史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「西郷隆盛の明治」 安藤優一郎著 洋泉社歴史新書

2017年04月29日 | 書評
「勝海舟の明治」に続く安藤優一郎氏の本である。しかし、勝海舟と比べると、西郷隆盛の明治は遥かに複雑である。西郷隆盛はどうして遣韓使節を主張したのか。どうして西南戦争を起こしたのか。どうして戦闘の指揮を取らなかったのか。明治政府の首班として近代化政策を推し進めながら、最後は士族に担がれて賊として討たれた。維新後の西郷は謎に満ちている。司馬遼太郎先生は、長編「翔ぶが如く」で文庫本にして十巻に及ぶ紙面を費やして、結局確たる答えを見出せなかった。結論からいえば新書一冊で簡単に答えの出るものではない。
本書では①西郷は体調も悪く、死を意識する状態にあったことで、「最後の仕事という気持ちも募った ②戦争をひたすら回避しようとした徳川幕府の二の舞にならないよう強硬策を主張した ③開戦すれば士族の働き口が確保できる ④はからずも新政府のトップに立ち、批判を一身に集めることになってしまった。この重圧から逃れたいという気持ちが遣韓へ走らせた といった推定をしている。本書では維新以降、西郷と久光の確執を追い、西郷が久光から執拗に責められていた事実を明らかにしている。西郷の精神状態は推し測るしかないが、追い込まれていた側面はあったかもしれない。
明治十年(1877)、西郷は挙兵を決意する。戦争に至る経緯について、本書では薩軍に鎮台を侮る空気があったと指摘する。確かに徴兵によって集められた農民に軍事訓練を施して拵えた鎮台兵は、最強といわれた薩軍の敵ではないだろう。さらにいえば、熊本鎮台の参謀長樺山資紀は薩摩出身であり、帰順するのではと期待されていた。海軍大輔の川村純義にいたっては、西郷の遠い親戚でもあり、政府の軍艦を率いて帰順すると見られていた。西郷が進めば、政府に残っていた薩摩出身者も駆け付け、政府に不満をもつ士族も陸続と集まってくる。要するに楽観の上に楽観を重ねて、戦略もなく出兵したのである。
出兵にあたって、西郷は県令大山綱良に対し、尋問のため多数の兵を率いて東京に向かう。通過する地域の人民が動揺しないようにして欲しいという書面を届けた。大山県令はその旨を九州各県に通知した。
これを受けた政府の動きは迅速であった。早々に征討軍を結成した。大山県令は征討軍派遣に強く抗議する書面を有栖川総督に提出しようとするなど、思わぬ反応に困惑が広がった。これも西郷の誤算であった。
鹿児島県から熊本鎮台に向けて、西郷軍が城下を通過する際、兵は整列してその指揮を受けるように、という文書が届いた。司令長官の谷干城は激怒し、参謀長樺山資紀は使者に文書を突き返した。あまりに温度差が大きかった。帰順を期待していた熊本鎮台は、完全に敵に回ってしまったのである。
西郷の驕りと楽観が、全軍に、そして鹿児島県にまで蔓延していた。薩軍は戦略もなく蹶起し、無謀な戦争に挑んでしまった。それにしても維新前は的確な政局判断を積み重ね倒幕の立役者となった西郷が、どうして人が変わったように判断ミスを繰り返したのだろうか。この点は全くの謎である。
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