(大内宿)
大内宿
大内宿は、今も昔の面影を残す宿場町である。町を貫く道路も舗装されないままで昔の風情を伝え、人気の高い観光地になっている。
大内宿は江戸初期に会津西街道の宿駅として整備された。参勤交代や旅人の通行、物資の輸送などに利用された。しかし、明治十七年(1884)、日光街道が開通すると、宿駅としての機能を失い、山間に取り残されることになった。
個人的には当たり前の観光には興味が無く、まっしぐらに正法寺を目指した。カーナビの指示するまま進行していると、大内宿の人混みに突入してしまった。大慌てで向きを変えて撤収したが、観光中の方々には大いに迷惑をかけてしまった。それ以上にとても恥ずかしかった。結局、観光用の駐車場に車を停めて、大内宿を通って改めて正法寺へ向かうことになった。
(正法寺)
正法寺
大内宿の突き当たり、少し小高くなったところに正法寺は位置する。墓地に笹沼金吾の墓がある。
笹沼金吾墓
笹沼金吾は御目付役笹沼金兵衛の弟。十石三人扶持。会津藩砲兵隊頭取。慶応四年(1868)八月三十日、大内宿に迫った西軍に対し、会津兵は奇襲をかけたが、薩兵砲兵隊の反撃に遭い後退、大内峠で激戦となった。笹沼金吾は独り大内宿に残留し、水車小屋に潜みゲリラ戦を展開し、壮絶な戦死を遂げた。三十五歳。
(大内ダム)
戦死二十四人墓
大内ダム沿いの道路を会津若松に向かって走っていると、「戦死二十四人墓」と書いた小さな案内板がある。そこを右折して細い道を数百メートル進んだ林の中に戦死二十四人墓と小出勝之助の墓が並んで置かれている。昭和六十年(1985)、大内ダム建設に伴い当地に移設されたものである。
慶應四年(1868)九月一日から翌日未明にかけて、日光口守備隊長に任じられた山川大蔵は大内峠に拠って、佐賀藩、宇都宮藩、大田原藩から成る西軍を迎撃した。この戦闘で宇都宮藩大沢冨三郎以下二十四名が戦死した。彼らを供養するものである。
小出勝之助墓
小出勝之助は、大内での戦闘で戦死した会津藩士。
二日目の旅はここで日没を迎えた。山端に沈む夕日が美しかった。
大内宿
大内宿は、今も昔の面影を残す宿場町である。町を貫く道路も舗装されないままで昔の風情を伝え、人気の高い観光地になっている。
大内宿は江戸初期に会津西街道の宿駅として整備された。参勤交代や旅人の通行、物資の輸送などに利用された。しかし、明治十七年(1884)、日光街道が開通すると、宿駅としての機能を失い、山間に取り残されることになった。
個人的には当たり前の観光には興味が無く、まっしぐらに正法寺を目指した。カーナビの指示するまま進行していると、大内宿の人混みに突入してしまった。大慌てで向きを変えて撤収したが、観光中の方々には大いに迷惑をかけてしまった。それ以上にとても恥ずかしかった。結局、観光用の駐車場に車を停めて、大内宿を通って改めて正法寺へ向かうことになった。
(正法寺)
正法寺
大内宿の突き当たり、少し小高くなったところに正法寺は位置する。墓地に笹沼金吾の墓がある。
笹沼金吾墓
笹沼金吾は御目付役笹沼金兵衛の弟。十石三人扶持。会津藩砲兵隊頭取。慶応四年(1868)八月三十日、大内宿に迫った西軍に対し、会津兵は奇襲をかけたが、薩兵砲兵隊の反撃に遭い後退、大内峠で激戦となった。笹沼金吾は独り大内宿に残留し、水車小屋に潜みゲリラ戦を展開し、壮絶な戦死を遂げた。三十五歳。
(大内ダム)
戦死二十四人墓
大内ダム沿いの道路を会津若松に向かって走っていると、「戦死二十四人墓」と書いた小さな案内板がある。そこを右折して細い道を数百メートル進んだ林の中に戦死二十四人墓と小出勝之助の墓が並んで置かれている。昭和六十年(1985)、大内ダム建設に伴い当地に移設されたものである。
慶應四年(1868)九月一日から翌日未明にかけて、日光口守備隊長に任じられた山川大蔵は大内峠に拠って、佐賀藩、宇都宮藩、大田原藩から成る西軍を迎撃した。この戦闘で宇都宮藩大沢冨三郎以下二十四名が戦死した。彼らを供養するものである。
小出勝之助墓
小出勝之助は、大内での戦闘で戦死した会津藩士。
二日目の旅はここで日没を迎えた。山端に沈む夕日が美しかった。