史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

岡崎 Ⅳ

2011年01月03日 | 京都府
 年末の休みは、高槻の実家を拠点にして、京都、奈良、大阪、和歌山の史跡を回ってきた。冬の日は短い。昼飯の時間も惜しんで車を走らせた。ただし、三日目は天気が崩れたため、和歌山まで行きながら途中で引き返すことになってしまった。残りは別の機会にお預けである。

(金戒光明寺)


一乗院春譽静窓金剛居士
(侠客会津小鉄事上坂仙吉墓)

 今戒光明寺の子院西雲院に会津小鉄の墓がある。初代会津小鉄は、本名を上坂仙吉といい、天保四年(1833)大阪に生まれた。幼くして両親と死に別れ、京都に出て顔役として名を売った。会津藩が守護職として京に駐屯すると、松平容保の知遇を得て元締めとなった。容保および新選組の影の協力者として活躍し、幕末の京においてその侠名を謳われた。蛤御門の変、鳥羽伏見の戦いでは兵糧方と戦死傷者の収容の任に当たった。明治十八年(1885)没。享年五十三。


会津柴司源次平墓

 会津藩士柴司の墓である。柴司は、京都東山の明保野亭において、池田屋事件後、残党を捜索していたところ、突然逃げ出した男に対して咄嗟に槍をもって傷を負わせた。男は浪士ではなく、土佐藩士麻田時太郎であった。翌日、麻田時太郎が「士道不覚悟」により切腹したことを受け、土佐藩との関係が悪化することを避けるため、柴司も自刃した。


赤松小三郎墓

 赤松小三郎は天保二年(1831)上田藩士の家に生まれ、のちに同じ上田藩士の赤松家の養子となった。性格は磊落不羈、若くから経綸の才を示し、十八歳で江戸に出た。数学、蘭学を学んだが、当時木挽町にあった佐久間象山塾にも学んで影響を受けた。のち勝海舟の門に入り、長崎に出て兵学、航海術を修めた。江戸に戻って英学を修め、慶応二年(1866)に訳術した「英国歩兵練法」により、赤松小三郎の名を全国に知らしめることになった。この頃、鹿児島、大垣、会津、熊本、郡山、岡山などから招聘を受けている。京都三条烏丸衣棚に家塾宇宙堂を開き、薩摩藩京都屋敷に招かれ藩士の教育に当たった。門弟八百人と言われ、村田新八、篠原国幹、野津道貫、東郷平八郎、上村彦之丞らが門下にいた。赤松は幕府と諸藩の間を往来して公武合体を画策した。慶応三年(1867)九月、佐幕派の上田藩に召喚されたことを疑った桐野利秋らにより京都五条で斬殺された。上田月窓寺には遺髪を収めた墓がある。


今井似幽墓

 今井太郎右衛門の墓である。似幽は雅号。長州萩に生まれ、少年の頃から吉田松陰に私淑した。二十四、五歳のとき、京都の親戚大黒屋(長州藩用達)に迎えられ、今井家を継ぐ。諸国の志士と親交を結び、離れ座敷を謀議の場として提供した。元治元年(1864)の禁門の変では軍資兵站の補給を担当したが、自宅を焼き払われ、その後長州に亡命した。維新後は木戸孝允から出仕を要請されるも固辞し、長州藩邸の隣に古聖堂を開いて、勤王志士先賢の遺芳を集めて、悠々自適の生活を送った。明治十年(1877)、五十四歳で病没。


丹心院殿静屋宗珍大居士
丹功院殿貞松宗壽大姉
(北垣国道墓)

 北垣国道の墓である。
 北垣国道は、維新前晋太郎と称し、七歳のとき池田草庵の塾に入り、塾頭も務めた。この頃から過激な尊王攘夷思想を持ち、文久三年(1863)には但馬農兵を組織して生野に挙兵した。挙兵が失敗に帰すると、鳥取に潜行し、戊辰戦争には鳥取藩士に列して従軍した。維新後は明治新政府に出仕して、明治四年(1871)鳥取県少参事、明治十二年(1879)高知県令、翌年には徳島県令を経て、明治十四年(1881)から十年にわたって京都府知事を務めた。この間、琵琶湖疏水事業を成功に導いたことで知られる。明治二十四年(1891)北海道庁長官。晩年は枢密院顧問官に任じられた。大正五年(1916)八十二歳で死去。


