史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

熊取

2019年02月09日 | 大阪府
(中家住宅)
 平安時代、後白河法皇が熊野行幸の際に立ち寄ったという中家は、泉南地域指折りの旧家である。江戸時代に建てられた主屋、表門、唐門が残る。中でも主屋は、重厚な屋根に朱色の漆喰が印象的である。


中家住宅

 幕末、この家から中瑞雲斎という激烈な尊王家が輩出された。嘉永六年(1853)三月、瑞雲斎の名を慕って、吉田松陰も熊取を訪れている。
 明治二年(1869)一月、横井小楠が京都で暗殺された。中瑞雲斎は、小楠暗殺の黒幕の一人とされ、三年の禁固刑に処された。さらに外山光輔や愛宕旭輝らの政府転覆事件に加担した咎で終身刑とされ、明治四年(1871)、獄死した。

 はるばると熊取町の中家住宅を訪ねたというのに、入口には「当面の間、一般公開を中止」する旨の張り紙が…。おそらく半年前に大阪を襲った地震の被害だと思われるが、だったら町のホームページが何かに掲示位しておいて 欲しいものである。ここで中瑞雲斎の墓所を尋ねようと思っていたのに目算が狂ってしまった。

(慈照寺)


慈照寺

 かつて中家の墓地があったとされる慈照寺である。墓地は他所に移転・集約されたらしい。

 中家住宅の近くに煉瓦館と称する施設があり、そこで町の職員と思しき人をつかまえて中瑞雲斎の墓所を質問した。職員さんは、わざわざ「詳しい人」に電話で問い合わせをしてくださり、「諸説あって詳しいことは分からないのですが」という断り入りで、桜ケ丘の共同墓地の場所を教えてくれた。この情報だけで十分であった。

(五門墓地)


瑞雲院鐡翁了心居士(中瑞雲斎の墓)(左)
右奥は夫人恵美の墓

 五門共同墓地の目印は、「大学スーパー」という八百屋さんである。「大学スーパー」にさえ行き着ければあとは簡単に見つかる。墓地入口には昭和六十三年(1988)にこの墓地が中家の寄贈によって開かれたことを記した石碑がある。墓地一番奥が中家の墓所である。
 そこに中瑞雲斎、その横に恵美夫人、さらに瑞雲斎に連座して投獄され、明治四年(1871)に亡くなった息健の墓もある。


瑞巌院英峯良俊居士(中健の墓)

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吹田

2019年02月09日 | 大阪府
(関西大学千里山キャンパス)


関西大学


泊園書院址

 日が暮れようとしていたが、関西大学千里山キャンパスまで行って以文館北側にある泊園書院碑を訪ねた。何とか日没に間にあった。
 泊園書院は、江戸時代後期、藤澤東畡により大阪に開かれた漢学塾で、その子の南岳、南岳の長子黄鵠、次子黄坡(関西大学名誉教授)、および石濱純太郎の尽力により幕末から明治・大正・昭和にかけて隆盛、大阪の教育、文化の発展に大きく貢献した。書院の遺構は残っていないが、その蔵書「泊園文庫」は昭和二十六年(1951)、関西大学の図書館に寄贈されている。泊園書院は、かつて竹屋町(現・大阪市島之内一丁目)にあり、その場所にこの石碑もあったが、平成二十二年(2010)、関西大学構内に移設された。黄坡の子で作家藤沢桓夫の書。

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天王寺 Ⅳ

2019年02月09日 | 大阪府
(統国寺)


長涯間先生之墓

 統国寺を再訪。墓地にある間長涯重富の墓を訪ねた。
 間長涯は江戸中期の暦学者・天文学者である。宝暦六年(1756)、代々長堀で質屋を営む十一屋の六男として生まれた。名は重富、号は長涯、通称は五郎兵衛。麻田剛立から天文学を学び、特に観測技術面で才能を発揮し、垂揺球儀をはじめ多くの観測機器を考案・改良し、また私財を投じて工人を養成して機器の製作にあたらせた。寛政7年(1895)、幕府の改暦にあたり、高橋東岡(至時)とともに師の剛立から推薦され、江戸に行って三年で寛政暦を完成させた。その功によって幕府から直参にとりたてられようとしたが、これを辞退して帰坂。家業も大事にし、十一屋を繁盛させた。また、才能のある者、学問に熱心な人への援助を惜しまず、橋本宗吉や山片蟠桃らを育て、多くの学者たちと交流して、医学・蘭学・経済学など多方面にわたって貢献した。文化十三年(1816)、六十歳で没。

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河内長野 Ⅳ

2019年02月09日 | 大阪府
(河合寺)


河合寺

 河内長野の河合寺に、天誅組に参加した長野一郎(吉井儀三)、東条昇之助、吉年米蔵の墓があるというので、河内長野を再訪した。事前に河合寺の墓地は、近くの河南東山墓地に集約されているという情報を得ていたので、河南東山墓地を徹底的に歩いたが、到頭見つけることはできなかった。山頂近くに吉年家や吉井家の墓所はあったので、それらしい匂いは検知したのだが、力及ばなかった。

(明忍寺)


明忍寺

 電車の駅でいうと河内長野駅から一つ大阪寄りの南海電鉄の千代田駅が最寄りとなる。歩いて十分ほどで明忍寺に行き当たる。
 この寺の裏山に天誅組吉川治太夫の墓がある。が、墓地への道が見当たらない。一旦、境内を出て団地側から進入を試みたが、鉄柵と鉄条壕で厳重に囲われていて、わずかな隙さえ見出すことはできない。再度、明忍寺境内に戻ったところで、住持さんと出会ったので、事情を話して墓地への行き方を教えていただいた。墓地へは境内から径が通じており、突き当りを左に折れると、二段に分れた墓地がある。吉川治太夫の墓は、下段の奥の列、一番右側にある。


秋雲院道悟日定居士(吉川治太夫墓)

 右側面には「文久三癸亥年九月三日没 神戸藩俗名吉川治太夫墓」とある。
 吉川治太夫は神戸藩士。文化六年(1809)の生まれ。十五歳にして藩主に認められ、聴番・茶番として近侍した。天保六年(1835)、中小姓本席、同八年(1837)、侍読、さらに小姓、代官役、馬廻役を歴任し、万延元年(1860)、藩校教倫堂の教授などを経て、文久元年(1861)、河内錦部郡長野の代官となった。文久三年(1863)、配下の庄屋吉年米蔵、医者吉井儀蔵(長野一郎)らに働きかけ天誅組に参加すると、金穀の調達のほか、軍資金の一部を代官所から引き出して支援した。吉年米蔵の狭山藩による逮捕を防ぐため尽力したことが露顕し、召喚されたところ、同年九月、自刃。五十五歳。

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