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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

青山霊園 補遺 Ⅴ

2014年12月14日 | 東京都
(青山霊園つづき)

1種イ1号26~28側


岩下家(岩下方平)

岩下方平(まさひら)は、文政十年(1827)鹿児島城下に生まれた。父は薩摩藩士岩下典膳。薩摩藩の上士階級である家老格の寄合交の家柄であった。安政の大獄後、薩摩藩が水戸藩と謀った井伊大老襲撃計画の同志の首領に推され、ついで誠忠組においても指導的な役割を担った。江戸側用人に抜擢され、文久三年(1863)の薩英戦争後の和平交渉には正使として重野安繹とともに対応に当たった。慶応元年(1865)に家老となり、翌慶応二年(1866)の長州再征では出兵拒否の態度を取った。同年十一月、パリ万国博覧会開催にあたり、薩摩藩の使節として渡仏し、幕府に対抗して薩摩琉球国太守政府の名義で参加した。帰朝後、直ちに藩主島津忠義に従い上京、慶応三年(1867)十二月、王政復古では藩を代表して西郷隆盛、大久保利通とともに参与に任じられた。明治以降は、外国事務局判事、刑法官出仕、留守次官、京都府権知事、大阪府大参事を経て、明治十一年(1878)元老院議官に任じられた。明治二十三年(1890)、貴族院議員。明治三十三年(1900)、年七十四で没。

1種イ3号4側


種徳(何礼之)

何礼之(がれいし)は、長崎の唐通詞。天保十一年(1840)の生まれ。万延元年(1860)、小通事過人に昇進し、選ばれて英語伝習所に入り英学を学んだ。文久元年(1861)小通事助となり、済美館教頭となった。のちに江戸詰めとなり、慶応三年(1867)には開成所教授であったが、明治二年(1869)造幣局権判事、大学小博士。明治四年(1871)には一等書記官として岩倉使節団に随行。のちに駅逓寮出仕図書局長、内務権大丞、元老院議官、高等法院予備裁判官等を歴任。明治二十四年(1891)貴族院議員。大正十二年(1923)八十四歳にて没。
青山霊園の墓には、正面に「種徳」向って左に「祭掃維動」、右に「音容如在」と刻まれている。

1種ロ16号30側


本多家之墓(本多晋)

幕末、本多敏三郎と名乗っていた。水戸藩出身で、一橋家の家臣となった。のちに幕府の陸軍取調役。渋沢喜作、伴門五郎、須永於菟之輔、小林清五郎らと彰義隊結成に加わり、彰義隊頭取となった。上野戦争では奇跡的に生き抜き、戦後、銀行家として成功した。墓標によれば、大正十年(1921)十二月二十六日、七十七歳で没。「諦観院殿随縁可齊居士」という法名が合わせて刻まれている。大正期の林学者本多静六は、養子である。
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池上 Ⅲ

2014年12月13日 | 東京都
(池上本門寺)


星亨之墓

 弁護士から転身し、政治家として活躍した星亨の墓である。星亨は、明治三十四年(1901)、伊庭想太郎(伊庭八郎の実弟)に暗殺された。

(善国寺墓地)


竹本家の墓(竹本正雅墓)

 善国寺墓地内に幕臣竹本家の墓がある。幕末の当主竹本正雅(まさつね)は、外国奉行などを歴任し、万延元年(1860)十二月には、日普修好通商条約締結の全権委員となった。この頃、米国通訳官ヒュースケン暗殺事件の弔使を務めている。文久三年(1863)、英仏公使の内政干渉を退け、瑞西条約締結の首席全権委員に任命された。元治元年(1864)には、生麦事件の賠償交渉のため四国連合艦隊の代表と会見するなど、外交官として活躍した。明治元年(1868)十月、四十三歳にて没。墓標には、「恭信院殿蘓軒正日尚大居士」という法名が刻まれている。
 この近くの承教寺墓地で、大村藩士十九貞衛(つづさだえ=三十七士同盟の一人。戊辰戦争にも従軍)の墓を探したが、見つからず。大村に移葬されたか。

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西東京 Ⅱ

2014年12月12日 | 東京都
(芝久保墓地)


