史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

盛岡 Ⅱ

2022年04月02日 | 岩手県

(桜山神社)

 

桜山神社

 

戊辰戦役殉難者慰霊之碑

 

 盛岡藩初代、南部信直公の没後百五十年にあたり盛岡藩では、その遺徳を偲び奉るため、城内淡路丸に神殿を建立しました。後の櫻山大明神の起源である。境内に戊辰戦争殉難者の慰霊碑がある。

 

(ホテルブライトイン盛岡)

 今回、能代出張の帰路、一日休みをもらって盛岡の史跡を訪ねる時間を作った。盛岡、水沢(奥州市)を訪れるのは実に十四年ぶりのことである。

 この時期、東北は雲に覆われることが多く、降雪があっても不思議はないが、幸いにして滞在中の二日間、天候には恵まれた。しかし、日没が近づく四時過ぎには暗くなってしまうので、連日時間との勝負となった。振り返れば、行き当てることのできなかった墓がいくつもあって課題は残ったが、まずまず満足すべき成果であった。

 天気予報によれば、盛岡周辺の天気は、翌日から大崩れして降雪を伴う大荒れになるとのことであった。結果的には、自動車で史跡を回るタイミングとしてはギリギリだったかもしれない。

 岩手県はもう一か月近くもコロナ感染者が発生していないという。日本全国にコロナウイルスが蔓延し始めた頃、長い間、岩手県だけが感染者0を維持していた。岩手県はコロナに関しては超優良県なのである。

 この結果は、当然ながら関係者の不断の努力によるものだが、ここに来てみて実感するのは、県外(特に首都圏)との行き来が直感的に少ない場所だということである。盛岡駅は、仙台などと比べると、新幹線で乗下車する客が圧倒的に少ない。これもコロナ感染者が極小で抑えられている要因ではないか。

 例によって宿泊した翌日、日の出の二十分くらい前に活動を開始し、日の出の時間には最初の目的地である、中の橋通りにあるホテルブライトイン盛岡に到着した。

 

明治天皇御臨幸機業場遺趾

 

 ホテルブライトイン盛岡の裏手、中津川に面したところに明治天皇関係石碑が建っている。

 明治九年(1876)七月七日、明治天皇一行が盛岡を訪れ、この場所にあった元奉行菊地金吾が経営する機業場(はたおりば)を視察した。この石碑は、昭和十一年(1936)、この土地の所有者赤沢亦吉が、当時の盛岡市長の要請を受けて建てたものである。

 

(県民会館)

 県民会館前、与の字橋際に新渡戸稲造の胸像がある。高田博厚の作。この彫刻は、高い理想に燃えながらも、現実の無理解と戦わなければならなかった稲造の、 苦悩と強さを表現したものという。

 

新渡戸稲造先生

 

(新渡戸稲造生誕地)

 

新渡戸稲造先生威生誕之地

 

 新渡戸稲造は、文久二年(1862)に、南部藩士新渡戸十次郎の三男としてこの地に生まれた。父十次郎は、青森県三本木野開拓の父と仰がれた人物で、稲造は開拓事業に因み最初稲之助と称した。稲造は、農政学を専攻し農学博士、法学博士の学位を受け、札幌農学校教授、京都帝国大学教授、第一高等学校長、東京帝国大学教授、東京女子大学長として青年の教育にあたった。また行政官として、台湾の開発にあたり、国際人として欧米に活躍した。彼は常に東西文明の融合を理想とし、「太平洋の架け橋たらん」と志し、第一次世界大戦後は国際連盟事務局次長に選任され、その公正なる言動は「連盟の良心」と賞された。

 

新渡戸稲造

 

(天昌寺)

 陸奥の豪族安倍氏は、平安時代の後期になると、衣川柵を中心に北上川沿岸や、その他重要な場所に城柵を設けた。最北端の拠点である御厨川柵には宗嫡の貞任を配した。天喜四年(1056)、前九年の役が起こったが、安倍氏の勢力が強く、源頼義の国司軍は平定することができなかった。出羽の豪族清原氏の来援によって、安倍氏は次第に退き、この厨川柵に全勢力を挙げて決戦を挑んだが、康平五年(1062)、敗れて滅亡した。

 厨川柵とは、安倍館、権現坂、天昌寺台地を含めた広大な地域とされ、昭和三十二年(1957)にこの台地の一部を発掘調査をした時には、隍(ほり)跡、土器、鉄片、古銭(宋銭)等が発掘された。

 文治五年(1189)、源頼朝が、欧州藤原氏討伐の軍を起こし、自ら七軍を率いて平泉を攻め落とし、厨川柵まで進駐し、一週間ほど滞在した。この時の戦功によって、伊豆の工藤小次郎行光に岩手郡を与えた。工藤氏は、安倍館に居館を構え、南北朝期、室町期を経て、南下した南部氏の勢力に臣従して、栗谷川(厨川)を称した。なお、天正二十年(1592)、豊臣秀吉の命により安倍館は破却された。

