(青山霊園つづき)
1種イ1号26~28側

岩下家(岩下方平)
岩下方平(まさひら)は、文政十年(1827)鹿児島城下に生まれた。父は薩摩藩士岩下典膳。薩摩藩の上士階級である家老格の寄合交の家柄であった。安政の大獄後、薩摩藩が水戸藩と謀った井伊大老襲撃計画の同志の首領に推され、ついで誠忠組においても指導的な役割を担った。江戸側用人に抜擢され、文久三年(1863)の薩英戦争後の和平交渉には正使として重野安繹とともに対応に当たった。慶応元年(1865)に家老となり、翌慶応二年(1866)の長州再征では出兵拒否の態度を取った。同年十一月、パリ万国博覧会開催にあたり、薩摩藩の使節として渡仏し、幕府に対抗して薩摩琉球国太守政府の名義で参加した。帰朝後、直ちに藩主島津忠義に従い上京、慶応三年(1867)十二月、王政復古では藩を代表して西郷隆盛、大久保利通とともに参与に任じられた。明治以降は、外国事務局判事、刑法官出仕、留守次官、京都府権知事、大阪府大参事を経て、明治十一年(1878)元老院議官に任じられた。明治二十三年(1890)、貴族院議員。明治三十三年(1900)、年七十四で没。
1種イ3号4側

種徳(何礼之)
何礼之(がれいし)は、長崎の唐通詞。天保十一年(1840)の生まれ。万延元年(1860)、小通事過人に昇進し、選ばれて英語伝習所に入り英学を学んだ。文久元年(1861)小通事助となり、済美館教頭となった。のちに江戸詰めとなり、慶応三年(1867)には開成所教授であったが、明治二年(1869)造幣局権判事、大学小博士。明治四年(1871)には一等書記官として岩倉使節団に随行。のちに駅逓寮出仕図書局長、内務権大丞、元老院議官、高等法院予備裁判官等を歴任。明治二十四年(1891)貴族院議員。大正十二年(1923)八十四歳にて没。
青山霊園の墓には、正面に「種徳」向って左に「祭掃維動」、右に「音容如在」と刻まれている。
1種ロ16号30側

本多家之墓(本多晋)
幕末、本多敏三郎と名乗っていた。水戸藩出身で、一橋家の家臣となった。のちに幕府の陸軍取調役。渋沢喜作、伴門五郎、須永於菟之輔、小林清五郎らと彰義隊結成に加わり、彰義隊頭取となった。上野戦争では奇跡的に生き抜き、戦後、銀行家として成功した。墓標によれば、大正十年(1921)十二月二十六日、七十七歳で没。「諦観院殿随縁可齊居士」という法名が合わせて刻まれている。大正期の林学者本多静六は、養子である。
1種イ1号26~28側

岩下家(岩下方平)
岩下方平(まさひら)は、文政十年(1827)鹿児島城下に生まれた。父は薩摩藩士岩下典膳。薩摩藩の上士階級である家老格の寄合交の家柄であった。安政の大獄後、薩摩藩が水戸藩と謀った井伊大老襲撃計画の同志の首領に推され、ついで誠忠組においても指導的な役割を担った。江戸側用人に抜擢され、文久三年(1863)の薩英戦争後の和平交渉には正使として重野安繹とともに対応に当たった。慶応元年(1865)に家老となり、翌慶応二年(1866)の長州再征では出兵拒否の態度を取った。同年十一月、パリ万国博覧会開催にあたり、薩摩藩の使節として渡仏し、幕府に対抗して薩摩琉球国太守政府の名義で参加した。帰朝後、直ちに藩主島津忠義に従い上京、慶応三年(1867)十二月、王政復古では藩を代表して西郷隆盛、大久保利通とともに参与に任じられた。明治以降は、外国事務局判事、刑法官出仕、留守次官、京都府権知事、大阪府大参事を経て、明治十一年(1878)元老院議官に任じられた。明治二十三年(1890)、貴族院議員。明治三十三年(1900)、年七十四で没。
1種イ3号4側

種徳(何礼之)
何礼之(がれいし)は、長崎の唐通詞。天保十一年(1840)の生まれ。万延元年(1860)、小通事過人に昇進し、選ばれて英語伝習所に入り英学を学んだ。文久元年(1861)小通事助となり、済美館教頭となった。のちに江戸詰めとなり、慶応三年(1867)には開成所教授であったが、明治二年(1869)造幣局権判事、大学小博士。明治四年(1871)には一等書記官として岩倉使節団に随行。のちに駅逓寮出仕図書局長、内務権大丞、元老院議官、高等法院予備裁判官等を歴任。明治二十四年(1891)貴族院議員。大正十二年(1923)八十四歳にて没。
青山霊園の墓には、正面に「種徳」向って左に「祭掃維動」、右に「音容如在」と刻まれている。
1種ロ16号30側

本多家之墓(本多晋)
幕末、本多敏三郎と名乗っていた。水戸藩出身で、一橋家の家臣となった。のちに幕府の陸軍取調役。渋沢喜作、伴門五郎、須永於菟之輔、小林清五郎らと彰義隊結成に加わり、彰義隊頭取となった。上野戦争では奇跡的に生き抜き、戦後、銀行家として成功した。墓標によれば、大正十年(1921)十二月二十六日、七十七歳で没。「諦観院殿随縁可齊居士」という法名が合わせて刻まれている。大正期の林学者本多静六は、養子である。