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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

会津坂下 Ⅰ

2013年06月02日 | 福島県
(束松事件の地)


束松事件の地

 束松事件とは、元越前藩士久保村文四郎が、会津藩士高津仲三郎、伴百悦らによって殺害された事件である。久保村は若松藩の役人となり、会津藩を誹謗中傷したことから恨みを買っていた。任を終えて帰郷する途中、この地で殺害された。首謀者の一人である伴百悦は会津戦争後、野晒しとなっていた戦死者の遺体の埋葬に尽力したことで知られる。束松事件の後、越後方面に逃亡した。大安寺慶雲庵に潜伏しているところを捕吏に囲まれ、自刃して果てた。高津仲三郎は、思案橋事件に連座して刑死した。伴百悦も高津仲三郎も会津藩きっての剣客であり、高潔の士であったという。

(気多宮墓地)


松坂平左衛門墓

 気多宮墓地に会津藩士松坂平左衛門の墓がある。松坂平左衛門は、百五十石。玄武士中伊予田隊。慶應四年(1868)、九月五日、若松気多宮にて戦死。六十六歳。


弾痕ののこる道標

 越後街道の道標(「是より右越後路」「是より左柳津路」と刻まれている)に戊辰戦争時のものと推定される弾痕が残る。

(定林寺)


定林寺


真島儀右衛門墓

 定林寺に真島儀右衛門の墓がある。墓には「歓喜院仁譽道義清居士」という戒名が刻まれる。真島儀右衛門は、戊辰戦争で傷を負い、治療していたが、明治元年(1868)十二月二日、死去。没年、所属隊、負傷地等は不詳。「幕末維新全殉難者名鑑」にも記載無し。

(法界寺)


法界寺

 法界寺には、中野竹子の墓がある。寺には中野竹子の数点の遺墨や薙刀も伝わるが、私が法界寺を訪ねたのは午前七時であり、さすがにこの時間に寺の人を呼ぶのは気が引けた。


慰霊 戊辰役殉難碑


中野竹子(小竹女史之)墓

 中央の小さな石が、中野竹子の墓。小竹女史之墓と刻まれている。左手の三角形の石碑は中野竹子辞世碑である。右手の石碑は、「嗚呼壮烈」と題した顕彰碑である。さらにその足もとには、中野竹子の父、中野平内の歌碑がある。ただし、流麗な草書で書かれており、読みとれず。

 中野竹子辞世
 武士の猛き心に比ぶれば
 数にも入らぬ我が身ながらも


烈婦中野竹子女史之英霊碑

(貴徳寺)


貴徳寺


江川銀平墓

 貴徳寺は、赤穂浪士で勇名な堀部安兵衛の生誕地である。門前に「堀部安兵衛誕生之地」碑が建てられている。
 墓地には江川銀平の墓がある。江川銀平は、慶應四年(1868)八月二十三日、滝沢峠にて戦死。


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喜多方 Ⅲ

2013年06月02日 | 福島県
(中里墓地)


官軍松代藩戦死五人墓

 明治元年(1868)九月十一日、熊倉にて戦死した松代藩士五名の合葬墓である。被葬者は不詳。

(光明寺)


光明寺


官軍松代藩士之墓

 光明寺には戦死した松代藩士十一人の墓がある。浅井徳三郎、五明栄次郎、藤井芳郎、松田栄太郎、丸山清蔵、村松栄次郎、山本庫之助、伊藤又三郎、三輪六十郎、牧野功一郎、奥村良之助、大半が熊倉周辺での戦死者である。

(杉の下墓地)


杉の下墓地


義士中根米七墓

 今回、どうしても訪ねたかったのが、この杉の下墓地であった。ここに立ったとき、ちょうど墓地中央にある桜が満開であった。墓には桜がよく似合う。桜の樹の根本に中根米七と佐藤銀十郎の墓がある。

 中根米七の墓には「義士」と刻まれている。中根米七の最期については、綱淵謙錠の小説『苔』に詳しい。中根米七は、明治九年(1876)の思案橋事件の実行犯の一人。辛うじて事件現場から逃走し、同志飯川小膳、金田百助を頼って会津まで行き着いた。中根米七は、明治十一年(1878)八月二十三日、ここ杉の下墓地で自刃した。中根米七の最期は定かではないが、綱渕謙錠氏は諸説を紹介しながら、小説家としての自説を述べている。
 墓の裏には辞世の歌が刻まれている。

