基いていたとしても、たんなるサンプリングであったとしても、このアウトプットの効率と効果には驚かざるをえない。

では、普通の人が普段の暮らしで普通に経験している、絶望と不安が稀薄された生活/生・命を、想像で書くことの意味はあるのだろうか。わざわざ試行された想像のクリアなディテールは、現実を超えることができるのだろうか?(『短冊流し』は、私の実体験に照らせば超えてしまっているが)

これは、写実の絵画は意味があるのか?写真を超えることができるのか?というQに近い。近代文学で問われた問題のひとつでもある。その点では「物事の本質を見るために」「対象の奥を発見するために」といった答も一つの正解だろう。しかし、2016年の現代に現れたこの書き手の意識/無意識の野望は、そういった教科書的な答えを目指していないような気がする。

たとえば、こんな野望を見つけることはできないだろうか?
描けるものは、よりよく描き変えることができる。創れるものは、よりよく創り変えることができる。描ければ、創ることができれば、対処できるし改良できる。そのために、まずできる限り詳細に精緻に描いてみる、創ってみることが必要だ……。

この全能感を傲慢と見るか。それとも、想像できる種である人間の希望とみるか。いえいえたんなるシミュレーションですよ、って?ま、それでもいいか。それでもたいしたものですよ。

※ずっと影を落とし続ける重大な不安と諦念の中でも、人は淡々と日々の暮らしをこなし続ける、という点では、『朝顔の日』も同じだが、総括すれば、なんのことはない「怪我・病気小説」という安易なカテゴライズもあるかもしれない。

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