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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

ブルックウッド

2025年06月07日 | 海外

(ブルックウッド墓地)

 

Great Western Railway

 

ブルックウッド墓地入口

 

南側の墓地を奥に進むと教会が現れる。日本人留学生の墓は、この教会の近くである。

 

南無阿弥陀佛

 

日本人留学生の墓の手前に土饅頭型の塚がある。碑には「南無阿弥陀佛」と刻まれている。この石碑は、浄土真宗正行寺住職竹原智明氏が願主となり、三輪精舎佐藤顕明氏が発起人となって、2007年に建立されたものである。

 

記念碑

 

山﨑小三郎 長州

有福次郎  徳山

福岡守人  土佐

袋 久平  佐賀

この四人の若者は日本の近代化を進めるためヨーロッパに来ましたが悲しくも勉学なかばにして斃れました。日英友好協会は彼らの勇気とその志を頌へるべくここに記念碑を建立します 一九九七年九月吉日

 

アレキサンダー・ウィリアムソン教授御夫妻を顕彰する会

顕彰碑建立 2013年7月2日

 

顕彰碑

 

ききいれば かたりくるこゑ しじまより

 

留学生の墓全景

 

留学生の墓は、SERBIAN ORITHODOX CEMETERYの中にある。

 

山﨑小三郎の墓

 

「長州ファイブ」は映画にもなって世間に広く知られるようになったが、井上聞多と伊藤俊輔が帰国した後、補充があったことはあまり知られていない。慶応元年(1865)、藩の海軍に所属していた山崎小三郎(戦艦「葵亥」の艦長)、南貞助、竹田傭次郎の三名がイギリスに追加派遣された。このうち山崎小三郎は栄養失調から肺炎を発症し、慶応二年(1866)、現地で死亡した。二十二歳。「長州ファイブ」は帰国して、各分野で活躍し歴史に名を残したが、彼らの華々しい活躍の裏には、遠く離れた異国の地で無念の死を迎えた山崎のような存在があったことも忘れてはならない。

慶応二年(1866)に没した山崎小三郎が、恐らく当地に葬られた最初の日本人と思われる。

 

有福次郎の墓

 

戊辰戦争で各地を転戦して戦功のあった有福次郎(徳山藩士)は、戦後イギリスへの留学生に選ばれ、ロンドンに渡ったものの、現地で病を得て没。二十二歳。【39区】

 

福岡守人の墓

 

福岡守人は土佐藩の出身。明治六年(1873)三月、没。二十一歳。【39区】

 

袋久平の墓

 

袋久平(ふくろ くへい)は佐賀県多久出身。佐賀藩校致遠館にて学んだ後、明治二年(1869)ベルリンに留学したが、肺病を患い帰国の途中、明治六年(1873)十一月、ロンドンで死亡した。二十四歳。【39区】

 

ALEXANDER WIILIAM WILLIANSON

F.R.S.

BORN MAY 1ST 1824

DIED MAY 6TH 1904

AND HIS WIFE

EMMA CATHERINE WILLIANSON

BORN JUNE 18TH 1831

DIED SEPTEMBER 27TH 1923

 

アレキサンダー・ウィリアムソン(Alexander William Williamson 1824~1904)は「長州ファイブ」らが留学したロンドン・ユニバーシティ・カレッジ(UCL)の化学教授であり。イギリス協会の会長も務める人であった。ウィリアムソン教授は、伊藤俊輔、野村弥吉(のちの井上勝)、遠藤謹助の三名を自宅に預かり、科学や数学を個人的に教授したのみならず、夫人とともに英語を教えた。

ウィリアムソン教授は、プロシアやフランスで化学を学び、1849年(二十五歳のとき)にUCLに迎えられ、1855年に同校の教授に就任した。「ウィリアムソン合成」の発見者としても知られる。英国王立学会会員になり、1863年には英国王立化学協会の会長に就任するなど、当時の英化学界における重鎮として知られた。その一方で東洋の島国からやってきた英語も不自由な若者たちを献身的にサポートした。ウィリアムソン教授の支援なしに長州ファイブのロンドンにおける留学は成り立たなかったであろう。【31区】

 

突然目の前を小鹿が横切った。小鹿にしてみれば、突然人が現れたのでびっくりしたのかもしれないが、びっくりしたのはこっちの方である。イギリスの墓地はどこも緑が多く、鹿だけでなくウサギ、リスなどが普通に棲息している。

 

松井菊治郎の墓

 

十八人から成る日本人曲芸師(帝国日本芸人一座)はパリ万博で好評を博し、そのままヨーロッパにとどまり各地を巡演している。このうちコマ回し師の松井菊治郎は、慶応四年(1868)、ロンドンで病を得て死亡している。三十三歳であった。宮永孝氏によって彼の墓がブルックウッド墓地にあることが確認された。表面に辛うじて松井菊治郎という文字が読み取れるが、ほかは摩耗が進んでおり解読できない。【107区】

 

杉浦譲、渋沢栄一共著「航西日記」(講談社学術文庫)には慶応三年(1867)七月二十九日、本邦の足芸人浜碇定吉の公演を見物したことが記載されている。さらに現地の新聞に日本の曲芸団のパフォーマンスが紹介された記事を転載している。

ここに松井菊治郎(「航西日記」では菊次郎)のコマ回し芸についても触れられている。以下、引用。

――― 独楽まわしの松井菊次郎が、思わず笑いをさそうような芸をしめした。この者はなかなか上手で、小さな独楽に縄をまきつけ、その身を転ずるはずみに独楽を空中になげうち、また手に戻し、腕より肩につたわし、脇腹から足に及び、またふたたびもとの道を戻るなど、みな自分の体をよじらして独楽を伝わらせることができる。また、その独楽を竿の先でまわし、刀の刃渡りをさせるなど、最後には独楽は激して止まらず、日本人がみな楽屋にはいったあとでも、独楽だけはひとりで舞台上でまわっていた。

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