(楽寿園)

楽寿園
この日、楽寿園の中の梅御殿で研修があったので、初めて園内に入ることになった。
楽寿館は、明治二十三年(1890)、小松宮彰仁親王の別邸として建てられたもの。建築様式は京風の数奇屋造りで、内部には幕末から明治期に活躍した日本画家の競作が一堂に集められている。
楽寿館の前の小浜池は、富士山の雪解け水が湧き出して作った池である。かつて一年中枯れることはなかったが、昭和三十年(1955)代中頃から、上流地域の地下水汲み上げ量の増加とともに年々地下水位が低下し、今ではほとんど枯渇している。
研修が開かれた梅御殿も同じく小松宮親王の別邸で、かつて楽寿館とは渡り廊下で繋がっていたそうである。
(三島神社神道墓地)
故神主前矢田部式部伊豆宿禰盛治之墓
白滝公園の少し北側に三島神社神道墓地がある(三島市一番町3)。周囲は住宅にかこまれており、少しわかりにくい場所にある。
三島神社神道墓地は、慶応四年(1868)九月、矢田部盛治が新政府に三島神社社家一同の神葬祭変更と檀家寺からの離檀を願い出て、明治元年(1868)、別当寺であった愛染院境内墓地の一部を神葬墓地と定めたものである。埋葬されているのは、明治二年(1869)から明治十八年(1885)の間、神主家、社家、宮司のほか、一般の三島神社氏子崇敬者のうち希望者も含め、三十七柱である。
入口近くの立派な墓石は、矢田部盛治のもの。矢田部盛治は、遠州掛川藩家老橋爪彌一右衛門の第三子に生まれ、長じて三島神社神主矢田部盛正の嗣子となった。嘉永七年(1854)当地を襲った東海大地震により倒壊した三島神社本殿以下の建物を、十年の歳月と巨費を投じて再建し、官幣大社に列格せしめた。明治維新に際して伊吹隊を編成してその盟主となり、明治天皇東幸を警護して人心安定に努めた。また、三島宿を兵火から救った恩人の一人である。明治政府から幾度も招聘を受けたが、神明奉仕を怠らず、明治四年(1871)、四十八歳で世を去った。
(長圓寺)
長圓寺には、世古本陣の門が移築されている。墓地には本陣を代々務めた世古家の墓があり、その中に幕末の当主世古六太夫の墓がある。
長圓寺
本行院直道日壽居士
(世古六太夫の墓)
世古六太夫は、天保九年(1838)、川原ヶ谷村(現・三島市川原ヶ谷)に生まれた。父は栗原嘉右衛門正順。栗原家は甲斐源氏の一族で、甲州山梨郡日川村下栗原に館を持つ城主だったという言い伝えが残り、この旧家で六太夫は少年時代を過ごした。十四歳の時、世古家に入った。世古家は江戸初期より代々三島宿本陣を務める家で、六太夫は本陣主のほかにも三島宿の問屋役などを務めていた。慶応四年(1868)五月、旧幕兵(遊撃隊)約二百余が沼津・霊山寺に陣取った。一方、新政府軍は三島宿明神前に陣をひいた。この時、世古六太夫は矢田部盛治とともに両者の間を調停し、三島宿を戦禍から救った。六太夫は幕府方に通じているとの嫌疑を受け新政府軍に捕えられている。維新後は実業家として三島の通信運輸事業を展開して、この地域における郵便事業の基礎を築いた。また、教育にも力を注ぎ、明治五年(1872)には私立学校開心庠舎を開いた。晩年は沼津牛臥に旅館三島館を建て、各方面の著名人と交遊を深めた。大正四年(1915)七十八歳で死去。

楽寿園
この日、楽寿園の中の梅御殿で研修があったので、初めて園内に入ることになった。
楽寿館は、明治二十三年(1890)、小松宮彰仁親王の別邸として建てられたもの。建築様式は京風の数奇屋造りで、内部には幕末から明治期に活躍した日本画家の競作が一堂に集められている。
楽寿館の前の小浜池は、富士山の雪解け水が湧き出して作った池である。かつて一年中枯れることはなかったが、昭和三十年(1955)代中頃から、上流地域の地下水汲み上げ量の増加とともに年々地下水位が低下し、今ではほとんど枯渇している。
研修が開かれた梅御殿も同じく小松宮親王の別邸で、かつて楽寿館とは渡り廊下で繋がっていたそうである。
(三島神社神道墓地)

故神主前矢田部式部伊豆宿禰盛治之墓
白滝公園の少し北側に三島神社神道墓地がある(三島市一番町3)。周囲は住宅にかこまれており、少しわかりにくい場所にある。
三島神社神道墓地は、慶応四年(1868)九月、矢田部盛治が新政府に三島神社社家一同の神葬祭変更と檀家寺からの離檀を願い出て、明治元年(1868)、別当寺であった愛染院境内墓地の一部を神葬墓地と定めたものである。埋葬されているのは、明治二年(1869)から明治十八年(1885)の間、神主家、社家、宮司のほか、一般の三島神社氏子崇敬者のうち希望者も含め、三十七柱である。
入口近くの立派な墓石は、矢田部盛治のもの。矢田部盛治は、遠州掛川藩家老橋爪彌一右衛門の第三子に生まれ、長じて三島神社神主矢田部盛正の嗣子となった。嘉永七年(1854)当地を襲った東海大地震により倒壊した三島神社本殿以下の建物を、十年の歳月と巨費を投じて再建し、官幣大社に列格せしめた。明治維新に際して伊吹隊を編成してその盟主となり、明治天皇東幸を警護して人心安定に努めた。また、三島宿を兵火から救った恩人の一人である。明治政府から幾度も招聘を受けたが、神明奉仕を怠らず、明治四年(1871)、四十八歳で世を去った。
(長圓寺)
長圓寺には、世古本陣の門が移築されている。墓地には本陣を代々務めた世古家の墓があり、その中に幕末の当主世古六太夫の墓がある。

長圓寺

本行院直道日壽居士
(世古六太夫の墓)
世古六太夫は、天保九年(1838)、川原ヶ谷村(現・三島市川原ヶ谷)に生まれた。父は栗原嘉右衛門正順。栗原家は甲斐源氏の一族で、甲州山梨郡日川村下栗原に館を持つ城主だったという言い伝えが残り、この旧家で六太夫は少年時代を過ごした。十四歳の時、世古家に入った。世古家は江戸初期より代々三島宿本陣を務める家で、六太夫は本陣主のほかにも三島宿の問屋役などを務めていた。慶応四年(1868)五月、旧幕兵(遊撃隊)約二百余が沼津・霊山寺に陣取った。一方、新政府軍は三島宿明神前に陣をひいた。この時、世古六太夫は矢田部盛治とともに両者の間を調停し、三島宿を戦禍から救った。六太夫は幕府方に通じているとの嫌疑を受け新政府軍に捕えられている。維新後は実業家として三島の通信運輸事業を展開して、この地域における郵便事業の基礎を築いた。また、教育にも力を注ぎ、明治五年(1872)には私立学校開心庠舎を開いた。晩年は沼津牛臥に旅館三島館を建て、各方面の著名人と交遊を深めた。大正四年(1915)七十八歳で死去。