(長安寺)
長安寺には八王子千人同心の伊藤猶白の墓がある。墓標によれば、猶白は天保二年(1831)十一月一日没。法名は「大光院頤神猶白居士」。漢方医であったが、蘭学を学び、小谷田子寅とともに八王子における蘭学の先駆者となった。
長安寺
伊藤猶白墓
(本立寺)
本立寺
厳王院殿鳶魚玄龍開士 三田村鳶魚墓
江戸文化研究家として知られる三田村鳶魚(えんぎょ)は、明治三年(1870)、八王子市大横町の縞買い商人の家に生まれた。東京に出て中江兆民の塾に学び、明治二十年代には自由民権運動にも参加した。その後、地方紙記者を務めながら、江戸文学、風俗の研究を行い、著書を残した。昭和二十七年(1952)、山梨県下部温泉で亡くなった。鳶魚が亡くなったホテルには、弟子である海音寺潮五郎による三田村鳶魚終焉の地碑が建っているらしい。
原了潜入道平胤敦墓 (原胤敦墓)
原胤敦は通称半左衛門。寛延元年(1748)、八王子同心千人頭の家に生まれた。寛政十二年(1800)には千人同心の子弟百名を率いて蝦夷に渡り、その開拓に従事した。文化十一年(1814)、幕府から地誌調査の命を受けて、組頭植田孟縉とともに約十三年をかけて武蔵の国の多摩、秩父を調査し、この成果を「新編武蔵国風土記稿」にまとめた。文政十年(1847)、八十歳にて病没。墓前には、勇払(苫小牧市)から贈られた顕彰の石燈籠が建てられている。
(法蓮寺)

法蓮寺
法蓮寺は、本立寺に隣り合っている。本堂の傍らに八王子同心千人隊什隊長並木以寧の墓がある。
源以寧墓(並木以寧墓)
並木以寧の墓を撮影していると、お寺の方が出て来られて、一葉のコピーをくれた。並木以寧の事績や墓碑などが詳述されている。
並木以寧(虎見良蔵)は、医業の傍ら、私財を投じて元八王子に養老畑を開き、その利益を庶民の救済費に当てた。五百余人の弟子に書道を教え、医術をもって施療の努めた慈善家である。天保十五年、七十五歳にて死去。
墓は臥牛の上に墓碑を載せた高さ二メートルの堂々たるもので、右側面には以寧の辞世の詩、左側面には法名が刻まれている。
(善龍寺)
善能寺に隣接する善龍寺本堂前には増田蔵六翁之小伝碑が建てられている。
善龍寺
増田蔵六翁之小伝碑
増田蔵六は、八王子千人同心の家に生まれた。近藤内蔵助長裕の始めた天然理心流を初代および二代目近藤三助方昌に学んだ。指南免許を得て千人町の屋敷に道場を開いて、千人同心や付近の農民など多くの門弟を指導した。門人数千有余を数えたといわれる。
(極楽寺)
極楽寺
適斎先生之碑
先日、北海道の史跡を旅し、東京から遠く離れた場所で八王子千人同心の残した足跡に出会い、海外で働く現代のジャパニーズ・サラリーマンにも通ずる彼らの情熱に感銘を受けた。改めて八王子に点在する八王子仙人同心の史跡を訪ねてみることとした。極楽寺には、塩野適斎の顕彰碑と墓がある。
勇荘院斌譽得道適斎居士 (塩野適斎墓)
塩野適斎は、やはり八王子同心の出身。幕命により享和年間(1801~04)、蝦夷地の経営に従った。帰国後、同じ八王子千人同心の原胤敦や植田孟縉とともに「新編武蔵風土記稿」の編纂に従事した。ほかに「桑都日記」「築井県行記」「日光客中漫筆」「文敲」など、多くの著書がある。弘化四年(1847)、七十三歳で没した。
(宗徳寺)
宗徳寺
宗徳寺には八王子千人同心組頭の植田孟縉(1757~1843)の墓がある。
植田猛縉は原胤敦、塩野適斎とともに「新編武蔵風土記稿」の編纂に関わったほか、「武蔵名勝図絵」「浅草寺旧蹟考」といった著作を残した。江戸の文人墨客とも交流があり、郷土にあっては多くの門人を育てた。享年八十七。
雲夢斎植田孟縉之墓
(法蓮寺)
法蓮寺
法蓮寺には八王子千人同心橘重次郎、原子剛の顕彰碑がある。
橘正重翁寿蔵之碑
橘重次郎は、文久二年(1862)の家茂上洛に従い、慶応二年(1866)の第二次長州征伐にも従軍した。戊辰戦争では千人隊が恭順すると、江戸に走り、江戸に終結した交戦派の千人隊に身を投じ、千人隊組頭河野仲次郎の世話役となった。上野戦争当時、祥雲寺で奮戦し、上野に合流しようとしたが果たせず、包囲網をかいくぐって何とか川口村に帰還した。
原君子剛墓碑銘
原子剛武照も八王子千人同心組頭。嘉永三年(1850)、江戸城において槍や剣術を披露して、銀若干と白銀五枚を賜った。嘉永六年(1853)、組頭を拝命するが、のち病により退き俳句をたしなんだ。慶応三年(1867)三月、職務に復帰して壮兵隊を募り、八王子近辺を警備した。慶応四年(1868)五月には増上寺を警備した。直後の上野戦争において多賀上総介邸で奮戦して戦死した。四十八歳。墓碑銘は勝海舟の題額による。
(大義寺)
大義寺は、八王子駅に近い繁華街の中に位置する(八王子市元横山町2‐8‐4)。本堂前には、八王子千人隊長新藤左右助の弔魂碑が建てられている。
大義寺
弔魂碑
新藤左右助勝政は、文久三年(1863)、将軍家茂の上洛に従い二条城に至り、同年五月には大阪で銃隊の訓練を行った。戊辰戦争では旧幕軍に参加し、品川から美賀保丸に乗船したが、慶応四年(1868)八月二十六日、銚子沖で暴風雨に遭い座礁。新藤左右助は二十七歳で溺死した。大義寺の弔魂碑は明治十一年(1878)に建てられたもの。題額は勝海舟による。
(真覚寺)