撃剣家並木先生之墓

 周囲を工場や住宅に囲まれた西東京市芝久保墓地に並木綱五郎の墓がある。
 並木綱五郎は、文政八年(1825)田無村に生まれた。江戸で千葉周作の門に入り、北辰一刀流の奧殿を許されて帰郷し、道場を開いた。元治・慶応年間に多くの門人を教授した。綱五郎は、明治四年(1871)、四十六歳で亡くなったが、彼の恩徳を慕い門人らが明治十四年(1881)、この墓碑を建立した。台座には門弟三十九人の名前が刻まれている。墓碑の右側面には、医師賀陽済(かやわたる)の撰文と書によるものである。

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亀戸 Ⅲ

2014年12月12日 | 東京都
(長寿寺)


長寿禅寺


西館孤清墓

 長寿寺の墓地に、弘前藩士西館孤清の墓がある。西館弧清(にしだてこせい)は文政十一年(1829)、弘前藩士の家に生まれた。藩の世子承祐の近侍、勘定奉行を経て、文久三年(1863)大寄合格用人手伝となった。同年八月、上洛して用人を勤め、元治元年(1864)七月、禁門の変では近衛邸を護衛した。明治元年(1868)奥羽越列藩同盟成立により、近衛忠煕・忠房らの書簡を持参帰藩して、藩論の勤王統一に寄与した。明治二年(1869)弘前藩権大参事。のちに藩主家の家政処理に当たり、明治二十五年(1892)、年六十四で没した。

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シカゴ

2014年12月05日 | 海外
(ユニオン駅)
今回の出張は、シカゴ経由で日本に帰国する。飛行機の出発まで少し時間があったので、シカゴの街を探索することにした。
シカゴ・オヘア空港から市内へ地下鉄が伸びており、約四〇分で市内に至る。一日乗り放題で十ドルというチケットを購入した。ちょうど通勤時間帯に重なったが、車内はさほど混雑することもなかった。


シカゴ市街

明治四年(1871)、岩倉使節団はサンフランシスコに上陸し、開通して間もない大陸横断鉄道を使って東海岸を目指した。当時、シカゴは鉄道の乗り継ぎ拠点であり、交通の要衝として発展したアメリカ北東部の大都市であった。シカゴで使節団は小学校などを訪問している。

ユニオン駅は石造りの堅牢な建物である。天井高さ三四メートルというグレート・ホールと呼ばれる待合スペースは、まるでコンサートホールである。ユニオン駅が開業したのは、1881年のことであり、使節団がシカゴを訪れたとき、まだ完成していなかった。


ユニオン駅

岩倉具視は、ちょん髷に和装という出で立ちで日本を出たが、さすがにこの姿で旅を続けることに不都合を感じ、シカゴで髷を切っている。


ユニオン駅構内

(シカゴ・ウォーター・タワー)


ウォーター・タワー


ウォーター・タワー

明治五年(1872)、サンフランシスコに上陸した岩倉使節団一行は、ロッキー山脈を越えてオマハを経由して、シカゴに到着した。一月十八日のことであった。ちょうどその四か月前、シカゴは大火に襲われ、その生々しい傷跡を目にすることになった。使節団は五千ドルをシカゴ市に寄付している。
この大火でも焼け残った唯一の公共施設が、ウォーター・タワーと呼ばれる建物である。本施設が完成したのは1869年のことで、既に使節団が訪れた時、施設は稼働していた。シカゴ市ではミシガン湖の水を汲み上げ、市民の上水として利用していたのである。久米邦武は「米欧回覧実記」の中で驚きをこめて、この施設を書き留めている。
――― 湖浜に上水を揚る場屋あり、湖浜の水は。風波の動揺にて、汚濁を混するゆえに、湖浜を離ること三英里の水中に屋を造り、その下より隧道をほり、水底をくぐりてこの機関の下に至る。これを「レイキトンネル」と名づく。湖面の清水、その隧道の中を伝えて、機関の下に至るを、蒸気の輪をもって「ポンプ」を昇降し、その水を汲み揚げて、銕管に送り市中に分派して、日常の上水とす。全府の民家は、用水をこの一樋に仰ぐ。昼夜二十四時間に三千六百万グラムの水を汲み揚げるとなり。(原文を一部修正)

