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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

三戸

2010年09月03日 | 青森県
(三戸大神宮)


三戸大神宮

 二日目は、小牛田駅に息子を送り届けてから、松山の満徳寺を訪問。そこから高速道路に乗って三戸、八戸、五戸、十和田、七戸そして三沢を経由して盛岡に戻るという強行軍であった。途中、岩手県内の一戸、二戸も含めて、「戸」が付く土地を次々と通過することになった。それにしても「戸」とは何だろうか。

 会津藩は、戊辰戦争で敗れて、斗南藩への移封(実態としては挙藩流罪)という苛烈な処分を受けた。青森県内には移住した会津藩士の残した史跡が散在している。

 三戸の中心部に三戸大神宮がある。境内には会津藩に関係する二つの墓碑がある。
 一つは日新館教授杉原凱(がい)の墓である。杉原凱は、戊辰戦争後、三戸に移住し、明治四年(1872)、この地で病死した。享年六十六。亡骸は三戸大神宮に葬られたが、その後、遺族も他所に移り、墓も荒れるに任されていた。明治十九年(1887)、これを惜しんだ門人らが墓碑を建てたものである。


杉原凱先生之墓


会津藩殉難者無縁墓

 杉原凱の墓のそばには、無名の会津藩士の墓が建立されている。建立は昭和五十一年(1976)。


招魂之碑

 同じく三戸大神宮の境内には招魂碑が建てられている。日露戦争後、この手の招魂碑は各地に建てられているが、三戸大神宮の招魂碑は小倉藩出身の奥保鞏(おくやすかた)の筆によるものである。この他にも青森県下で見かけた招魂碑、忠魂碑は奥保鞏の書が多いが、同じ佐幕藩出身という縁だろうか。

(悟真寺)


悟真寺

 三戸大神宮の近くに所在する悟真寺境内には、明治二十七年(1894)、当地に移住した旧会津藩士によって建立された招魂碑がある。


招魂碑

(観福寺)


観福寺

 近くを歩いていた老婆に観福寺の場所を尋ねたところ、「あぁ、この近くにあるよ」と、丁寧に道順を教えていただいたが、強烈な訛りのため半分も理解できなかった。今回の東北旅行では自分の日本語ヒアリング能力に自信を失った。

 観福寺には、「わが国最古の白虎隊墓碑」と称する墓碑がある。横に建てられている由来碑によれば、この碑が建てられたのは明治四年(1871)のこと。会津藩士大竹秀蔵の母シヲの一周忌に建立されたと記載されている。この墓碑は長らく埋もれていたが、昭和二十五年(1950)、当寺住職が苔に埋もれていた墓碑を発見した。


わが国最古の白虎隊墓碑

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三沢 Ⅱ

2010年09月03日 | 青森県
(廣澤家墓地)


廣澤安任之墓

 三年前に三沢を訪ねたとき、廣澤安任の墓を探して、この付近を散々捜して回ったが、遂に見つけることができなかった。三戸、八戸、五戸、十和田、七戸と回ってきて、少し時間があったので、再度廣澤安任の墓にアタックすることにした。
 今回の岩手、青森の史跡訪問に際して、光夢世宇留さんのHPを大いに参考にさせていただいた。廣澤安任の墓もこのHPの助け無しにはとても到達できなかっただろう。廣澤安任の墓は、手付かずの原始林の中に静かに置かれている。三年越しで対面が叶い、一際感慨深かった。

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「神風連とその時代」 渡辺京ニ著 洋泉社

2010年09月01日 | 書評
新書というのに千七百円という価格に一瞬たじろいだが、思い返せば神風連について語りつくした本など、なかなかお目にかかれるものではない。意を決して購入することにした。この本は、著者渡辺京二氏が、昭和五十二年(1977)に刊行したものを、一部訂正、配列などを変更して新書版化したものであるが、三十年以上前に書かれたものと思えないほど、今読んでも鮮度が高い。
明治九年(1876)即ち西南戦争の前年の秋に勃発した神風連の乱は、佐賀の乱、萩の乱、そして秋月の乱と同列に並べられ、「士族の反乱」というひと言で片付けられているが、その行動は“宇気比”によって決するなど、他の反乱と比して特異さが際立っている。
当時から敬神党の言動は奇怪であった。電線の下を通る時扇子を広げたとか、紙幣を箸でつまんでやりとりしたという伝説が残っている。この手の珍談奇談だけを聞くと、現代のカルト教団と同じではないか。つまり世間からは理解されない存在だったのではないか、という先入観を抱いてしまう。
しかし、石光真清の「城下の人」を読むと、意外なことに当時の熊本城下の庶民は敬神党に対して、親近感を持っていたようなのである。
敬神党の思想の原点は、林櫻園にある。林櫻園は、家塾原道館を主催して敬神党の思想の源流となった。櫻園は明治三年(1870)に世を去っており、神風連の反乱には参加していないが、彼らの思想的原理を支えたのは間違いなく櫻園の教義であった。櫻園の死後、一党は太田黒伴雄(大野鉄平衛)に引き継がれた。太田黒は、櫻園からもっとも信任を得ていたと言われるが、著者によればそれでも櫻園の思想が正確に引き継がれたとはいえないのだという。
敬神党と一括りにされるが、一党の構成員はモザイク状で、実に個性的な面々の集合体である。肥後勤王党と言われる一派、例えば轟木武平衛や宮部鼎蔵も永鳥三平も松村大成も、もとはと言えば櫻園の門下であった。櫻園の門下にあって、より政治に傾倒した一派が勤王党を形成し、櫻園のいう「神事は本、現事は末」を忠実に心棒した人たちとは一線を画することになった。更にその中から河上彦斎のように政治行動を志向する党派も現れる。
著者は櫻園の思想原理の崇高さを説くが、正直にいって、彼らが目指したものなどは私にはよく分からない。その時代に生きていないと、なかなかその本質まで理解するのは困難のように思う。ただ昨今横行する怪しげなカルト集団とは違うということは何となく理解した。

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