真覚寺
真覚寺に二宮心斎の碑がある。扁額は勝海舟。
二宮心斎翁碑
二宮心斎は、八王子千人同心組頭。嘉永七年(1854)に千人同心の名簿「千人同心姓名在所図表」を編集したことで知られる。明治維新後、千人町の町名が廃止され、横山町と統合されることになった際、町名の存続を願い出た。
(心源院)

心源院
心源院には、八王子千人同心の小谷田子寅(しいん)の碑がある。
小谷田子寅の碑
小谷田子寅は宝暦十一年(1761)、川口村に生まれた。幼くして父を失ったが、勉学に励み、特に天文学、洋学、医学に通じた。薬を乞うもの診察を求める者があとを絶たなかったという。子寅の善徳を称えるために、塩野適斎の撰文、植田猛縉の揮毫および刻字により建立された石碑は、表面が風化してほとんど読み取れない。
天然理心流四世 山本満次郎最武墓
山本満次郎は天然理心流の剣術を修め、道場を開いて多くの門下生を教えた。新選組で活躍した中島登も山本道場で修業した一人である。
長安寺には八王子千人同心の伊藤猶白の墓がある。墓標によれば、猶白は天保二年(1831)十一月一日没。法名は「大光院頤神猶白居士」。漢方医であったが、蘭学を学び、小谷田子寅とともに八王子における蘭学の先駆者となった。

長安寺

伊藤猶白墓
(本立寺)

本立寺

厳王院殿鳶魚玄龍開士 三田村鳶魚墓
江戸文化研究家として知られる三田村鳶魚(えんぎょ)は、明治三年(1870)、八王子市大横町の縞買い商人の家に生まれた。東京に出て中江兆民の塾に学び、明治二十年代には自由民権運動にも参加した。その後、地方紙記者を務めながら、江戸文学、風俗の研究を行い、著書を残した。昭和二十七年(1952)、山梨県下部温泉で亡くなった。鳶魚が亡くなったホテルには、弟子である海音寺潮五郎による三田村鳶魚終焉の地碑が建っているらしい。

原了潜入道平胤敦墓 (原胤敦墓)
原胤敦は通称半左衛門。寛延元年(1748)、八王子同心千人頭の家に生まれた。寛政十二年(1800)には千人同心の子弟百名を率いて蝦夷に渡り、その開拓に従事した。文化十一年(1814)、幕府から地誌調査の命を受けて、組頭植田孟縉とともに約十三年をかけて武蔵の国の多摩、秩父を調査し、この成果を「新編武蔵国風土記稿」にまとめた。文政十年(1847)、八十歳にて病没。墓前には、勇払(苫小牧市)から贈られた顕彰の石燈籠が建てられている。
(法蓮寺)

法蓮寺
法蓮寺は、本立寺に隣り合っている。本堂の傍らに八王子同心千人隊什隊長並木以寧の墓がある。

源以寧墓(並木以寧墓)
並木以寧の墓を撮影していると、お寺の方が出て来られて、一葉のコピーをくれた。並木以寧の事績や墓碑などが詳述されている。
並木以寧(虎見良蔵)は、医業の傍ら、私財を投じて元八王子に養老畑を開き、その利益を庶民の救済費に当てた。五百余人の弟子に書道を教え、医術をもって施療の努めた慈善家である。天保十五年、七十五歳にて死去。
墓は臥牛の上に墓碑を載せた高さ二メートルの堂々たるもので、右側面には以寧の辞世の詩、左側面には法名が刻まれている。
(善龍寺)
善能寺に隣接する善龍寺本堂前には増田蔵六翁之小伝碑が建てられている。

