(信濃教育会館)
明治天皇行幸之処
信濃教育会館の前に明治天皇の行幸を記念した石碑が建てられている。
(信州大学長野キャンパス)
信濃教育会館の東側の道を北上して国道408号線と交わる交差点の北西に信州大学長野キャンパスが広がる。交差点に面して明治天皇行幸之処碑が建てられている。
明治天皇行幸之処
(康楽寺墓地)
東町の康楽寺の墓地は、四キロメートルほど離れた三輪八丁目にある。そこで国学者岩下桜園の墓を探したが見つけられなかった。岩下家の墓所は発見したのだが、桜園の墓と特定できるものがなかった。長野でもこの日は体温を上回る気温を記録する猛暑日で、さすがに日陰のない墓地を長時間歩く気力、体力を奪われた。いずれ再挑戦したい。
岩下家墓所
岩下桜園は享和元年(1801)の生まれ。十九歳のとき、名古屋に出て信濃出身の塚田大峯に師事。さらに京都で頼山陽に詩文を学び、江戸では清水浜臣に国学を学ぶ傍ら、伴信友、黒川春村、寺門静軒らと交わった。帰郷して善光寺の歴史書である「芋井三宝記」「善光寺史略」「善光寺別当伝略」等を続々と著わした。慶應三年(1867)、年六十七で没。
(立町)
この場所には、明治十一年(1878)から十九年間にわたって松本裁判所長野支庁があった。裁判所は花咲町に移転し、この場所は書籍商西澤喜太郎に譲り渡された。ここにも明治天皇の行幸を記念した石碑が建てられている。
明治天皇行幸之処
(健御名方富命彦神別神社)
善光寺の東側は、県立美術館や城山公園、長野清泉女学院などが密集する文教地区となっている。その一画に健御名方富命彦神別神社(たけみなかたとみのみことひこかみわけじんじゃ)という長い名前の神社がある。
健御名方富命彦神別神社
健御名方富命彦神別神社扁額
鳥居には有栖川宮熾仁親王筆による扁額が掲げられている。神殿の扁額は光仁天皇の勅額である。
千曲川改修起工碑
境内にはいくつかの興味深い石碑がある。千曲川改修起工碑と明治天皇駐輦之碑は、とりわけ巨大な石碑である。写真ではその大きさが伝わらないのが残念である。
千曲川改修起工碑は、大正八年(1919)四月の建碑。時の内大臣後藤新平の篆額。
千曲川は、大雨のたびに氾濫し、流域では洪水の災禍に悩まされていた。大正六年(1917)、長野県が調査立案した千曲川改修計画は、十ヶ年の継続工事として事業決定された。それを記念してこの石碑が建立されたものである。
明治天皇駐輦之処
高橋白山頌徳碑
高橋白山は、天保七年(1836)、高遠藩儒高橋利常確斎の長男に生まれた。十六歳で藩学進徳館の助教となり、文久年間には藩の公子に侍して江戸に行き、藤森天山の教えを受け、鷲津毅堂、大沼枕山らと交わった。維新時には、高遠藩の藩論が定まらないのを嘆いて、大いに論じたため同藩の長尾無墨らとともに追放の身となり、医師となった。維新後、教部省からの招きを断って、私塾を開いて子弟に教授した。永山盛輝が筑摩県令として着任すると、師範学校の教授となり、永山が新潟県令に転じると、これに従って新潟に赴き、中学校の教授となった。辞職後、小諸に移って子弟の教育にあたった。明治十九年(1886)、長野師範学校教諭となったが、明治三十二年(1899)、病のため退職。以後は詩文を友として悠々自適の時間を送った。明治三十七年(1904)、年六十九で没。
この頌徳碑は、明治三十年(1897)二月に、岡千仭撰文、日下部東作の書により建てられた。
常山山寺先生之碑
山寺常山の顕彰碑は、長岡護美による撰文および書。建碑は「甲申春」とあるので、明治十七年(1884)と思われる。
(田子)
明治十一年(1878)九月十日、八時二十分頃、北陸御巡幸中の明治天皇が当地で小憩をとった。一行は右大臣岩倉具視以下文武百官合わせて一千人を越える大行列であった。田子の池田元吉は、敷地四百八十三坪に総檜造り、菊花紋章入りの瓦葺きの小休所を立てた。大門には、飯山城の裏門を、千曲川を船で運んだという。
明治天皇田子御小休所
田子神社
明治天皇田子御膳水
旧北国街道沿いの田子神社参道前に明治天皇御膳水の碑がある。田子神社境内の鎮守の森の傍らから清水が湧いて小川となって流れ出している。この湧水は、明治十一年(1878)、明治天皇の北陸巡幸の折に御膳水として供されたことから、記念碑が建立された。
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