(大正寺)
大正寺 観音堂
JR籠原駅の近くに所在する大正寺観音堂に中村定右衛門が慶応二年(1866)に奉納した額が掲げられている。
中村定右衛門の奉納額
中村定右衛門は新徴組の剣術教授をしていた人で、諱は正行と称した。馬庭念流剣術を武蔵北部一帯に広めた剣術家であった。新徴組に在籍していた文久三年(1863)十二月、庄内藩が新徴組屋敷に「酒井左衛門尉屋敷」と墨書した大杭を建てたところ、これに憤慨した中村定右衛門と水戸藩の鯉淵太郎が、大杭を抜いてしまった。彼らの言い分は、「この屋敷は新徴組が公儀から賜ったものであり、藩侯酒井左衛門尉様に下されたものでない。」というものであった。本件で中村定右衛門がどういう処分を受けたのか不明であるが、大正寺観音堂の額には慶応二年(1866)の日付が入っていることから、ほどなく新徴組を脱退したものと思われる。
「幕末維新埼玉人物列伝」(小高旭之著)によれば、山岡鉄舟撰文の「中村正行碑」が熊谷市新堀の中村家の庭に立てられているというが、いくら付近を探しても見つけられなかった。
大正寺 観音堂
JR籠原駅の近くに所在する大正寺観音堂に中村定右衛門が慶応二年(1866)に奉納した額が掲げられている。
中村定右衛門の奉納額
中村定右衛門は新徴組の剣術教授をしていた人で、諱は正行と称した。馬庭念流剣術を武蔵北部一帯に広めた剣術家であった。新徴組に在籍していた文久三年(1863)十二月、庄内藩が新徴組屋敷に「酒井左衛門尉屋敷」と墨書した大杭を建てたところ、これに憤慨した中村定右衛門と水戸藩の鯉淵太郎が、大杭を抜いてしまった。彼らの言い分は、「この屋敷は新徴組が公儀から賜ったものであり、藩侯酒井左衛門尉様に下されたものでない。」というものであった。本件で中村定右衛門がどういう処分を受けたのか不明であるが、大正寺観音堂の額には慶応二年(1866)の日付が入っていることから、ほどなく新徴組を脱退したものと思われる。
「幕末維新埼玉人物列伝」(小高旭之著)によれば、山岡鉄舟撰文の「中村正行碑」が熊谷市新堀の中村家の庭に立てられているというが、いくら付近を探しても見つけられなかった。
ご連絡ありがとうございます。
できれば、その「中村家」の位置を教えていただけませんでしょうか。あてもなく、付近を走り回りましたが、見つけられませんでした。
有り難うございます。