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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「神風連とその時代」 渡辺京ニ著 洋泉社

2010年09月01日 | 書評
新書というのに千七百円という価格に一瞬たじろいだが、思い返せば神風連について語りつくした本など、なかなかお目にかかれるものではない。意を決して購入することにした。この本は、著者渡辺京二氏が、昭和五十二年(1977)に刊行したものを、一部訂正、配列などを変更して新書版化したものであるが、三十年以上前に書かれたものと思えないほど、今読んでも鮮度が高い。
明治九年(1876)即ち西南戦争の前年の秋に勃発した神風連の乱は、佐賀の乱、萩の乱、そして秋月の乱と同列に並べられ、「士族の反乱」というひと言で片付けられているが、その行動は“宇気比”によって決するなど、他の反乱と比して特異さが際立っている。
当時から敬神党の言動は奇怪であった。電線の下を通る時扇子を広げたとか、紙幣を箸でつまんでやりとりしたという伝説が残っている。この手の珍談奇談だけを聞くと、現代のカルト教団と同じではないか。つまり世間からは理解されない存在だったのではないか、という先入観を抱いてしまう。
しかし、石光真清の「城下の人」を読むと、意外なことに当時の熊本城下の庶民は敬神党に対して、親近感を持っていたようなのである。
敬神党の思想の原点は、林櫻園にある。林櫻園は、家塾原道館を主催して敬神党の思想の源流となった。櫻園は明治三年(1870)に世を去っており、神風連の反乱には参加していないが、彼らの思想的原理を支えたのは間違いなく櫻園の教義であった。櫻園の死後、一党は太田黒伴雄(大野鉄平衛)に引き継がれた。太田黒は、櫻園からもっとも信任を得ていたと言われるが、著者によればそれでも櫻園の思想が正確に引き継がれたとはいえないのだという。
敬神党と一括りにされるが、一党の構成員はモザイク状で、実に個性的な面々の集合体である。肥後勤王党と言われる一派、例えば轟木武平衛や宮部鼎蔵も永鳥三平も松村大成も、もとはと言えば櫻園の門下であった。櫻園の門下にあって、より政治に傾倒した一派が勤王党を形成し、櫻園のいう「神事は本、現事は末」を忠実に心棒した人たちとは一線を画することになった。更にその中から河上彦斎のように政治行動を志向する党派も現れる。
著者は櫻園の思想原理の崇高さを説くが、正直にいって、彼らが目指したものなどは私にはよく分からない。その時代に生きていないと、なかなかその本質まで理解するのは困難のように思う。ただ昨今横行する怪しげなカルト集団とは違うということは何となく理解した。

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