 

 嘉永五年(1852)、東北遊歴の旅にでた吉田松陰と宮部鼎蔵は、友人江幡五郎を訪ねて盛岡城下に入り、三月十二日、江幡の年老いた母や亡兄(江幡春庵)の妻と二人の遺児と面会した後、天昌寺町に残る厨川の城址を訪ねたという。松陰ゆかりの地である。

 

天昌寺

 

厨川柵

 

(東顕寺)

 

東顕寺

 

奉供養實性院殿道厚忠實居士

(目時隆之進の墓)

 

 東顕寺本堂に近いところに目時隆之進の墓がある。

 目時隆之進は、文政六年(1823)の生まれ。十九歳にして使番に任用され、特進して大目付、用人となり、維新の政変には革新派の東次郎派に属し、勤王に努めた。慶應三年(1867)、家老楢山佐渡に従って上洛し、京都の守備に任じられたが、楢山と意見が合わず、再三激論を交わして楢山を説得したが、及ばなかった。藩は佐幕と決したが、脱藩して官軍について久保田に上陸し、ついに藩を降伏させた。政府軍は盛岡藩に命じて目時を家老として拾収させた。継いで藩主を江戸に召喚し、七万石を減じて白石に転封を命じた。これを受けて藩論は沸騰し、姦賊目時の所為と曲解し、弾劾した。新政府と旧藩士との間で進退に窮し、明治二年(1869)、帰国の途上、黒沢尻町鍵屋旅館において自刃した。年四十七。

 

 東顕寺には隆之進の息、目時貞次郎の墓もあるはずだが、時間切れで探しきれなかった。

 

(本誓寺)

 

本誓寺

 

 本誓寺には三閉伊百姓一揆の首謀者畠山多助の墓があるという情報を得たので、本誓寺を訪ねたが、あまりに墓地が広いため、これも時間切れで訪ね当てることはできなかった。次回訪問時の宿題である。泣き言をいっても始まらないが、盛岡の墓石には「骨塔」とか「埋骨」とだけ刻まれたものが多く、一見して墓の主が分からない。これも盛岡で墓探しが難航した一因である。

 

(龍谷寺)

 

龍谷寺

 

 龍谷寺の本堂前には、阿部豊吉君碑と蛇口安太郎碑という興味深い石碑が二基建っている。

 

阿部豊吉君碑

 

 阿部豊吉(知清)は嘉永五年(1852)の生まれ。十四歳で藩庁に仕え勘定方となり、頭角を現した。明治三年(1870)、洋学を志して上京。明治六年(1873)、二十二歳で工部省鉱山寮に入り修学。任命されてドイツ人鉱山技師クルト・アドルフ・ネット―の補助者となって小坂鉱山に赴任し、従来の我が国の銀銅採取の精錬法を一新させる湿式製錬開発に心血を注いだ。刻苦精励すること十有余年。小坂、阿仁、太良鉱山で新法をもって成果をあげた。明治十八年(1885)には、政府から阿仁鉱山の払い下げを受けた古河市兵衛に請われ、本沢鉱山開発を全面的に統括した。明治二十年(1887)には、太良、本沢、長場ない鉱山の事務長となった。しかし、積年の過酷な作業と心労は身体を蝕み、明治二十一年(1888)秋、病のため辞職し、盛岡に戻った。古河市兵衛は、その才を惜しみ、東京で豊吉と面談し翻意を促した。豊吉は辞職を思いとどまり、保養に努め一時快方に向かったが、本沢鉱山への復帰目前に病が再発。明治二十二年(1889)、自ら命を絶った。享年三十八。

 

蛇口安太郎の碑

 

 蛇口安太郎は、旧姓を久保田といい、天保十年(1839)、盛岡市花屋町近くの農家に生まれた。幼少の頃から衆に秀で、学問・剣術が好きで、侍になる夢をもった。父の計らいで持参金付で蛇口家の養子となり、長じて藩より有為の士として江戸留学を命じられ、北辰一刀流の千葉道場に学んだ。攘夷討幕論を奉ずる多感な若者達の熱気に触れ、武田耕雲斎、藤田小四郎ら尊王攘夷を旗印とする水戸天狗党の挙兵に参加した。那珂湊の戦いで、幕軍の軍船からの十字砲火に傷つき落命。享年二十五。

 この石碑は、大正四年(1915)十一月、蛇口安太郎に従五位の追贈があったことを記念し、菩提寺に建てられたもので、南部利淳の篆額、岩手県属岡山直機の碑文、新渡戸仙岳の書。

 龍谷寺の墓地に蛇口安太郎の墓もあるのではないかと思い、探してみたが「日没コールド・ゲーム」となってしまった。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 秋田 Ⅲ | トップ | 盛岡 Ⅲ »

コメントを投稿

岩手県」カテゴリの最新記事