そのころ、世に数まへられぬ古教授ありけり。

この翁 行方定めず ふらふらと 右へ左へ 往きつ戻りつ

7月11日(土)その2

2009年07月11日 | 昔日記
 ×××先生はご体調がお悪いらしい。お大事に。検査結果、何でもないといいですね。

 私は助手あがり(もっとも大学教員になるまでには長い迂回経歴があるけれど)なので、「一般に助手仲間は信頼する」と書いたら、一概にそういうものでもないとのご指摘があった。なるほど、そうかもしれないが、私は人数が急に増えた、制度の切り替え直後の助手で、その後、専任になった人が多いからかもしれない。

 教育学のUさん、社会学のUさん、英文のMさん、仏文のTさん、独文のIさん、考古学のTさん…。露文はいま政治学部のNさんだった。所沢だと、Iさんはもう一人の社会学で、心理学のSさんもそうだ。私が同期の一番若年者だったから、任期の2年間、ずうっと飲み会の幹事をやらされた。助手仲間でよく飲んだものだ。所属専攻内では、Nさん(現教育学部教授)と私、私とUさん(現JOQR学部教授)という組み合わせだったから、みな出身大学の教授に就任したことになる。純血主義と非難される所以だが、昨今は公募が徹底してきたから、今後こうはいくまいて。

 「近くにいた」ということが日本社会では重要であると、宮台真司あたりも言っておったがな。一緒に助手をやったとか、戦争に行って塹壕から三八銃を撃っていた(畏友教務主任殿)とか。結局、戦友という感覚なのかもしれません。

7月11日(土)

2009年07月11日 | 昔日記
 この間、上野鈴本へ行く前、「日本橋しまね館」へ買い物に立ち寄ったら、付設の「主水」の店頭に島根産の野菜が並べられていた。完熟トマトは実に美味しそうだったし、茄子は長大なヤツであった。松江の茄子は東京あたりのものとは大違いで、ものすご~く長い。大長ナス。馬のイチモツ並み(セクハラかも)。それから、みごとなワレットがあった。

 出て来た従業員の若い衆、雲南市の出身というので、大東(だいとう)かね?と尋ねたら、そうだとのお返事。この豆、何て言ったっけ? 「モロッコいんげん」です。いいや、そうぢゃなくて…コメットさんは九重佑三子で、…ワレットさん? 大場久美子ではござんせんぞ。

 「モロッコいんげん」のことを、松江辺では「ワレット」という。おそらく出雲地方でしか言わんだろう。「ワレット」とはフランス人の名前である。

 明治2年冬に、松江藩は軍制をフランス式に改め、4個大隊2000人のブリゲートを編成して古志原で軍事訓練を行った。その際、フランス人の教官ワレットを招いたのである。このワレット氏が持ち込んだのが「ワレット豆」らしい。フランスといえば外人部隊だから、なるほど「モロッコ」とは関係が深かろう。
 
 ワレット氏の名は、中原健次編『松江藩家臣団の崩壊―秩禄処分―』(オフィスなかむら)のp170にもちらっと出てくる。ところでこの本に収められている『旧松江藩有禄士族取調書』は、我が××家のご先祖様を調べる基本史料なのである。ここに、私が所持している家系図の一番上に記されている人物が出ている。それは、「卒」身分中の「元高十五石四人扶持」に列せられている人物で、「普通徒」というクラスだったらしい。まあ、「足軽」の上の、下士官といったところかしら。近世史に詳しい方に、ぜひ教えていただきたい。

 私の苗字の、表記はとても変わっている。全国に11軒あるだけらしい。ただし、他の漢字を当てるのはいくつかある。「金」字を当てると国学者なんぞも検索できる。で、なんだかとても由緒正しい名家のように誤解していらっしゃる向きもあるようだが、松江藩の徒(かち)身分の家柄に過ぎませぬ。雑貨町の神社の社家は亡夫の実家であり、高校2年生の時に養子にやられた先、母親の生家の枝葉は、如上の次第である。