久米邦武の記述は続く。「水甘美にて毒なく汚れなく、全都の生霊、みな浄水を飲用す。」と書き留めている。
「特命全権大使 米欧回覧実記」全五巻は岩波文庫で入手することが可能である。全巻そろえると一万円を超える。私は古本で、全巻二千円ほどで購入した。漢文調の文章は現代人には決して読みやすくはないが、出張先に岩倉使節団が訪問した都市があれば、本書で彼らがどこに立ち寄ったのか確認し、その部分を読むようにしている。
久米邦武は佐賀藩の出身で、藩校弘道館に学び英才を発揮した。のちに歴史学者として名を成した。「米欧回覧実記」は、大部の書であるが、見聞を克明に記した貴重な記録である。本書でシカゴ市は「市高俄」と表記されている。
大火を経験したシカゴ市では、悲劇を繰り返さないために、火災に強い街造りを目指した。その結果、シカゴ・トリビューンセンターなど、世界屈指の石造りの高層建築の街となった。

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ニューヨーク ブルックリン

2014年12月05日 | 海外
(グリーンウッド墓地)
今回のニューヨーク訪問で、欠かせなかったのがブルックリンのグリーンウッド墓地である。マンハッタンの中心部から地下鉄で三十分ほど揺られて、25th aveという駅で下車すると、グリーンウッド墓地の入り口が近い。お城のような立派な門が出迎えてくれる。
朝から降り続いた雨がようやくやんで、ここで初めて日差しを浴びることができた。


グリーンウッド墓地入り口

グリーンウッド墓地は、果てしなく広い。日本でいえば、名古屋の平和霊園並である。この中を当てもなくハリスの墓を探し出すのは、とても執念だけでは果たせることはできない。守衛の男に「タウンゼント・ハリスの墓を訪ねたい」と尋ねると、彼は大きく頷き「よく知っている」と自信たっぷりであった。グリーンウッド全体の地図にボールペンで位置を記入してもらい、それを頼りにハリスの墓を探し出すことになった。
五分ほど歩いたところで、先ほどの守衛の男性が自動車で追いかけてきた。車に乗れという。どうやら私が歩いている方向が違っているので、ハリスの墓の場所まで連れて行ってくれるというのである。せっかくなので親切に甘えることにした。
彼がいうには、グリーンウッド墓地に眠るのは、五十万人という。青山墓地の数倍の規模である。欧米の墓は、日本の墓と比べると変化に富んでいる。墓石の上に天使が立っていたり、壺が乗っかっていたり、その意匠を見ているだけでも興味が尽きない。
ハリスの墓は、日当たりの良い斜面の中腹にあった。桜の木が目印である。事績を刻んだ墓石のほかに、ニューヨーク市立大学が寄贈した石と下田市が送った石、それと玉泉寺住職が贈った石燈籠が置かれている。案内してくれた彼によれば、毎年日本の自治体が墓参りに来ているという。
司馬遼太郎先生は、「街道をゆく ニューヨーク散歩」でグリーンウッド墓地を訪ねている。しかし、ハリスの墓には行き着かなかったようである。
実は、その後、指揮者としてだけでなく作曲家としても名を成したレナード・バーンスタインの墓を探したが、こちらは出会うことができなかった。


