史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

飯田 山本

2014年08月17日 | 長野県
(杵原学校)
 杵原学校(旧・山本中学校)は、戦前に建てられた校舎が今に残る。ノスタルジアあふれる空間となっている。かつてこの校舎を使用して山田洋次監督、吉永小百合主演で「母べえ」という映画が撮影された(私はその映画を拝見しておりませんが…)。


杵原学校


松尾多勢子生誕二百年記念碑

 杵原学校の校舎前に、松尾多勢子の和歌が刻まれた石碑が建てられている。多勢子の生誕二百年を記念して、平成二十三年(2011)に建立されたもので、表面には多勢子八十四歳のときの和歌が記されている。この歌は、多勢子の死の三か月前、伴野神社の祭典に際して、青年衆の求めに応じて、病身を起して詠んで染筆したもので、多勢子の絶筆である。

竹むら堂せ子
 皆人乃(みなひとの)
 心毛清く(こころもきよく)
 ゆふ堂春斯(ゆふたすき)
 か希ま具神を(かけまくかみを)
 以左めまつら無(いさめまつらむ)

 心の清い若者たちが、木綿のたすきをかけておみこしをかつぎ、言葉に出して申し上げるのも誠に畏れ多い尊い神様を、慰め致しましょうという大意である。

(竹原家)
 松尾多勢子の生家である。表札を見ると、「石曽根」となっているが、実家竹村家の流れを汲んだ家であろう。
 松尾多勢子の実家は「豪農」と紹介されているが、なるほどそれが実感できるくらいの立派な門構えである。敷地内には昔ながらの土蔵などもそのまま存在しており、この中にはお宝が眠っているのだろうと想像する。
 門前には多勢子の歌碑が置かれているが、あまりに達筆のため解読できない。


松尾多勢子生家


松尾多勢子歌碑

(梨野峠)
 今回の南信州史跡探訪のメイン・イベントが青木から梨野峠を経て、清内に抜ける清内路街道の踏破であった。前日の野球大会で右足に肉離れを起こした身としては、無謀ともいえる行動であったが、なかなかここまで足を伸ばす機会はないので、敢行した。
 実は、飯田市青木には、軍律違反で処刑された天狗党隊士、高橋賢治の墓があるはずだが、辺りを探し回って、見つけることはできなかった。梨野峠から先、清内路への道を歩くことと合わせて、次回の課題となった。高橋賢治は、麓の山本村で盗みを働いたというのが、斬首された表向きの理由であるが、実は彼が党内の不平組の煽動者だったため、見せしめのため公開処刑されたといわれる。


梨野峠

 山本から青木までは、自動車一台がやっと通れるくらいの細い道であるが、舗装道路が通じている。青木は二~三世帯という小さな集落である。ここから歩いて梨野峠を目指す。雨が止まないので、片手には傘をもって、およそ四十五分の登山であった。辺りには霧がたちこめ、足もとは滑り易いという悪条件の中、何とか峠までたどり着くことができた。


青木から梨野峠への清内路街道

 元治元年(1864)の天狗党だけでなく、慶応四年(1868)には赤報隊も清内路を通過している。恐らくその風景は、幕末の頃とさほど変わっていないだろう。
 本来、梨野峠は御嶽山が臨める絶景ポイントであるが、この日は生憎の天気で全く視界が閉ざされていた。汗を拭ったら、すぐさま来た道を引き返す。下りは四十分足らずで青木に到着した。


御嶽山

 天気が良ければ、梨野峠から御嶽山が臨める。御嶽教は、日本古来の山岳信仰の一つで、当地でもこの信仰が盛んになり、梨野峠に御嶽遥拝所が設けられた。この石碑は、嘉永五年(1852)に建立されたものである。

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4 コメント

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天狗党 (佐藤秀哉)
2019-11-27 16:14:15
天狗党が飯田を抜けた道を探しています。
ご存知でしょうか?

今茨城から天狗党が歩いた道をたどっています。

宜しくお願いします。
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飯田における天狗党の足取り (植村)
2019-12-01 09:25:55
佐藤様

天狗党の飯田での足取りは、いくつかの石碑も建てられており点としては素人でも把握できますが、結論としましては当方では線としては不明です。天狗党は、高森町牛牧から現在の県道15号線(飯島飯田線)を通って飯田に入ったものと思われます。土曽川を渡ったところで右(北側)に折れ間道を進んだとされますが、ここからどの道を辿ったのかよくわかりません。野底川をわたって、現・今宮効戸八幡神社付近で休憩をとっています。羽場一丁目の恵光寺付近にも石碑があり、県道15号線沿いを進んだものと思われます。天狗党一行は西進して駒場宿まで到達しますが、このときも「間道」を案内されたというだけで、正確な道筋は分かりません。駒場宿で、松尾多勢子の長男誠に説得され、梨子峠から清内路村に抜ける美濃路を往くことに決まり、駒場宿から山本まで引き返しています。梨子峠から清内路村への道は自動車一台がやっと通れるような細い道ですが、一本道ですので現在もその道をたどることが可能です。
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天狗党 (佐藤)
2019-12-02 18:17:11
植村様
ご連絡ありがとうございます。
他の書物も点の部分は書かれているようです。古地図が有れば多少予測が出来るのですが見当たりません。近いうちに飯田に行き、私なりに点を線にすることを試みてみます。
参考になることが有りましたらお知らせ下さい。
有難うございます。
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天狗党の足取り (名音)
2020-09-17 18:29:01
佐藤様

片桐宿から馬籠まで調査し、清内路街道を青木から上清内路神社まで歩きました。上清内路脇本陣は当時のまま保存されています。
飯田へ来られるときはご案内します。
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