(前島記念館)
今回は、中越から下越地方を中心に巡る計画であった。諸事情により佐渡島渡航を諦めたため、最終日に時間ができた。事前に十分調査をしていなかったが、上越、柏崎方面に足を伸ばすことにした。しかし、やはり東京に戻ってから「取りこぼし」がたくさんあったことに気が付いた。上越方面は十分調査の上、再訪することとしたい。
前島記念館
上越市池部の前島密生家跡には、前島密の遺品遺稿を保存する記念館が建てられている。前島密は幼名を上野房五郎といい、慶応二年(1866)幕臣前島家の養子となって以来前島姓を名乗った。
前島密銅像
男爵前島密君生誕之處碑
前島密生誕地記念碑は、大正十一年(1926)の建立。
(高田公園)
高田城 三重櫓
高田城は、慶長十九年(1614)、徳川家康の六男松平忠輝が築城した大規模な城郭であった。天守閣は持たず、本丸に櫓や矢倉台、茶屋台などを設け、南西隅の三重櫓を御三階と呼んでシンポルとしていた。高田城は、幾度も火災の被害を受け、その都度規模を縮小してきたが、明治三年(1870)の火災を最後に再度築城されることはなかった。
高田城主は、八家十八代に及んだが、幕末は譜代の名門榊原家が城主であった。戊辰戦争では早々に新政府への恭順を表明して、各地を転戦したが、藩内の佐幕派は、これを是とせず、神木隊(“神木”は「榊」の字を分解したもの)を結成して同盟軍の一翼を担った。
(榊神社)
榊神社
榊神社は、藩祖榊原康政を祭神として明治九年(1876)に建立された。その後、三代忠次、十一代政令(まさのり)、十四代政敬を合祀した。
旧高田藩和親会 財団法人認可百周年記念碑
十四代藩主榊原政敬の肖像が石碑にレリーフとして飾られている。
榊原政敬は、文久元年(1861)に家督を継いだ。文久三年(1863)および元治元年(1864)の将軍家茂の上洛に従って京都に上った。慶応二年(1866)の長州征伐には先鋒として従軍。それまで高田藩は有力な佐幕派であったが、慶応四年(1868)正月、藩士川上直本の言を容れて勤王の態度を決した。以後、新政府軍に協力して下越、会津に出兵した。明治二年(1869)版籍奉還により高田藩知事。昭和二年(1927)八十三歳で死去。
明治天皇高田行在所碑
(勿持寺)
勿持寺
戊辰戦争の終結後、高田藩は会津藩の降伏人、千七百四十二名を預かった。その中に元新選組斎藤一もいた。斎藤一が謹慎生活を送ったといわれる勿持寺は、廃寺になったようである。門柱だけが寂し気に残されている。
(東本願寺高田別院)
東本願寺高田別院
広い境内を有する東本願寺高田別院も斎藤一謹慎の地である。
この五日間、菓子パンとコンビニのおにぎりとカップ麺だけで過ごした。これは相当な減量になったはずである。帰宅して真っ先に体重計に向かった。ところが、体重はほとんど変わりが無かった。一体何が起きたのだろうか。何だか損した気分になった。
今回は、中越から下越地方を中心に巡る計画であった。諸事情により佐渡島渡航を諦めたため、最終日に時間ができた。事前に十分調査をしていなかったが、上越、柏崎方面に足を伸ばすことにした。しかし、やはり東京に戻ってから「取りこぼし」がたくさんあったことに気が付いた。上越方面は十分調査の上、再訪することとしたい。
前島記念館
上越市池部の前島密生家跡には、前島密の遺品遺稿を保存する記念館が建てられている。前島密は幼名を上野房五郎といい、慶応二年(1866)幕臣前島家の養子となって以来前島姓を名乗った。
前島密銅像
男爵前島密君生誕之處碑
前島密生誕地記念碑は、大正十一年(1926)の建立。
(高田公園)
高田城 三重櫓
高田城は、慶長十九年(1614)、徳川家康の六男松平忠輝が築城した大規模な城郭であった。天守閣は持たず、本丸に櫓や矢倉台、茶屋台などを設け、南西隅の三重櫓を御三階と呼んでシンポルとしていた。高田城は、幾度も火災の被害を受け、その都度規模を縮小してきたが、明治三年(1870)の火災を最後に再度築城されることはなかった。
高田城主は、八家十八代に及んだが、幕末は譜代の名門榊原家が城主であった。戊辰戦争では早々に新政府への恭順を表明して、各地を転戦したが、藩内の佐幕派は、これを是とせず、神木隊(“神木”は「榊」の字を分解したもの)を結成して同盟軍の一翼を担った。
(榊神社)
榊神社
榊神社は、藩祖榊原康政を祭神として明治九年(1876)に建立された。その後、三代忠次、十一代政令(まさのり)、十四代政敬を合祀した。
旧高田藩和親会 財団法人認可百周年記念碑
十四代藩主榊原政敬の肖像が石碑にレリーフとして飾られている。
榊原政敬は、文久元年(1861)に家督を継いだ。文久三年(1863)および元治元年(1864)の将軍家茂の上洛に従って京都に上った。慶応二年(1866)の長州征伐には先鋒として従軍。それまで高田藩は有力な佐幕派であったが、慶応四年(1868)正月、藩士川上直本の言を容れて勤王の態度を決した。以後、新政府軍に協力して下越、会津に出兵した。明治二年(1869)版籍奉還により高田藩知事。昭和二年(1927)八十三歳で死去。
明治天皇高田行在所碑
(勿持寺)
勿持寺
戊辰戦争の終結後、高田藩は会津藩の降伏人、千七百四十二名を預かった。その中に元新選組斎藤一もいた。斎藤一が謹慎生活を送ったといわれる勿持寺は、廃寺になったようである。門柱だけが寂し気に残されている。
(東本願寺高田別院)
東本願寺高田別院
広い境内を有する東本願寺高田別院も斎藤一謹慎の地である。
この五日間、菓子パンとコンビニのおにぎりとカップ麺だけで過ごした。これは相当な減量になったはずである。帰宅して真っ先に体重計に向かった。ところが、体重はほとんど変わりが無かった。一体何が起きたのだろうか。何だか損した気分になった。
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