世間における坂本龍馬の人気の高さとは裏腹に、アカデミーの世界では龍馬の評価は高くない。最近では高大連携歴史教育研究会が、龍馬の歴史上の役割や意味は大きくないから、歴史教科書から削除すべきであると提言して物議を醸したのは記憶に新しい。
たとえば、龍馬が船中八策を発案し、大政奉還を実現させたというストーリーについても、船中八策そのものが明治以降、旧土佐藩勢力によって作られたフィクションだとして今ではその存在を否定されている(知野文哉「坂本龍馬の誕生」)。
龍馬は、薩摩藩名義で武器(小銃と軍艦)を購入して長州藩に売り渡すことを考え出し、それを成功させた。その御礼として薩摩藩が欲していた兵糧米を送るように長州藩に要請し、経済面から薩長両藩の結びつきを強めたといわれる。
本書でも、長州藩が薩摩藩名義で武器を購入した経緯が詳述されているが、そこに坂本龍馬はほとんど登場しない。本書によれば、薩摩藩名義で武器を購入することを考案したのは、木戸孝允(桂小五郎)、井上馨(聞多)伊藤博文(俊輔)等である。木戸から龍馬と中岡慎太郎に薩摩藩名義で軍艦を購入するアイデアを薩摩藩に伝えるよう依頼があり、それを受けて二人は京都薩摩藩邸で西郷隆盛に会っているが、その場で西郷の同意を得るには至らなかったようである。軍艦購入に龍馬が関与したのはその程度である。
薩長同盟については、会談がなかなか始まらず、遅れて登場した龍馬がまず木戸孝允と会って会談するべきだと説得し、続いて薩摩の西郷を説いて、ようやく会談が始まって同盟締結に至った。龍馬なくして薩長同盟はなかったというのが通説となっている。「竜馬がゆく」を初めとする小説、テレビドラマも漫画でも概ねそのように語られてきた。しかし、歴史の専門家にいわせれば、史料的根拠が乏しいとしてこれも否定されている。
筆者は、「薩長同盟と龍馬の関わり」について、専門家の評価に「納得できない」とする。薩長同盟締結における龍馬の役割と意味を再評価しようというのが本書の狙いである。
さて、薩長同盟は薩長軍事攻守同盟であるという解釈が長く受け入れられてきたが、佛教大学名誉教授の青山忠正氏が薩長同盟六箇条の中でもっとも重点が置かれていたのは長州藩の朝敵の汚名、官位の停止処分に対する雪冤だと主張し、一石を投じることになった。その後も薩長同盟を軍事同盟だとする反論もあり、論争は続いたが、筆者は「薩長同盟を討幕を念頭に置いた軍事同盟・攻守同盟とする説は否定された」と結論付けている。交渉の経緯を見れば、少なくとも長州藩の関心は雪冤にあることは間違いなく、しかもこの時点で薩摩藩が武力討幕に舵を切っていたとは考えられない。私も薩長同盟=軍事同盟と考えるのは無理があるように思う。
青山先生によれば、維新後に書かれた木戸の回想録において「もはや帰国しようとしたところに龍馬が登場し、西郷を説得して、にわかに「六条を以て将来を約す」に至った」とされているが、木戸は意図的に毛利家当主父子の官位復旧問題や処分の受け入れ問題について言及を避けていると指摘する。まるで龍馬が救世主のように現れ、それで同盟が成ったという伝説が生まれた発端である。木戸にしてみれば、龍馬の登場によって事態が打破されたように書くことで、公に書くのも恥である毛利家の官位停止、朝敵問題に触れずに済ませたというのが実態だというのである(青山忠正「明治維新を読み直す」)。
青山説をさらに一歩進めたのが本書である。本書によれば、同盟締結に至るまで薩長間では二回の会談が開かれた。一回目は慶應二年(1866)一月十八日。二回目が龍馬登場後に開かれた二十二日に終わった会談である。木戸は一月八日に入京したが、最初の会談までの約十日、その時、二条城で議論されていた長州藩への処分案が出るのを待っていた。薩摩藩ではその処分案を木戸に受け入れさせて、幕府による長州征討を阻止したいという思惑があった。
しかし、処分の結論が出ないまま時間が過ぎてしまい、一方で小松、西郷の帰藩が近づいてきたため、仕方なく最初の会談が開かれることになった。十八日の会談の内容を正確に伝える史料は残されていないが、筆者は岩国藩用人長新兵衛と密用掛大草終吉による文書を引用して、小松、西郷が処分案を受け入れるように木戸を説得したが、木戸は同意しなかったとしている。処分案受諾を巡る対立は解消されなかったが、長州藩雪冤に向けて薩摩藩が周旋、尽力するという姿勢が示されたため、辛うじて会談が決裂することはなかった。筆者によれば、「一月十八日の会談の内容は、従来の研究では解明されなかった」という。筆者の推論が混じっているとはいえ、一月十八日の会談の内容を明らかにした功績は大である。
しかし、ここまで龍馬は登場しない。十八日の会談で処分案を巡る対立は解消しないまま、二十日には木戸の送別会まで予定され、このまま薩長会談は終わってしまうかのうように思われた。筆者によると、これを再開させたのは、「消去法的に考察して、龍馬しかいない」とする。会談再開に至る経緯、龍馬がどうやって薩摩藩の小松、西郷を説得したのか、といったところは筆者の推測であるが、不自然さはない。もちろん専門家が指摘するように、史料的な根拠があるわけではなく、そういう意味では決定力には欠けるが、逆に言うと否定する材料があるわけでもない。新史料が発見されて、龍馬以外の第三者が会談再開に向けて動いたという事実が判明しない限り、今のところ否定も肯定もできる有効打はないのではないだろうか。
それにしても薩長両藩の重要な話し合いの場に一介の土佐脱藩浪士に過ぎない龍馬が立ち合うことができたのは何故だったのだろうか。当時、会合を開く場合、独立した立会人が同席するという配慮が普通になされる時代になっていたという。そういった時代の流れもあったであろうが、それまで薩長間を奔走して、両藩から厚い信頼を得ていたというのが最大の理由のように思われる。
筆者は、「一次史料に依拠して合理的に思考(推測)する限り、坂本龍馬の存在亡くして同盟締結はあり得ず、薩長同盟締結における彼の貢献は、極めて大きいものであったと言わざるを得ない。」と自信をもって本書を結んでいる。果たしてこの一冊が龍馬復権に有効な一撃となるだろうか。仮に薩長同盟成立に大きな役割を果たしたことが証明されたとしても、それだけでは復権には至らないような気がします。
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