史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「福岡県の幕末維新」 アクロス福岡文化誌編集委員会編 海鳥社

2016年02月26日 | 書評
今年のゴールデンウィークは十連休。十日間まるまるとはいわないが、せめて五六日、どこかに遠出したいものである。恐る恐る嫁さんに切りだしたところ、意外とあっさりと許しを得たので、早速旅行の計画を練った。昨年は長崎・佐賀を旅したが、今年は同じ九州の福岡がターゲットである。
薩摩藩や長州藩、土佐藩、会津藩などと比べると、福岡諸藩は地味かもしれない。幕末時点で、現在の福岡県域は、小倉藩(小笠原氏)、福岡藩(黒田氏)、久留米藩(有馬氏)、柳川藩(立花氏)のほか、その支藩である小倉新田藩や秋月藩など大小藩がモザイク状に存在していた。
小倉藩は、慶応二年(1866)の小倉戦争で長州藩の進攻を受け、藩領が戦場となった。将軍家茂の病没が伝わると、幕府軍総督を務める唐津藩主世子小笠原長行は早々に戦線から離脱した。これを知った九州諸藩も一挙に戦意を喪失し、次々と帰国した。その結果、小倉藩は孤軍奮闘することとなった。小倉城を自焼し、門司口、中津口、香春口に後退してそこで防戦に努めた。結局、小倉藩は小倉城を奪回することはできなかったが、長州藩の山県狂介(有朋)は「徳川幕府に忠義を尽くし、義を重んじる藩」と称賛した。
幕末の福岡藩主黒田長溥は、薩摩藩主島津重豪の十三男。長溥は実父重豪、養父黒田斉清の影響を受け、西欧の文化に強い興味を示し、「蘭癖大名」と呼ばれた。嘉永六年(1853)、ペリー艦隊が来訪した際、老中阿部正弘が広く幕臣、諸大名に意見を求めると、積極的に開国を主張する意見書を提出した。この時点で明確に開国を主張したのは、薩摩の島津斉彬、中津藩の奥平昌高、宇和島藩の伊達宗城らごく少数であり、長溥は開明派として注目を集める存在となった。
福岡藩からは平野国臣や月形洗蔵、野村望東尼、加藤司書といった全国に名前を知られる勤王派の藩士を輩出したが、幕末の最終局面に至って存在感を発揮できなかった。その最大の理由は、藩主長溥が公武合体思想から逃れられなかったことに尽きる。慶応元年(1865)十月、藩内保守派が主導権を握ると、尊攘派は加藤司書以下七名が切腹、月形洗蔵以下十四名が斬罪、野村望東尼以下二十五名が流刑の処され、福岡尊攘派は一掃された(己丑の変)。ところが、慶応四年(1868)正月、鳥羽伏見で新政府軍が勝利をあげると、今度は浦上信濃、野村東馬、久野将監の保守派三家老を免職、切腹させた。福岡藩は、水戸藩ほどではないにしろ、維新前に藩内の抗争により多くの有意の人材を喪失したのである。
幕末から明治初年の久留米藩も異彩を放つ存在であった。久留米藩では早くから水戸学の影響を受けた天保学連という尊王攘夷派が改革を推進し、藩政の主導権を巡って保守派と対立していた。天保学連を代表する人物が真木和泉である。真木は藩外で討幕活動を過激化し、文久二年(1862)の寺田屋事件でも黒幕的存在であった。さらに元治元年(1864)の禁門の変でも長州藩軍に加わり京都に攻め入ったが、天王山で自刃した。しかし、久留米藩内の抗争はこれで決着したわけではない。
慶応四年(1868)一月、藩政の実力者である参政不破美作が青年尊攘派に暗殺された。公武合体派は追放され、それまで幽閉されていた尊攘派メンバーが赦免され、久留米藩では新政府軍に兵を送った。明治二年(1869)二月には、今井栄、松崎誠蔵らそれまで藩政を動かしてきた開明派と呼ばれる人たち(思想的には公武合体、天保学連穏健派)は切腹させられた。彼らはのちに「殉難十志士」と呼ばれる。さらに明治四年(1871)には、長州藩の反乱分子である大楽源太郎らが久留米藩に潜伏し、明治新政府と久留米藩の緊張が高まる。結局、久留米藩では水野正名は終身禁獄、小河真文(池田八束)は斬罪、以下五十名の処分者を出した。再三にわたる政変により、久留米藩でも多くの人材が失われた。
幕末から明治初期の政局は目まぐるしく変転し、九州諸藩に限らず、いずれの藩でも藩是を定めるのに腐心した。結局、公武合体から討幕に方針を転換した薩摩藩にしても、一貫して尊王攘夷を主張した長州藩でも、流血は避けられなかった。激動は薩長だけに訪れたのではなく、日本全国がその波にさらされたことに思いを馳せたい。

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