史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

豊丘

2014年08月17日 | 長野県
(豊丘村歴史資料館)


豊丘村歴史資料館

 豊丘村は、松尾多勢子の嫁ぎ先であり、松尾家や多勢子の墓がある。
 松尾多勢子は、文化八年(1811)、信濃国伊那郡山本村の豪農の家に生まれた。十九歳のとき、伴野(現・豊丘村)の豪農に嫁ぎ、主婦として三十年余りを過ごした。その間、和歌を学び、ことに飯田の歌人であり、国学者岩崎道世の説く、尊王攘夷論に深く感化された。文久二年(1862)、五十二歳のとき、意を決して上京し、「歌詠みばあさん」という触れ込みで、諸卿の門に出入し、また宮中の女官と親交を結んだ。同時に久坂玄瑞、品川弥二郎、藤本鉄石らとも交わり、志士を堂上家に紹介したり、両者の連絡に当たったりした。ことに岩倉具視の信任を得、岩倉が奸物として命を狙われたとき、岩倉が奸物ではないことを説いて、危険から免れしめたという。多勢子は、快活で弁舌に長じ、世話好きで資力も豊かであったことから、その世話になった志士も多かった。岩倉家の女参事と呼ばれ、維新後は多勢子の口入で官途に就こうとする者も多かったという。晩年は郷里に隠居して、静かな余生を送った。明治二十七年(1894)、八十四歳でなくなった。

 豊丘村歴史民俗資料館は、豊丘村に関する考古や民俗資料のほか、松尾多勢子の遺品や関係資料を常設展示している。見学していきたかったが、日曜日は閉館日。しかも早朝五時に伊那市内のホテルを出立した私が、豊丘村を訪れたのは未だ午前七時前だった(開館時間は、午前九時~午後四時 入場料は無料)。

(松尾家)


松尾家

 天狗党が飯田藩領を通過しようとしたとき、松尾多勢子は、長男、誠を送り、藤田小四郎に対し「名古屋の大藩に抵抗するは危険が多い。道を美濃路にとり、中津川から上京するのが良い」と具申した。この進言を受けて、天狗党は軍議を開いた。尾張に出れば京都は近いが、木曽路を取れば迂回することになり京都はさらに遠くなる。美濃路越えには清内路関所を通らねばならないが、飯田藩預かりなので平穏に通過できるのではないか、との期待もあった。耕雲斎や田丸稲之衛門らは、このまま三州街道を進み、尾張候を頼ることを主張したが、藤田小四郎ら若手は安易に尾張藩を頼るのは危険、あくまで素志貫徹のため美濃路へ向かうべきと反論した。軍師の山国兵部が小四郎に同調したため、美濃路をたどることに決定した。これを聞いた松尾誠は「これで母も喜びます」と喜び、中津川の親戚、市岡正蔵に手紙を送り、天狗党へのもてなしを依頼した。誠の気配りに感謝した藤田小四郎は、自作の詩と愛用の槍「常光」を贈った。これらは、今も松尾家に所蔵されているそうである。

(慈恩院)


慈恩院


贈正五位松尾多勢子奥墓

 松尾多勢子は、明治二十七年(1894)六月十日に八十四歳で亡くなったが、明治三十六年(1903)、特旨により正五位を贈られた。

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