 身をくだき骨を野山に曝すとも
 日本(やまと)心の色変わらめや


佐藤銀十郎墓

 小栗上野介従者佐藤銀十郎の墓である。佐藤銀十郎は、倉渕村権田出身の農民。若くして小栗家江戸屋敷に召され、フランス式の陸軍歩兵調練を受けた。小栗上野介が斬首されると、道子夫人を護衛して、信州、越後を経て会津若松城にたどり着いた。その後、会津藩朱雀四番士隊に属して各地を転戦した。明治元年(1868)、九月十一日、熊倉において戦死。

(中眼寺)


中眼寺


浅井信次郎先生之碑

 慶應四年(1868)八月二十三日、西郷頼母邸で自刃した二十一人の中に浅井信次郎の妻子がいた。
 浅井信次郎は戦後中眼寺で寺子屋を開いたといい、境内に記念碑が建てられることになった。明治三十九年(1906)七十一歳にて世を去った。

(阿弥陀寺)


阿弥陀寺


明治戊辰戦死供養塔

 明治二十六年(1893)、阿弥陀寺(塩泉山)三十五世説誉法詮代および塩川町中町赤城源右衛門為忠によって建立された供養塔である。長岡藩四名、桑名藩一名、水戸藩一名、兵庫藩一名、会津藩十名、計十七名が合祀されている。


研堂星孚之墓

 星研堂は、会津藩の書家。寛政五年(1793)の生まれ。藩の右筆と藩校日新館教授を兼ねた。明治二年(1869)七十七歳で死去。


廣安院濟譽民山寶生居士(三本住庵墓)

 三本住庵は塩川町の町医者である。飯盛山で自刃して瀕死の重傷を負った飯沼貞吉を介抱したことで知られる。明治二十四年(1891)没。

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喜多方 Ⅱ

2013年06月02日 | 福島県
(長福寺)


長福寺

 戊辰戦争後、会津藩士は東京と越後高田に謹慎させられた。その家族の多くは、城下の混乱を避けて地方で避難生活を送った。佐川官兵衛の家族も長福寺に移り住んだ。


佐川官兵衛之墓(右) 佐川官兵衛妻墓

 戊辰戦争で勇名を馳せた佐川官兵衛は、斗南藩廃藩後、妻勝の没した長福寺に閑居したが、明治十年(1877)、西南戦争が起ると旧会津藩士を率いて九州阿蘇山麓に出撃し、そこで壮烈な戦死を遂げた。佐川官兵衛の本墓は、阿蘇長陽村にあるが、平成十二年(2000)そこから土を移して妻の墓の傍らに新たな墓が建てられ、百三十数年の時を経て、夫婦共に眠ることになった。


瓜生岩子刀自裁縫教授所跡碑

 瓜生岩子は、小田村の幼学校跡が手狭になったため、明治十二年(1879)、長福寺を借り受け、明治二十年(1887)、福島を出るまでの八年間、貧困者を住まわせ仕事を世話するとともに、裁縫教授所を開いて近隣の農家の娘に裁縫や礼儀を教育した。

(金刀比羅神社)


金刀比羅神社


官軍松代藩五人墓

 金刀比羅神社の裏手に小さな墓地がある。つがいの雉が住みついている。この墓地に明治元年(1868)九月十一日、戦死した松代藩五名の墓がある。

(満福寺)


満福寺

 満福寺の日向家代々の墓に日向内記が葬られているという。
 日向内記は、白虎士中二番隊頭。慶應四年(1868)八月二十二日、白虎士中二番隊を率いて戸ノ口原に出陣したが、食糧調達のため隊を離れた。直後、局面が急変し、飯盛山における白虎隊自刃の悲劇が起きた。日向内記は会津若松城開城までその事実を知らなかったという。戦後、斗南に移住したが、明治四年(1871)会津に戻った。明治十八年(1885)没。


