史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

上越 Ⅰ

2011年07月16日 | 新潟県
(前島記念館)
今回は、中越から下越地方を中心に巡る計画であった。諸事情により佐渡島渡航を諦めたため、最終日に時間ができた。事前に十分調査をしていなかったが、上越、柏崎方面に足を伸ばすことにした。しかし、やはり東京に戻ってから「取りこぼし」がたくさんあったことに気が付いた。上越方面は十分調査の上、再訪することとしたい。


前島記念館

上越市池部の前島密生家跡には、前島密の遺品遺稿を保存する記念館が建てられている。前島密は幼名を上野房五郎といい、慶応二年(1866)幕臣前島家の養子となって以来前島姓を名乗った。


前島密銅像


男爵前島密君生誕之處碑

前島密生誕地記念碑は、大正十一年(1926)の建立。

(高田公園)


高田城 三重櫓

高田城は、慶長十九年(1614)、徳川家康の六男松平忠輝が築城した大規模な城郭であった。天守閣は持たず、本丸に櫓や矢倉台、茶屋台などを設け、南西隅の三重櫓を御三階と呼んでシンポルとしていた。高田城は、幾度も火災の被害を受け、その都度規模を縮小してきたが、明治三年(1870)の火災を最後に再度築城されることはなかった。
高田城主は、八家十八代に及んだが、幕末は譜代の名門榊原家が城主であった。戊辰戦争では早々に新政府への恭順を表明して、各地を転戦したが、藩内の佐幕派は、これを是とせず、神木隊(“神木”は「榊」の字を分解したもの)を結成して同盟軍の一翼を担った。

(榊神社)


榊神社

榊神社は、藩祖榊原康政を祭神として明治九年(1876)に建立された。その後、三代忠次、十一代政令(まさのり)、十四代政敬を合祀した。


旧高田藩和親会 財団法人認可百周年記念碑

十四代藩主榊原政敬の肖像が石碑にレリーフとして飾られている。
榊原政敬は、文久元年(1861)に家督を継いだ。文久三年(1863)および元治元年(1864)の将軍家茂の上洛に従って京都に上った。慶応二年(1866)の長州征伐には先鋒として従軍。それまで高田藩は有力な佐幕派であったが、慶応四年(1868)正月、藩士川上直本の言を容れて勤王の態度を決した。以後、新政府軍に協力して下越、会津に出兵した。明治二年(1869)版籍奉還により高田藩知事。昭和二年(1927)八十三歳で死去。


明治天皇高田行在所碑

(勿持寺)


勿持寺

戊辰戦争の終結後、高田藩は会津藩の降伏人、千七百四十二名を預かった。その中に元新選組斎藤一もいた。斎藤一が謹慎生活を送ったといわれる勿持寺は、廃寺になったようである。門柱だけが寂し気に残されている。

(東本願寺高田別院)


東本願寺高田別院

広い境内を有する東本願寺高田別院も斎藤一謹慎の地である。

この五日間、菓子パンとコンビニのおにぎりとカップ麺だけで過ごした。これは相当な減量になったはずである。帰宅して真っ先に体重計に向かった。ところが、体重はほとんど変わりが無かった。一体何が起きたのだろうか。何だか損した気分になった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 柏崎 Ⅰ | トップ | 三田 Ⅰ »

コメントを投稿

新潟県」カテゴリの最新記事