善龍寺

増田蔵六翁之小伝碑
増田蔵六は、八王子千人同心の家に生まれた。近藤内蔵助長裕の始めた天然理心流を初代および二代目近藤三助方昌に学んだ。指南免許を得て千人町の屋敷に道場を開いて、千人同心や付近の農民など多くの門弟を指導した。門人数千有余を数えたといわれる。
(極楽寺)

極楽寺

適斎先生之碑
先日、北海道の史跡を旅し、東京から遠く離れた場所で八王子千人同心の残した足跡に出会い、海外で働く現代のジャパニーズ・サラリーマンにも通ずる彼らの情熱に感銘を受けた。改めて八王子に点在する八王子仙人同心の史跡を訪ねてみることとした。極楽寺には、塩野適斎の顕彰碑と墓がある。

勇荘院斌譽得道適斎居士 (塩野適斎墓)
塩野適斎は、やはり八王子同心の出身。幕命により享和年間(1801~04)、蝦夷地の経営に従った。帰国後、同じ八王子千人同心の原胤敦や植田孟縉とともに「新編武蔵風土記稿」の編纂に従事した。ほかに「桑都日記」「築井県行記」「日光客中漫筆」「文敲」など、多くの著書がある。弘化四年(1847)、七十三歳で没した。
(宗徳寺)

宗徳寺
宗徳寺には八王子千人同心組頭の植田孟縉(1757~1843)の墓がある。
植田猛縉は原胤敦、塩野適斎とともに「新編武蔵風土記稿」の編纂に関わったほか、「武蔵名勝図絵」「浅草寺旧蹟考」といった著作を残した。江戸の文人墨客とも交流があり、郷土にあっては多くの門人を育てた。享年八十七。

雲夢斎植田孟縉之墓
(法蓮寺)

法蓮寺
法蓮寺には八王子千人同心橘重次郎、原子剛の顕彰碑がある。

橘正重翁寿蔵之碑
橘重次郎は、文久二年(1862)の家茂上洛に従い、慶応二年(1866)の第二次長州征伐にも従軍した。戊辰戦争では千人隊が恭順すると、江戸に走り、江戸に終結した交戦派の千人隊に身を投じ、千人隊組頭河野仲次郎の世話役となった。上野戦争当時、祥雲寺で奮戦し、上野に合流しようとしたが果たせず、包囲網をかいくぐって何とか川口村に帰還した。

原君子剛墓碑銘
原子剛武照も八王子千人同心組頭。嘉永三年(1850)、江戸城において槍や剣術を披露して、銀若干と白銀五枚を賜った。嘉永六年(1853)、組頭を拝命するが、のち病により退き俳句をたしなんだ。慶応三年(1867)三月、職務に復帰して壮兵隊を募り、八王子近辺を警備した。慶応四年(1868)五月には増上寺を警備した。直後の上野戦争において多賀上総介邸で奮戦して戦死した。四十八歳。墓碑銘は勝海舟の題額による。
(大義寺)
大義寺は、八王子駅に近い繁華街の中に位置する(八王子市元横山町2‐8‐4)。本堂前には、八王子千人隊長新藤左右助の弔魂碑が建てられている。

大義寺

弔魂碑
新藤左右助勝政は、文久三年(1863)、将軍家茂の上洛に従い二条城に至り、同年五月には大阪で銃隊の訓練を行った。戊辰戦争では旧幕軍に参加し、品川から美賀保丸に乗船したが、慶応四年(1868)八月二十六日、銚子沖で暴風雨に遭い座礁。新藤左右助は二十七歳で溺死した。大義寺の弔魂碑は明治十一年(1878)に建てられたもの。題額は勝海舟による。
(真覚寺)

真覚寺
真覚寺に二宮心斎の碑がある。扁額は勝海舟。

二宮心斎翁碑
二宮心斎は、八王子千人同心組頭。嘉永七年(1854)に千人同心の名簿「千人同心姓名在所図表」を編集したことで知られる。明治維新後、千人町の町名が廃止され、横山町と統合されることになった際、町名の存続を願い出た。
(心源院)

心源院
心源院には、八王子千人同心の小谷田子寅(しいん)の碑がある。

小谷田子寅の碑
小谷田子寅は宝暦十一年(1761)、川口村に生まれた。幼くして父を失ったが、勉学に励み、特に天文学、洋学、医学に通じた。薬を乞うもの診察を求める者があとを絶たなかったという。子寅の善徳を称えるために、塩野適斎の撰文、植田猛縉の揮毫および刻字により建立された石碑は、表面が風化してほとんど読み取れない。

天然理心流四世 山本満次郎最武墓
山本満次郎は天然理心流の剣術を修め、道場を開いて多くの門下生を教えた。新選組で活躍した中島登も山本道場で修業した一人である。
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