正三位源朝臣(千草)有功卿墓


正三位源朝臣(千草)有文卿墓

 千草有文は、千草有功(ありこと)の二男に生まれ、嘉永四年(1851)侍従となり、安政三年(1856)左近衛権少将に任じられた。安政五年(1858)には八十八卿列参の一人として九条尚忠関白の専断に抗議した。万延元年(1860)、和宮降嫁問題が起こると、その実現に尽くした。このため尊攘派の志士からは、いわゆる「四奸ニ嬪」の一人として脅迫を受けることになる。文久二年(1862)には蟄居、辞官、落飾を命じられ、紫竹村に閉居するに至った。王政復古によって赦され、維新後は内弁事、宮内大丞などを歴任したが、明治二年(1869)五十五歳で死去。


従二位藤原朝臣豊岡随資卿墓

 豊岡随資(あやすけ)もやはり安政五年(1858)の八十八卿列参の一人。文久二年(1862)には久我建通、岩倉具視らを弾劾して失脚させた。翌年には国事参政に加えられて、三条実美らとともに攘夷親征、大和行幸を策謀したが、八一八の政変により失敗に帰した。しかしながら七卿落ちには加わらず、京都に残留して差控の処分を受けた。慶応三年(1866)に赦免されたが、王政復古では公武合体派とみなされて参朝を停止された。維新後は明治新政府に招請されたが、短期間で辞職した。明治十九年(1886)七十三歳で死去。

(真如堂)


真如堂


従四位堀河紀子 墓

 堀河紀子(もとこ)は、いわゆる四奸ニ嬪の一人。父は八十八列参公卿の一人堀河康親。実兄岩倉具視とともに和宮降嫁に画策したことにより、文久二年(1862)には朝譴を蒙り宮中を辞去した。のち霊艦寺にて蟄居。明治元年(1868)掌侍隠居に復帰させられ、京都で余生を送った。


従二位勲一等男爵石田英吉之墓

 石田英吉は、土佐安芸郡中山村の出身。文久元年(1861)大阪に出て緒方洪庵の門に入った。文久三年(1863)、天誅組の挙兵に参加した。重囲を脱して長州に逃れ、元治元年(1864)の禁門の変では長州軍の一員として進撃して重傷を負った。長州征伐ではユニオン号の砲手長として活躍し、功があった。文久二年(1862)海援隊結成に参加。戊辰戦争では奥羽各地を転戦した。維新後は、長崎県少参事を皮切りに千葉県知事、高知県知事などを歴任。明治二十三年(1890)には陸奥宗光農商務大臣のもとで次官を務めた。明治三十四年(1901)六十三歳で没。

(光雲寺)


従四位下前右馬頭丹波頼徳朝臣墓

 錦小路頼徳は、文久二年(1862)四月に右馬頭に任じられ、同年十二月に従四位に叙されている。墓に刻まれた「丹波」というのが良くわからないが、光雲寺のこの小さな墓は錦小路頼徳の墓のようである。
 錦小路頼徳は七卿の一人。元治元年(1864)三月、赤間関の砲台の巡視途次、発病して翌月病没した。年三十であった。

(安楽寺)


安楽寺

 鹿ケ谷御所ノ段町の安楽寺には、中沼了三夫妻の墓がある。


中沼葵園(了三)先生墓

 中沼了三は、文化十三年(1816)に隠岐国周吉郡中村に生まれた。葵園は雅号。天保六年(1835)京都に出て、鈴木遺音の門に学んだ。遺音の没後、学舎を開いて子弟の教育に当たった。門下には西郷従道、川村純義、桐野利秋、中岡慎太郎らがいる。嘉永年間には学習院の儒官として奉職。このころ十津川郷士と交わり、郷校開設に協力した。
 維新後は、新政府に出仕し、明治天皇の侍講、昌平学校一等教授等を歴任した。のち新旧思想の対立から三条実美、徳大寺実則と大激論の末、辞表を提出して野に下った。明治九年(1876)の神風連の乱では、了三の言辞が疑惑を招き、一か月ほど拘禁されたこともある。晩年には大津に湖南学舎を開くなど、生涯を通じて後進の育成に尽くした。明治二十九年(1896)、八十一歳にて京都で死去した。

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