史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

飯田

2014年08月17日 | 長野県
(北原家)
 今回の長野県飯田地方の史跡探訪に当たって、飯田観光協会に不明な史跡の所在を訪ねたところ、実に懇切丁寧に調査していただき、関係書籍のコピーとともに送り届けていただいた。感謝してもし切れないほどである。

 座光寺村の北原家には、今も稲雄の末裔の方が住んでいる。


北原家

 北原稲雄は、文政八年(1825)の生まれ。嘉永二年(1851)庄屋役。父の影響を受けて、福住清風の門人になり、平田篤胤の没後門人となった。市岡正蔵(殷成)は叔父に当り、松尾多勢子は従兄の子である。「弘仁暦運記考」出版助成に奔走し、古史伝上木運動の発起人ともなった。安政末年の南山騒動には百姓の頭領となって活躍した。元治元年(1864)には水戸浪士の信州無事通過を斡旋尽力した。その後、慶応四年(1868)には高松実村や相楽総三に協力した。明治二年(1869)、家督を譲って伊那県に出仕、地価嘆願総代を務めた。初代松本興産社社長、反福沢的立場を取った。明治十四年(1881)、五十七歳にて死去。

(今宮効戸神社)


今宮郊戸神社


明治天皇御製

 今宮郊戸神社周辺は、石碑の森となっている。その中に明治天皇の御製を刻んだ石碑がある。

 あさみどり澄み渡りたる大空に
 広きをおのが心ともがな

 晴れ渡った大空のように広く大きな心を持ちたいものであるという意。明治三十七年(1904)明治天皇の御製である。

 
富岡鉄斎歌碑

 幕末から明治に活躍した文人画家、富岡鉄斎は生涯二度にわたって飯田の地を訪ねている。この石碑は、明治三十六年(1903)、鉄斎がこの地を訪れ、植松したことを記念した歌碑である。石碑に以下の歌が刻まれている。

 神宮能千代の佐可衣を満も連与登
 こ能稺枩越堂てま津る也
 (じんぐうのちよのさかえをまもれよと
 このわかまつをたてまつるなり)

 天狗党は、今宮郊戸神社周辺で休息をとった。このとき役人の手配した昼食が天狗党の手元に届けられた。握り飯や熱い味噌汁、それに漬物など、信州の味に水戸浪士たちは舌鼓をうった。この場所は、飯田城までわずかに二~三㌔の距離である。天狗勢が平穏に通過してくれるかどうか、城下町の人々は大いに心配したことであろう。
 現在、丸山公民館の入口付近に天狗党関連石碑が複数建てられている。


水藩志士留跡碑(天狗党交渉記念碑)

 その一つが、天狗党の挙兵から六十年目となった昭和十三年(1924)に建立された水藩志士留跡碑である。題額は公爵徳川圀順。撰文は徳富蘇峰である。


尊王義士甲子紀念碑

 正面に「尊王義士甲子紀念碑」と記された、高さ五メートルを越える石碑は、明治三十四年(1901)に建てられたものである。書は東久世通禧。
 左側面には、水戸浪士の一人、亀山勇右衛門嘉治が詠んだ歌が刻まれている。

 八束穂のしげる飯田の畔にさへ
 君に仕ふるみちはありけり

 「稲が豊かに穣る飯田の田の畔道にさえも、我々と同じように天皇にお仕えする道が開かれている」という意味である。

(白雪稲荷神社)


白雪稲荷社


松尾多勢子歌碑

 大宮諏訪神社の近くに白雪稲荷神社と呼ばれる小さな神社がある。本殿の前に松尾多勢子の歌碑が置かれている。

 白砂の雪のけころも重ねつゝ
 みのる飯田を受けもちの神

(長姫神社)


長姫神社

 飯田城本丸跡には長姫神社が建立されているが、ほとんど城跡であることも感じられない。飯田城の歴史は古く、十三世紀初頭に築かれたといわれる。江戸時代には、小笠原氏、脇坂氏のあと、寛文十二年(1642)、堀親昌が入封し、以後明治維新まで堀氏が続いた。
 天狗勢が城下に迫ると、飯田城では大手門などに流木を集めて障害を築き、城の垣の外には大砲を並べ、城内には侍や人足を武装させて、天狗勢の襲撃に備えた。しかし、天狗勢は昼食を済ませると、隊列を組んで今宮を出発し、北原稲雄の案内で、城よりずっと西の切石方面で松川を渡り、大瀬木の熊野神社近くまで進んだ。ここで北原稲雄は「飯田城下に入らずに、ここまで来ました。私の役目は終わりました」と一行に別れを告げた。武田耕雲斎は、この労に報いるため、稲雄に着用させていた陣羽織をすすめたが、固辞して帰って行った。この日、天狗勢は、駒場宿に宿泊した。


観耕亭碑

 観耕亭とは、かつて飯田城本丸にあった藩主の小亭のことである。当時の十一代藩主堀親義は、折を見て城外に出て、山水を賞することを楽しみとしていた。しかし、藩主がたびたび外出すると農民の作業の邪魔になる。そこで城内に観耕亭を建て、そこから農民が農耕に勤しんでいるのを眺めて楽しんだという。この石碑は、安政六年(1859)に建てられたもので、碑文は安積艮斎による。

(中央図書館)


飯田城赤門

 飯田市立中央図書館の敷地内にある赤門は、飯田城桜丸の門で、宝暦四年(1754)四月に上棟されたもの。本丸は街から遠く不便なため、普段は桜丸で政務をとったといわれる。赤門は入母屋造りで瓦葺き、鬼瓦には堀氏の家紋である「向梅」が使われている。明治以降、飯田県、筑摩県飯田支庁、下伊那郡役所、地方事務所等の郡衙として使用された。

(羽場)


桜地蔵堂


水戸浪士この道を通る

 飯田市羽場一丁目の交差点の少し西側に桜地蔵と呼ばれる小さな祠がある。その横に「信濃路驛路の趾」と記された大きな石碑がある。さらにその傍らに、元治元年(1864)十一月二十四日、天狗党がこの場所を通過したことを記念した石碑が建てられている。

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