(中家住宅)
平安時代、後白河法皇が熊野行幸の際に立ち寄ったという中家は、泉南地域指折りの旧家である。江戸時代に建てられた主屋、表門、唐門が残る。中でも主屋は、重厚な屋根に朱色の漆喰が印象的である。
中家住宅
幕末、この家から中瑞雲斎という激烈な尊王家が輩出された。嘉永六年(1853)三月、瑞雲斎の名を慕って、吉田松陰も熊取を訪れている。
明治二年(1869)一月、横井小楠が京都で暗殺された。中瑞雲斎は、小楠暗殺の黒幕の一人とされ、三年の禁固刑に処された。さらに外山光輔や愛宕旭輝らの政府転覆事件に加担した咎で終身刑とされ、明治四年(1871)、獄死した。
はるばると熊取町の中家住宅を訪ねたというのに、入口には「当面の間、一般公開を中止」する旨の張り紙が…。おそらく半年前に大阪を襲った地震の被害だと思われるが、だったら町のホームページが何かに掲示位しておいて 欲しいものである。ここで中瑞雲斎の墓所を尋ねようと思っていたのに目算が狂ってしまった。
(慈照寺)
慈照寺
かつて中家の墓地があったとされる慈照寺である。墓地は他所に移転・集約されたらしい。
中家住宅の近くに煉瓦館と称する施設があり、そこで町の職員と思しき人をつかまえて中瑞雲斎の墓所を質問した。職員さんは、わざわざ「詳しい人」に電話で問い合わせをしてくださり、「諸説あって詳しいことは分からないのですが」という断り入りで、桜ケ丘の共同墓地の場所を教えてくれた。この情報だけで十分であった。
(五門墓地)
瑞雲院鐡翁了心居士(中瑞雲斎の墓)(左)
右奥は夫人恵美の墓
五門共同墓地の目印は、「大学スーパー」という八百屋さんである。「大学スーパー」にさえ行き着ければあとは簡単に見つかる。墓地入口には昭和六十三年(1988)にこの墓地が中家の寄贈によって開かれたことを記した石碑がある。墓地一番奥が中家の墓所である。
そこに中瑞雲斎、その横に恵美夫人、さらに瑞雲斎に連座して投獄され、明治四年(1871)に亡くなった息健の墓もある。
瑞巌院英峯良俊居士(中健の墓)
平安時代、後白河法皇が熊野行幸の際に立ち寄ったという中家は、泉南地域指折りの旧家である。江戸時代に建てられた主屋、表門、唐門が残る。中でも主屋は、重厚な屋根に朱色の漆喰が印象的である。
中家住宅
幕末、この家から中瑞雲斎という激烈な尊王家が輩出された。嘉永六年(1853)三月、瑞雲斎の名を慕って、吉田松陰も熊取を訪れている。
明治二年(1869)一月、横井小楠が京都で暗殺された。中瑞雲斎は、小楠暗殺の黒幕の一人とされ、三年の禁固刑に処された。さらに外山光輔や愛宕旭輝らの政府転覆事件に加担した咎で終身刑とされ、明治四年(1871)、獄死した。
はるばると熊取町の中家住宅を訪ねたというのに、入口には「当面の間、一般公開を中止」する旨の張り紙が…。おそらく半年前に大阪を襲った地震の被害だと思われるが、だったら町のホームページが何かに掲示位しておいて 欲しいものである。ここで中瑞雲斎の墓所を尋ねようと思っていたのに目算が狂ってしまった。
(慈照寺)
慈照寺
かつて中家の墓地があったとされる慈照寺である。墓地は他所に移転・集約されたらしい。
中家住宅の近くに煉瓦館と称する施設があり、そこで町の職員と思しき人をつかまえて中瑞雲斎の墓所を質問した。職員さんは、わざわざ「詳しい人」に電話で問い合わせをしてくださり、「諸説あって詳しいことは分からないのですが」という断り入りで、桜ケ丘の共同墓地の場所を教えてくれた。この情報だけで十分であった。
(五門墓地)
瑞雲院鐡翁了心居士(中瑞雲斎の墓)(左)
右奥は夫人恵美の墓
五門共同墓地の目印は、「大学スーパー」という八百屋さんである。「大学スーパー」にさえ行き着ければあとは簡単に見つかる。墓地入口には昭和六十三年(1988)にこの墓地が中家の寄贈によって開かれたことを記した石碑がある。墓地一番奥が中家の墓所である。
そこに中瑞雲斎、その横に恵美夫人、さらに瑞雲斎に連座して投獄され、明治四年(1871)に亡くなった息健の墓もある。
瑞巌院英峯良俊居士(中健の墓)