日向家代々之墓

(北町公園)


北町公園

 喜多方市北町公園は、瓜生岩子生誕の地である。公園から道路を隔てた東南の交差点の角に「瓜生岩子刀自生誕之地碑」が建てられている。


瓜生岩子刀自生誕之地碑


佐牟乃神社


瓜生岩子像

 公園に隣接する佐牟乃神社には瓜生岩子の銅像がある。

 喜多方市街を通過したのがちょうど昼食時であった。さすがに本場だけあって、喜多方ラーメンの看板が目につく。せっかくだからラーメンでも食べていこうかと心が揺らいだが、いやいやそんな時間はない、旅の目的はシンプルであるべきであり、美味しいものを楽しむという目的は今回の旅にはなかったはずである、と思い直し、この日も昼食抜きであった。結果的にはゆっくり食事をしている余裕はなく、喜多方ラーメンを見送ったのは正解であった。

(安勝寺)


安勝寺

 安勝寺は、土蔵を改装して本堂にしたというちょっと珍しい寺である。明治十三年(1880)の大火で本堂を焼失した後、外火から守るために、焼け残った土蔵を本堂として再建したものである。


明治戊辰戦死標

 戊辰戦争戦死者と磐梯山噴火犠牲者の慰霊碑。磐梯山は有史以来、幾度か噴火しているが、直近では明治二十一年(1888)に噴火し、四百七十七名もの犠牲者を出したと記録されている。


長岡藩戦死墓

 長岡藩の戦死者合葬墓である。


上遠野(かどの)六郎墓

 墓地を歩いていて上遠野六郎の墓を偶然発見した。上遠野六郎は、朱雀士中四番町野隊。明治元年(1868)九月十一日、会津小荒井濁川にて戦死。四十一歳。

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喜多方 Ⅰ

2013年06月02日 | 福島県
(大谷古墳公園)


大谷古墳公園

 大谷古墳公園と名付けられているが、果たして古墳かどうかは判然としない。よく見ると古墳の前に小さく「伝」という文字があとから貼られた形跡がある。しかし大谷の歴史は古く、弥生時代後期にはかなり栄えていたことが、周辺から出土した土器等から伺われるらしい。墓地には、戊辰戦争時、会津藩に味方して陣ヶ峯で戦死した長岡藩士四名が葬られた小さな墓石がある。


長岡藩四人墓

(泉福寺)


泉福寺

 泉福寺には、西郷勇左衛門と戊辰戦争で自刃した一族の墓がある。


西郷近潔(勇左衛門)夫妻之墓

 西郷勇左衛門は、西郷頼母の支族。会津藩若年寄。戊辰戦争では一族が自決した。明治二十九年(1896)、八十五歳にて死去。
 勇左衛門の墓は、門弟によって建立されたが、長年の風雪により損傷が激しかったため、明治百十年目の昭和五十三年(1978)、孫の高畑ステによって改めて建てられたのがこの墓である。


西郷刑部一家之墓

 西郷刑部は、西郷勇左衛門近潔の長男。朱雀二番寄合隊中隊頭として越後方面にて勇戦。明治元年(1868)九月十五日、一ノ堰にて戦死。三十歳。


芥川斗機時中之墓

 芥川斗機は勇左衛門の二男。明治十九年(1886)、四十歳にて死去。

(西海枝墓地)


舘林藩戦死之墓

 当地で戦死した舘林藩士の墓。被葬者は不明である。

(一竿墓地)


塚越富五郎(小栗上野介従者)終焉の地


塚越富五郎慰霊碑

 小栗上野介は、殺害される直前、夫人と娘、母を倉渕権田村から脱出させ、会津に避難させた。夫人らは権田村の村人に護られて、無事会津若松に入ることができた。村人はそのまま会津における戦争に加わり、うち塚越富五郎と佐藤銀十郎の二人の若者は戦死している。
 一竿は塚越富太郎の終焉の地であり、慰霊碑が置かれている。富太郎は朱雀四番士隊町野隊附属誠志隊に所属して各地を転戦した。慶應四年(1868)九月一日、高郷にて戦死。二十三歳であった。

(示現寺)


