史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

下郷

2013年06月14日 | 福島県
(大内宿)


大内宿

 大内宿は、今も昔の面影を残す宿場町である。町を貫く道路も舗装されないままで昔の風情を伝え、人気の高い観光地になっている。
 大内宿は江戸初期に会津西街道の宿駅として整備された。参勤交代や旅人の通行、物資の輸送などに利用された。しかし、明治十七年(1884)、日光街道が開通すると、宿駅としての機能を失い、山間に取り残されることになった。
 個人的には当たり前の観光には興味が無く、まっしぐらに正法寺を目指した。カーナビの指示するまま進行していると、大内宿の人混みに突入してしまった。大慌てで向きを変えて撤収したが、観光中の方々には大いに迷惑をかけてしまった。それ以上にとても恥ずかしかった。結局、観光用の駐車場に車を停めて、大内宿を通って改めて正法寺へ向かうことになった。

(正法寺)


正法寺

 大内宿の突き当たり、少し小高くなったところに正法寺は位置する。墓地に笹沼金吾の墓がある。


笹沼金吾墓

 笹沼金吾は御目付役笹沼金兵衛の弟。十石三人扶持。会津藩砲兵隊頭取。慶応四年(1868)八月三十日、大内宿に迫った西軍に対し、会津兵は奇襲をかけたが、薩兵砲兵隊の反撃に遭い後退、大内峠で激戦となった。笹沼金吾は独り大内宿に残留し、水車小屋に潜みゲリラ戦を展開し、壮絶な戦死を遂げた。三十五歳。

(大内ダム)


戦死二十四人墓

 大内ダム沿いの道路を会津若松に向かって走っていると、「戦死二十四人墓」と書いた小さな案内板がある。そこを右折して細い道を数百メートル進んだ林の中に戦死二十四人墓と小出勝之助の墓が並んで置かれている。昭和六十年(1985)、大内ダム建設に伴い当地に移設されたものである。
 慶應四年(1868)九月一日から翌日未明にかけて、日光口守備隊長に任じられた山川大蔵は大内峠に拠って、佐賀藩、宇都宮藩、大田原藩から成る西軍を迎撃した。この戦闘で宇都宮藩大沢冨三郎以下二十四名が戦死した。彼らを供養するものである。


小出勝之助墓

 小出勝之助は、大内での戦闘で戦死した会津藩士。
 二日目の旅はここで日没を迎えた。山端に沈む夕日が美しかった。

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昭和

2013年06月14日 | 福島県
(大芦)


戊辰の役古戦場跡

 慶應四年(1868)八月二十三日というと、会津若松城下に西軍が雪崩れ込んだ、会津藩にとっては忘れ難い日である。その後、金沢藩を主体とした西軍は、野尻郷各村に宿陣し、警備を固めた。これに対し九月二十四日朝、会津藩軍は田島方面から奇襲をかけた。西軍は敗走し、大芦を下中津川方面に退却した。このとき既に若松城は落城していたが、会津藩士はそのことを知らずに戦い続けていた。


野村新平墓

 西軍を追って、会津藩朱雀三番寄合組隊鈴木隊長以下約二十五名がこの付近まで進撃してきたところ、軍を立て直した西軍が逆襲し激戦となった。数の上で不利であった会津藩軍は退散することになったが、この戦闘で野村新平(二十五歳)が戦死した。
 野村新平は、鈴木隊半隊頭。町奉行、二百石。何故だか、墓石は赤い毛糸の帽子を被っていた。


会津藩戦死二人之墓

 田島方面から国道400号を経由して昭和村に入る。奥会津昭和の森というキャンプ場の南端の交差点に会津藩戦死二人墓がある。一人は大芦村矢ノ原で戦死した野村新平。もう一名は角田五三郎である。角田五三郎は、朱雀士中三番小野田隊。九月二十四日、大芦で戦死。二十三歳。


佐藤音之助墓

 佐藤音之助は、朱雀寄合三番隊道案内兼斥候。明治元年(1868)九月二十四日、下中津川で戦死。


小杉半蔵墓

 小杉半蔵の墓は、大山祗神社の上の墓地にある。大山祗神社は、西軍の攻撃により全焼したという。
 小杉半蔵は、金沢藩士。今枝民部家来。明治元年(1868)九月二十四日、大芦にて戦死。四十九歳。


官軍戦死九人之墓

 前掲の会津藩二人墓に出会って、次に官軍戦死九人之墓を見つけるまで四十分以上、付近を走り回った。
 官軍(金沢藩、高崎藩)の大芦での戦死者九人を合葬した墓である。

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南会津

2013年06月14日 | 福島県
(照国寺)


照国寺

 照国寺の山門は、延享二年(1745)に再建されたもので、現存する山門では会津地方最古にして最大のものといわれる。ただし往時は茅葺だったが、現在はトタン製に改装されている。


河原田包彦追悼碑

河原田包彦(かねひこ)は、会津藩御蔵入奉行河原田治部信盛(百六十石)の長男として嘉永六年(1853)に生まれた。戊辰戦争勃発時、包彦はわずか十六歳であったが、旧領主河原田氏の子孫ということで、伊南方面の守備に任命され、父に代わって数百の士卒を率いて国境の守備についた。五月十一日、西軍千二百の大軍が押し寄せて来たがこれを迎撃して軍功があった。戦後、包彦は越後高田に謹慎したが、病魔に侵され、翌明治二年八月日死去。享年十七。墓は上越市の会津墓地にあるが、明治二十七年(1894)、照国寺に追悼碑が建てられた。

(慈恩寺)


慈恩寺


官軍戦死十九人墓

 田島周辺で戦死した東軍(大田原藩、福山藩、広島藩、宇都宮藩)十九人の墓である。墓石の側面、裏面に被葬者の名前が刻まれているが、中には姓名不詳の戦死者も含まれる。

(田島陣屋跡)


田島陣屋跡

 南山御蔵入五万五千石の地は、寛永二十年(1643)幕府領となり、会津藩の預り支配となった。会津藩では田島に陣屋を置いて統治した。陣屋の位置は、江戸時代を通じて二度ほど移動したが、慶應元年(1865)には三度目の変遷があった。

(栗生沢)
 栗生沢の墓地には、木製の墓標で官軍墓が建てられている。葬られているのは当地で戦死した芸州藩山本他人輔。慶應四年(1868)、九月九日、戦死。二十七歳。東京泉岳寺合葬墓にも名前がある。


官軍墓
山本他人輔墓

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