史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

鶴岡 Ⅱ

2012年09月16日 | 山形県
(専念寺)


専念寺


桑名藩主名義士の墓

 専念寺には、桑名藩士八名の墓がある。いずれも戊辰戦争に従軍し、羽前寒河江の戦闘で重傷を負って庄内で戦死、または病を得て死亡した桑名藩士である。

(善宝寺)


善宝寺 総門

 鶴岡市下川字関根の善宝寺は、三門と総門、それに立派な五重塔など、三十を越える堂宇を有する。総門は、安政三年(1856)の創建である。
 龍神信仰を中心とした航海安全、大漁祈願の寺として特に漁民の信仰が厚かった。また曹洞宗の三大祈願所の一つとして全国からの参詣者も少なくないという。
 周囲には何もない田舎であるが、こんな場所にも歴史の長い、しかも壮大な伽藍を有した寺がある。こういうところにも日本の奥深さを感じる。


庄内藩二名墓

 善宝寺境内の北側、貝喰(かいばみ)の池に至る径の途中に、庄内藩士二名を合葬した墓がある。墓の主は、阿部幸太郎と阿部理吉という、慶應四年(1868)九月に戦死した二人の庄内藩士である。阿部理吉は関川での戦死者である。

(高坂)


藤沢周平生誕之地碑

 鶴岡は藤沢周平の故郷である。藤沢周平の情感あふれる作品は、郷土である鶴岡の風土を無視しては語れないだろう。藤沢周平の生地は、鶴岡市の高坂という小さな集落である。集落に入ると、生家跡を示す案内が随所に建てられており、迷うことなく行き着くことができる。生家跡は更地になっていて、柿の木が一本立っているだけである。
藤沢周平は、昭和二年(1927)、この地に生まれた。何の変哲もない田舎であるが、この静かな環境が藤沢作品にも色濃く反映しているのは間違いない。
 藤沢周平は生涯に多くの作品を残して、平成九年(1997)死去した。出羽出身の志士(清河八郎&雲井龍雄)を描いた「回天の門」や「雲奔る」が強く印象に残っているが、個人的には藤沢周平の本領は市井の人を描いた作品だと思う。

(井岡寺)


井岡寺

 井岡寺は、天長二年(825)の創建という古刹である。菅実秀や竹内南山らの墓がある。


荘内太夫菅先生(菅実秀)之墓

 菅家は家伝によれば、先祖の善左衛門は肥後国の出身で、大久保加賀守に仕え、寛文十年(1670)、家禄百五十石で酒井忠義に召し抱えられたという。曾祖父、菅善十郎は日頃病弱なことを同僚矢口権太夫に嘲られ、憤慨のあまり江戸藩邸にて矢口を殺害してしまう。直ちに鶴岡に護送され、そこで申し渡しを受けて切腹した。切腹の諸作法は概ねこのとき定まったという。祖父、基(伊織)は善十郎の切腹により家名断絶となり、父の生家町野家で養われた。文化元年(1804)に家名の再興を許され、藩校致道館普請取締役に選ばれ、のちに典学兼助教となった。詩文に長じその才は藩内第一と称された。また絵を水戸の立原杏所に学んだ。文政二年(1819)、年四十で世を去っている。


南山竹内君墓

 竹内南山の墓である。右膳、総之助、茂祐とも。天保十三年(1842)、庄内藩士竹内主馬(茂済)の子として鶴岡に生まれた。慶応元年(1865)、家督を継ぐと番頭、同年七月には組頭に任じられ、慶応三年(1863)の薩摩藩邸焼討に参加した。翌年の戊辰戦争にも出陣して、吹浦口から秋田藩領へ進攻した。明治二年(1869)、軍功により加増されて、新徴組取扱を命じられた。明治五年(1873)、松ヶ岡開墾の陣頭指揮を取り、そのかたわら鶴岡の戸長も務めた。開墾終了後も総長松平権十郎(親懐)の補佐となって本陣に起居し、三十余年間にわたって開墾場の経営に尽くした。六十七歳にて死去。


故太夫南樓竹内君墓

 竹内南楼は、八郎右衛門茂林(北窓)の父。明和七年(1770)家督を継ぐと、組頭、中老、亀ヶ崎城代などの要職を歴任し、文化二年(1805)、家老に進んだ。寛政年間以来、声望すこぶる盛んで、碩儒白井矢太夫と結んで、放逸派の頭領として恭敬派(水野重栄、犬塚男内)らと藩内を二分して争った。文化八年(1811)政争に敗れて家老を罷免され、蟄居の上、家督を嫡子茂林に引き継いだ。没年齢は六十七歳。


故太夫北窓竹内君墓

 竹内北窓は、八郎右衛門、五兵衛、主馬、修理、茂林という名を持つ。父は竹内八郎右衛門(茂樹)。文化三年(1806)召しだされて用人となった。文化八年(1811)には父茂樹が家老水野重栄らの恭敬派によって退けられたため、家督を継いだで、上席番頭となった。同年九月、土屋兄弟の仇討ちに出会い、頼まれて刺し違えの場に立ち会った。文化十年(1813)、組頭、文政元年(1818)中老、さらに文政十年(1827)には家老に任じられる等、長らく藩の要職にあったが、文政十三年(1830)在職中に病没した。享年五十八。


故太夫柏園竹内君墓

 竹内柏園は、竹内北窓(茂林)の次男に生まれたが、長兄が病死したため生家に戻り、天保元年(1830)、家督を相続した。天保九年(1838)、中老に任じられ、同十四年(1843)には印旛沼疏水工事の総奉行として赴任するが、在勤中病を得て死亡した。享年四十六。

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