示現寺総門

 示現寺の総門は、江戸時代の初期に建立されたと推定される四脚門である。総門をくぐると、まだ雪の残る境内に至る。


瓜生岩子之墓

 示現寺には瓜生岩子の墓や坐像、加波山事件殉難者の顕彰墓碑などがある。


瓜生岩子之像

 瓜生岩子は、文政十二年(1829)に会津小田付村の油商の家に生まれた。比較的恵まれた家庭環境だったと言われるが、九歳にて父と死別し、さらに家も焼失したため母の実家に戻って、母方の瓜生姓を名乗るようになった。結婚して四人の子供をもうけたが、三十四歳のとき夫が他界した。岩子は裁縫や幼学校を起こし、特に戊辰戦争では敵味方なく戦傷者を介抱した。維新後、上京して博愛慈善の施策を広めた。この功をもって、女性では初めて藍綬褒章を賜った。明治三十年(1897)永眠。

(清流寺不動堂)
 今回の史跡旅行では、竹様のHP戊辰掃苔録を参考にさせていただいた。いつもながら竹様の取材力には感心する。清流寺不動堂も、当方のカーナビでは道が表示されないような奥地に所在しており、とてもでないが竹様のHPの助け無しに行き着くことは困難であった。


清流寺不動堂


飯沼貞吉ゆかりの地

 清流寺不動堂には「飯沼貞吉ゆかりの地」という石碑が建てられている。蘇生した飯沼貞吉は、この地に匿われ療養した。

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会津美里 Ⅱ

2013年06月02日 | 福島県
(新町西墓地)


戦死八人墓

 佐藤政治、小池弥久、小川勇之助、山田重三、湯田忠吾、吉田善七、目黒常次郎、深谷作三郎という八人の戒名を刻む合葬墓である。いずれもこの地域出身である。


田母神金吾墓

 田母神金吾は、百五十石。朱雀士中四番隊小隊頭。慶應四年(1868)九月十一日、会津熊倉にて戦死。四十七歳。


明治元戊辰年九月二日
吉田善七義忠墓

 吉田善七は、六石二人扶持、上荒井同心。工兵渡部貞之助隊。慶應四年(1868)、九月一日、会津大内峠にて戦死。三十七歳。


高橋家之墓

 高橋家の墓標に「高橋富太郎 白虎隊士行年十七才 明治元年九月二十九日鶴ヶ城内にて戦死 飯盛山に祀られる」と記載されている。「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、高橋富太郎は慶應四年(1868)八月二十三日若松城不明門にて傷を負い、九月二十九日に城内で死亡したという。

(会津薬師寺)


会津薬師寺

 会津薬師寺には本田勇の墓がある。


本田勇墓

 本田勇は、青竜足軽一番杉田隊付。慶應四年(1868)、白河稲荷前で戦死。四十三歳。

(白鳳山公園)


白鳳山公園からの眺望

 白鳳山は、別名向羽黒山と呼ばれ、中世葦名氏によって山城が築かれた。今も本丸跡や二ノ丸跡が散在している。山頂からは遠く会津若松市街や飯豊山を望むことができる。


明治戊辰役萱野隊記念碑

 白鳳山公園山頂には、萱野隊に関する石碑が三基建てられている。
 萱野隊は、一瀬要人の傘下、萱野右兵衛率いる一隊で、主に越後戦線で戦った。旧本郷町は、三百年以上の歴史を持つ本郷焼の町として知られている。戊辰戦争では本郷の陶工からも志願者を募った。彼らは萱野隊の寄合組に編入された。戊辰戦争を通じて六名の戦死者を出した。


萱野隊長之碑

 萱野右兵衛は、戦後斗南に移住したが、かつての部下の招きで本郷に移り住んだ。明治五年(1873)三十三歳で死去。


死節碑

 死節碑は、戦死した六名と生還した三十名の名前を刻んだものである。題字は松平容大、撰文は南摩鋼紀。

(関山)


戦死四十人墓

 関山は、日光・田島の交通の要衝にある宿場であった。慶應四年(1868)九月二日から三日にかけて激しい戦闘となり、東軍では野村悌之助、渥美守太郎以下四十名が戦死した。また関山の民家は、敵の進撃を阻止するために全戸兵火にかけられた。