ハリスの墓
IN MEMORY OF
TOWNSEND HARRIS
BORN AT SANDY HILL NY
OCTOBER 5TH 1803
DIED IN NEW YORK
FEBRUARY25TH 1878

ハリスは、中学校卒業後、商業界に入り、数年後父母と兄が開いた陶磁器店の経営を手伝い、東洋の商品を扱った。父母の死後、ハリス商店は不況のため倒産。ハリスはニューヨークを去り、世界旅行の旅に出た。その後、1855年までの六年間、東洋貿易に従事した。嘉永六年(1853)、ペリー艦隊の日本派遣が実行されたのを機に、ハリスは商人から外交官に転じ、1854年には寧波領事に任命された。ハリスは駐日領事の任を望んで、熱心に有力者に自薦を試み、安政二年(1855)、念願の初代日本総領事に任ぜられた。安政三年(1856)、米艦サン・ジャシント号に塔じて下田に到着。玉泉寺に入った。ハリスの最初の任務は通商条約の締結にあり、まず下田条約を結んで通商条約の基礎を作った。継いで幕府の反対を押し切って江戸出府の許可を得、ヒュースケンとともに江戸城に入って将軍家定に謁見した。列国に先んじて日米通商条約の締結に成功した。安政六年(1859)には特派全権公使に任じられ、麻布善福寺を公館として開国初期の対日外交に当たった。彼は各国外交団の最古参の位置にあり、万延元年(1860)ヒュースケン遭難事件を機に、英国公使オールコックら各国代表が横浜に退去した際、一人江戸に留まるなど独自の態度をもった。文久二年(1862)帰国。1878年、七十三歳にて死去。


ハリスの墓
左が墓標 中央がCCNY寄贈の銘板
右が下田市寄贈のもの

下田市寄贈の銘板には、「駐日総領事館開設130年にあたり謹んで初代駐日米国総領事タンセント・ハリス氏の霊前に捧ぐ」ときざまれている。日付は昭和六十一年(1986)となっている。

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ニューヨーク マンハッタン Ⅱ

2014年12月05日 | 海外
(セントラル・パーク)


セントラル・パーク

セントラル・パークは、その名のとおり、マンハッタン島の中央部に位置する。面積はおよそ三・四㎡という広大なものである。
三使および上役十三名が馬車でセントラル・パークを訪れたのは、同年五月四日のことであった。彼らは園内で馬車によるドライブを楽しんだ後、セントラル・パークを訪れた記念に植樹をしたという。場所は「湖水の南、岩棚(ロッキー・レッジ)の北側の馬車道近く」で、正使新見正興は用意された日本杉を植えたという。今回、現地を探索しているヒマはなかったが、今も残っているのか興味があるところである。

(ニューヨーク市立大学)


TOWNSEND HARRIS HALL


タウンゼント・ハリス・ホール

初代駐日公使として来日したタウンゼント・ハリスは、日本に来る前、熱心な教育家であった。1846年にはニューヨーク市の教育委員長に就いている。教育家としての最大の功績は、ニューヨークに無料の高等教育機関(現在のニューヨーク市立大学。略称CCNY設立当時はフリー・アカデミー)を創立したことであろう。彼の功績を顕彰してCCNY内に彼の名を冠したホールが建設されている。
CCNYは、セントラル・アークの北側にあり、マンハッタン島の中心部からは少し離れている。タウンゼント・ハリス・ホールを訪ねるため、地下鉄を使った。ニューヨークの地下鉄はマンハッタン島を縦横に巡っており、使いこなせれば市内観光には至って便利である。チケットには色々なタイプがあるが、私は三十ドルで一週間乗り放題というチケットを購入した。ニューヨークの地下鉄は、距離にかかわらず一回につき一律二ドル五十セントという料金体系となっている。私は十分一日でもとを取ることができた。


(ペリー晩年の住居)



五月九日、三使らはペリー提督の未亡人ジェイン・スライデルの家を訪ねた。住所は、ウェスト三十二番街三十八番地。美しい四階建ての建物だったという。このとき既にペリーは二年前にリューマチで他界していた。
談話の中で、このたび日本使節がアメリカに来たのもペリーの功によるもので、ペリー提督がご健在であれば良かったと話が及ぶと、夫人は感極まって涙ぐみ言葉が無かった。
当該住所に何か残っているかと期待して訪問してみたが、それらしいものは一切発見できなかった。現在、この周辺はコリアタウンとなっていて、韓国料理の店が軒を並べている。

(以上、参考文献。宮永孝著講談社学術文庫「万延元年の遣米使節団」)

