史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

小平

2011年12月11日 | 東京都
(津田塾大学)


津田塾大学

かねてより津田塾大学構内にある津田梅子の墓を詣でたいと思っていたが、オッサンが女子大に立ち入るのは容易ではない。何も悪いことをしているわけではないのに、そこにいるだけで犯罪者扱いである。この日、学園祭を狙って津田塾大学を訪問すると、気が抜けるほどあっさりと進入することができた。
 学園祭といっても、随分静かで地味なものであった。津田塾大学の構内は、これが大学かと訝しくおもえるほど、こじんまりとしたものであった。
津田梅子の墓所は直ぐに見つかった。津田梅子は生涯独身を貫いた。そのため、「梅子の墓に詣でると結婚が遅れる」という俗説が生まれた。どうせ根も葉もない噂に過ぎないが、娘を連れていくのは憚られた。


UME TSUDA
DECEMBER.31.1864 AUGUST.16.1929

 津田梅子は、元治元年(1864)の生まれである。父は佐倉出身の農学者津田仙である。明治四年(1871)わずか六歳のとき留学生に選ばれて、岩倉使節団とともに渡米した。梅子のほかに、山川捨松(のちの大山巌夫人)、永井繁子(海軍大将瓜生外吉夫人)、吉益亮子、上田悌子が選ばれたが、彼女らはいずれも幕臣や佐幕藩の出身であった。このうち吉益亮子と上田悌子の二人は、体調を崩して一年足らずで帰国した。津田梅子は十一年の留学生活を終え、明治十五年(1882)、帰国した。すっかり日本語を忘れてしまい、覚えていた単語は「猫」だけだったという。華族女子学校で英語教師を務めたあと、明治二十二年(1889)に再び渡米留学。三年後に帰国して、再び教職に就くが、明治三十三年(1900)宿願であった女子英学塾(現在の津田塾大学)を東京麹町に開き、その塾長となった。昭和四年(1929)、六十四歳で死去した。一旦、青山霊園の津田家墓所に葬られたが、昭和七年(1932)、遺言に従って、小平の津田塾大学の一角に改葬されることになった。

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