(栃沢)


会津戦役七士之墓

 大内峠、栃沢で戦死した土佐藩士七名を葬ったもの。被葬者不明。


源右衛門墓

 会津戦役七士の墓から少し関山方面に進んだ墓地の中に宇都宮藩立伏村(現・宇都宮市)の軍夫源右衛門の墓がある。源右衛門は慶應四年(1868)、九月二日、関山にて戦死。四十五歳。

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会津美里 Ⅰ

2013年06月02日 | 福島県
(法用寺)
 今年のGWは、会津若松に二泊、仙台に二泊、計四泊五日で福島県、宮城県の史跡を回ることを随分以前から計画していた。ところが、直前になって嫁さんから「土曜日に息子の学校の保護者会に行ってほしい」と頼まれた。断る正当な理由もなく、私は半べそをかきながら、保護者会に参加することになった。その代り、保護者会が終了するとその足で会津若松に向かった。
 会津は四年前の夏以来である。今回は、会津坂下、柳津、西会津、金山、只見、南会津、昭和、下郷、会津美里そして喜多方を巡る計画を立てた。会津若松に二泊はしたが、市内の史跡を回っている時間は取れなかった。保護者会のおかげでかなりハードな日々となった。今年は大河ドラマ「八重の桜」のおかげで、会津若松市内は例年以上に観光客を集めていたはずだが、私は観光とは無縁の場所ばかりを巡ることになった。それでも十分満足のいく旅であった。


法用寺

会津美里町雀林三番山下の法用寺は、会津戦争の際、水戸諸生隊が一時滞陣した寺である。周囲には見渡す限り、田畑が広がる。恐らくこの風景は、百五十年前の幕末からほとんど変っていないだろう。
 法用寺には、会津地方に現存している唯一の三重塔がある。竣工は、安永九年(1780)というから、今から二百三十年以上も前になる。大変美しく、見事な木造建築である。

(招魂碑)


招魂場

 外川原の民家の前に招魂場と刻まれた石碑が建てられている。側面には「慶應四戊辰九月」という年月とこの石碑を建立した四名の世話人の名前が刻まれている。

(伊佐須美神社)


伊佐須美神社

 伊佐須美神社は、「奥州二の宮」と称する高い格式を誇る古社である。葦名氏から松平氏に至る歴代領主から厚い信仰を集めた。神社境内から道路を挟んだ西側に墓地があり、その中に武井柯亭、野田進という二人の会津藩士の墓がある。


武井柯亭翁之墓

 武井柯亭は会津藩士。文政六年(1823)生まれ。嘉永六年(1853)房州警備、安政四年(1857)から江戸勤番ののち、文久二年(1862)会津に戻った。同年、藩主松平容保が京都守護職となると、京都に赴いて桂小五郎ら長州藩士や諸藩の尊攘派と交わった。戊辰戦争では進撃隊頭として新政府軍と戦い、のち主家再興につとめた。維新後は新政府からの招きがあったが、応じなかった。星研堂に書を学び、詩にも長じたという。明治二十八年(1895)死去。


従八位野田進翁之墓

 野田進は(1843)生まれ。会津藩の京都守護職就任とともに上京した。鳥羽伏見の戦争が勃発すると、一時衝鋒隊の古屋作佐衛門と行動をともにし、梁田における戦闘にも参加した。その後、会津藩に戻って、一般徴募兵から成る会義隊の隊長を命じられた。籠城戦となっても城外で戦い奮戦を続けた。維新後は小学校の訓導や警察などに勤務した後、伊佐須美神社の主典や禰宜を務めた。没年不詳。

(安楽寺)


安楽寺

 安楽寺には、会津藩士西郷栄之進の墓がある。


西郷栄之進信光

 「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、西郷栄之進は会津藩士中隊。戦死した日付、場所は不詳。

(観音寺)


観音寺

 観音寺から少し離れた墓地入口付近に会津藩笹沼泰造の小さな墓石がある。


笹沼泰造墓

 笹沼泰造は、金兵衛叔父。慶應四年(1868)、八月二十三日、若松大町通りで傷。九月、佐布川にて死去。六十六歳。

(本郷墓地)