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ニューヨーク マンハッタン Ⅰ

2014年12月05日 | 海外
これまでも毎年海外出張する機会はあったが、出張の傍ら史跡を訪ね歩いたのは久々であった。勝手に史跡と称しているが、恐らくニューヨーカーにとっては史跡でも何でもない、日常の風景の一つしか過ぎないようなものかもしれない。今から百五十年以上前の万延元年(1860)、幕府の使節団が、ニューヨークを訪れている。今回はその足跡を訪ねてみたい。ニューヨークの観光といえば、自由の女神とかグラウンド・ゼロとか、はたまたメトロポリタン美術館と相場が決まっているが、結果的に一般的な観光地には一切立ち寄る時間がなかった。
ニューヨーク北東部最大の都市、ニューヨークは1624年にオランダ人がマンハッタン島にニューアムステルダムを開いたのを起源としている。それから四十年後の1664年、この地はイギリスの所有となり、ヨーク公爵の名に因んでニューヨークと名付けられた。ヨーロッパからの移民や大西洋と五大湖を結ぶエリー運河の開通などによって街は急速な発展を遂げた。使節団が訪れたこの時点では人口七十万人を超える大都市に発展していた。


ニューヨーク マンハッタンを上空より臨む

ニューヨーク上空に差し掛かると、見渡す限り平野が広がり、マンハッタン島だけセイタカアワダチソウが生い茂ったように、高層ビルが密集している。アメリカ合衆国は人口でいえば日本のざっと三倍。一方で、日本の二十五倍もの国土を有し、恐らく平野の比率を考慮すれば、人の住めるエリアはもっと格差が大きいだろう。その結果、日本人は狭い場所に肩を寄せ合うように住居を建てることになった。時に大雨が降ると、土石流災害に見舞われるような山裾であっても立地を求めなくてはいけないのは、我が国の宿命かもしれない。ゆったりした敷地に一軒家を持つ米国人に嫉妬を感じるのは私だけではあるまい。
出張二日目は比較的自由時間があったので、早速地下鉄を活用して市内の史跡を回ることにした。

(バッテリー公園)
万延元年(1860)四月二十八日、遣米使節団を乗せたアライダ号は、カッスル・ガーデン(現・バッテリー公園)前に停泊投錨した。極東からやってきた日本人を一目見ようと、既に雲霞の如き群衆が待ち受けていた。使節団は用意された三十台ほどの幌付馬車に分乗してブロードウェイを行進した。一行を警護するために動員された兵士の数は約六千四百(一説には八千とも)という空前の大部隊であった。


クリントン砦

(シティホール)
使節団がニューヨークに上陸した翌日は日曜日であった。その次の日(五月一日)、三使(正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、監察・小栗豊前守忠順)は、ニューヨーク市庁舎(シティホール)を表敬訪問することになっていたが、副使村垣は体調が優れず同行できなかった。
早朝からホテル周辺の道は見物人で大混雑していたが、そのほとんどは女性であったという。使節団はここでモーガン州知事やウッド市長と面会している。


シティホール

市庁舎(シティホール)は、中央に屋根付きの玄関を備え、屋根の上には頂塔(キューポラ)、そして両翼を持ったイタリア形式の大理石建造物である。ジョン・マクームという建築家による設計で、今も当時の姿を伝えている。
生憎シティホールは、改装工事中でその全容を見ることはできなかった。室内にはワシントンの執務室を再現した展示もあるらしいが、室内に入るどころか、建物に近づくことすらできなかった。

(ブロードウェイ)
使節団はニューヨーク市を挙げての熱狂的な歓迎を受けた。ブロードウェイは観衆で埋め尽くされ、立錐の余地もないほどであった。市内の商店はどこも商売を休み、窓から日米両国の国旗を掲げ、「歓迎 日本使節団」と書いた垂れ幕を出していた。沿道には観覧席が設えられ、キャンディやクリームパイを売る店が出た。日の丸の旗が飛ぶように売れたという。これまでもこれ以降も日本人が米国でこれほどの歓迎を受けたことがあったろうか。

日本人の行列がブロードウェイを進み始めると、俄かに静寂が支配した。行列が通り過ぎる時、ピンが落ちても音が聞こえるほどであったといわれる。
この群衆の中に一人の詩人がいた。W・ホイットマンである。彼は日本使節団の威厳ある行進を見て、一片の感動的な詩を残している。