武田真墓(左) 新妻豊記墓(右)

 本郷墓地には、武田真と新妻豊記という二人の会津藩士の墓がある。新妻の墓は、表面が磨滅して全く読みとれない。武田の墓は縦に割れているが、「光含院輝譽忠善居士」という戒名が読みとれる。
 新妻豊記は、朱雀士中一番小森隊。慶應四年(1868)、五月一日、磐城白河にて戦死。
 武田真の方は、「幕末維新全殉難者名鑑」に記載無し。

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「西郷隆盛と明治維新」 坂野潤治著 講談社現代新書

2013年06月01日 | 書評
上海出張のために空港に向かう途中、この本を書店で手に入れて、往復の機内で読み通した。
「はじめに」で著者が西郷隆盛のことを定義しているが、いきなりそこに違和感を覚えた。
――― 西郷隆盛といえば今日の読者がまず思い出すのは「征韓論」のことであろう。
さらに、「軍部独裁と侵略戦争の元祖」などとレッテルを貼ろうとするが、多少でも西郷隆盛の生涯を勉強した者であれば、今やそのような先入観を持った人は少ないのではないか。歴史の論文の特徴として、通説があり、それを覆すような論説があるのが通常であるが、そもそもその提示される通説が違和感のあるものであると、その先を読もうという意欲が削がれてしまう。
もう一つ違和感があったのが、この部分。
――― 西郷隆盛に傾倒する本書の筆者にとっては、西郷流刑の張本人である島津久光の幕政改革に興奮している勝海舟という人物も、あまり好きになれない。(第三章「西郷の復権」P.77)
小説家の随想ならともかく学者先生の書く文章で、「好き嫌い」で論じることが許されるのだろうか。「好き」な人物がとった行動は常に正しく、「嫌い」な人物の行為は批判的に見ると言う態度は、公正とは言えないように思う。
本書によれば、西郷隆盛は慶應三年(1867)の段階で国民会議の必要性を熱心に説いていた。また、元治元年(1864)の時点で二院制の議会の導入を悟ったとしているが、同じ議会制といっても現代の議会をイメージしては間違ってしまう。ここは注意して読む必要があろう。
西南戦争勃発の場面について、著者は
――― 一月二十九日夜半、桐野ら急進派が陸軍砲兵属廠を襲い、残っていた小銃や弾薬を押収したのである。
とするが、火薬庫襲撃事件の背後に桐野利秋がいたという指摘は初めて聞いた。根拠を知りたいと思った。

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「明治留守政府」 笠松英彦著 慶應義塾大学出版会

2013年06月01日 | 書評
「明治留守政府」とは、聞きなれない言葉かもしれない。明治四年(1871)十一月、横浜を発った岩倉使節団の海外派出中に留守を任された政府のことである。留守政府が政務を担ったのは、明治六年(1873)までの約二年足らずであった。
岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら岩倉使節団は、日本を離れるにあたって留守政府に対して「十二箇条の約定」と言われる「約束事」を突き付けた。留守政府が勝手なことをしないように釘をさしたものとする見方が一般的であった(私もそう思っていました)。例えばその第六条では「内地の事務は、大使帰国の家、大いに改正する目的なれば、その間なるたけ新規の改正を要すべからず。万一、やむを得ずして改正することあらば、派出の大使に照会をなすべし」と、留守政府を規制している。
しかし、本書によれば「留守政府の安定化を図り、板垣ら武断派の動きを牽制し三条を頂く、大隈、井上ら留守政府派が企画して大久保ら遣外使節派の了解を取り付けたもの」とする。新鮮であるが、説得力のある主張である。
それにしても、使節団の派遣が決まってからの大久保の奔走には驚く。根回しや説得工作のために、有力者の間を走り回る姿は、まさに現代の政治家を彷彿とさせる。逆にこの時期、西郷隆盛はほとんどこのような暗躍を見せない。恐らく明治維新を境に志士から政治家に転換を遂げた大久保と、変貌を遂げられなかった西郷との路線の違いがここに見られる。

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