 西方の海を越えて、こちらへ、日本から渡米した、謙譲にして、色浅黒く、腰に両刀を手挟んだ使節たちは、頭あらわに、落ち着き払って、無蓋の四輪場所の中に反りかえり、今日この日、マンハッタンの大路を乗りゆく。
壮麗なマンハッタンよ!
わが同朋胞のアメリカ人よ!われわれのところへ、この時遂に東洋がやって来たのだ。
われわれのところへ、われわれの都へ、
高層な大理石と鉄から成る美しい建物が両側に並び、その間が通路となっているわれらの都へ、
今日この日、わが「対蹠の世界の住民」がやって来たのだ。(後略)


ブロードウェイ(キャナル通り付近)

ホイットマンの詩は、この後も続く。詩人の心を揺さぶるほど、極東からやってきた異人の行列はアメリカ人の心を動かしたのである。

使節団の行列を見るのに、一番よい場所は、キャナル街とブロードウェイが交差する角だったという。この場所は、行列が通過する数時間も前から夥しい人出で身動きができなかったほどであった。当時の新聞が、一人の婦人と警官との悶着を伝えている。
警官が婦人に後ろに下がるように注意したところ、婦人は車道から動こうとせず、とうとう縁石まで引き戻されてしまったという。


ブロードウェイ(プリンス通り付近)

使節団一行が宿泊したメトロポリタン・ホテルはブロードウェイ沿いのプリンス通り付近にあったという。

(グレース教会)
使節団はニューヨーク滞在中、各所を精力的に訪問しているが、その中の一つにグレース教会がある。彼らはここで結婚式を見学している。この時、華燭の典をあげたのは、新郎チャールズ・G・イートンと新婦アガサ・エリナー・カーナナであった。式が終わると、新郎新婦は日本人に紹介された。この中に人気者のトミーこと立石斧次郎の姿はなかったが、彼はあとから馬車で新夫婦の家を訪れた。持ちきれないほどの贈り物と花束を渡され、キス攻めにあったという。
トミーはアメリカで熱狂的な歓迎を受けた。恐らく後にも先にもこれほどの歓迎を受けた日本人はいないだろう。
全くの個人的感想であるが、トミーは、メジャーリーガーの川崎宗則選手のような、剽軽でサービス精神旺盛なキャラクターだったのだと思う。こういうタイプの人間は、外国人に(特に陽気なアメリカ人には)好かれるものである。


グレース教会

(セント・マークス教会)


セント・マークス教会

セント・マークス教会は、ペリー夫人の出身であるスライデル家の墓があり、その関係でペリーが最初に埋葬された場所である。庭園の遊歩道にはそのことを示す銘板が埋め込まれているそうである。それを見るために訪れたが、残念ながら外周フェンスの門には全て鍵がかけられていて、中に入ることはできなかった。

(ニューヨーク市立図書館)


ニューヨーク市立図書館

五月十日、三使一同はニューヨーク市立図書館に立ち寄った。図書館長に面会ののち、館内を見学している。ここには世界各国の書籍が集められ、その中に駒谷仙人著「書言学考」や高橋作左衛門の「総界全図」もあった。

(ユニオン・スクエア)


ユニオン・スクエア

ブロードウェイを行進した使節団一行の終着地はユニオン・スクエアである。ここで一行は閲兵式に臨んだ。

閲兵式が終わると、日本人は再び馬車に乗って引き返し、プリンス街のメトロポリタン・ホテルに入った。このホテルはレンガ造りの七階建てで、ニューヨーク最大の贅を尽くしたホテルだったというが、現存していないのは残念としか言いようがない。


リンカーン像


ワシントン像

現在、ユニオン・スクエアはリンカーンやワシントンの銅像が置かれていることを除けば、特に特徴がある公園ではない。多くのリスが戯れていたが、公園にリスが住み着いているのもニューヨークでは普通のことのようである。
ニューヨークを歩いてみて実感したのは、いわゆる物乞いの多いことである。日本にもホームレスといわれる人がいるが、ホームレスといっても積極的に仕事を探して稼ごうとしているのに対し、ニューヨークの物乞いは全く働くことを諦めているように見える。しかも、若者であったり、中には妊婦の物乞いまでいて、驚かされる。アメリカ社会の闇を見る思いであった。

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