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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

パリ Ⅲ

2023年09月09日 | 海外

(ホテル・ルーヴル)

 

ホテル・ルーヴル

 

 竹内保徳を正使とする文久遣欧使節団が宿泊したのが、ルーヴル美術館に近接するホテル・ルーヴル(現・Hôtel Du Louvre - The Unbound Collection by Hyatt)である。

 せっかくだから一泊だけでも、と一瞬考えたのだが、値段を調べてあっさり諦めた。

 

(ヴァンドーム広場)

 

オーステルリッツ記念柱

 

 ヴァンドーム広場は、パリでも最も豪華といわれる広場である。中央には青銅製のオーステルリッツ記念柱が立つ。その頂上にはローマの方向をにらむナポレオン像が乗っている。

 またヴァンドーム広場に面して、ショパンが最晩年を過ごした家がある。

 

ナポレオン像

 

ショパンが最晩年を過ごした家

 

ショパンの家の内部

 

 ショパンはポーランドの作曲家であるが、祖国がロシアに侵攻され、戦況が厳しくなると、ポーランドを脱してフランス・パリへの移住を決した。ショパンはパリで何度か引っ越しをしたが、遂に母国に戻ることはなく、この地で没した。

 

(マドレーヌ寺院)

 やはり文久の遣欧使節団が訪れた場所の一つ。まるでパルテノン宮殿のような建物であるが、実態はカトリック教会である。

 

マドレーヌ寺院

 

マドレーヌ寺院外壁上部の彫像

 

天井画

 

内壁の装飾

 

寺院内部

 

 久米邦武はカトリックとプロテスタントの違いを以下のとおり説明している。

 

――― 巴黎府中ニ壮麗ノ寺多シ、「カドレイキ」(カトリック)宗ノ僧ハ、信徒ヨリ金ヲ集メ、寺刹ノ建築ニ蘼スル、其費巨万、一時此宗ノ繁盛ヲ極メタルヤ、民膏ヲ侵漁シ、僧怨ヲ買イタル、其積成ハ存シテ、寺観ノ壮麗ニアリ、故ニ「カドレイキ」教国ニ入レハ、高塔天ヲ刺シ、巨刹市街ニ聳エ、又支店ニハ馬利ノ像、磔刑十字ノ図ヲ、到ル処ニ陳列シテ、殆ト観ルヲ厭フニ至ル、「プロテスタント」宗ハ之ニ反シ、寺ヲ飾ラス、画像、偶像ハ、十戒ヲ犯スモノナリトテ、一切ニ用イス、故ニ両教ノ異同は、一タヒ其府ニ入レハ、此等概貌ニテ判然タリ、

 

 意外なことにカトリックには批判的でプロテスタントに好意的なのである。

正直に告白すると ――― 福岡市高宮カトリック幼稚園を卒園しているにも関わらず ――― 私にはカトリックとプロテスタントの区別がついていない。

カトリックの方が教会の装飾がきらびやかで、プロテスタントは質実なイメージがあるが、それもあながち間違いではないだろう。その印象がカトリック国であるフランス、イタリア、オーストリアとプロテスタントの国であるイギリス、ドイツのイメージに直結しているように思う。

フランスは華やかで開放的である。その空気の上に「芸術の都」ができあがった。

西欧化を目指す明治日本でも、多くの芸術家、特に画家や彫刻家がフランスを目指した。黒田清輝、浅井忠、和田英作、藤田嗣治らである。フランスは芸術の中心地であり発信地であった。それは現在まで続いている。

フランスの「芸術の都」としての基盤を作ったのが、十六世紀初頭にこの国を治めたフランソワ一世である。彼はルネサンス期のイタリア(ローマ帝国)との戦争に明け暮れたが、イタリア・ルネサンス芸術に触れ感銘を受けた。ローマからレオナルド・ダ・ヴィンチを招聘し、生涯を通じて彼を支援し続けた。今日、ルーヴル美術館にダ・ヴィンチの作品が多く残されているのは、フランソワ一世の遺産である。彼は芸術の力で国を治めようと努めたが、一方で彼の治世は次第にカトリックと新興のプロテスタント(ユグノー)との宗教間の対立が激化した時代でもあった。

1572年、シャルル九世の時代、サン・バルテルミの虐殺と呼ばれる陰惨な事件が起こる。カトリックとプロテスタントの融和を図るため、ユグノーの指導者であるナバラ王アンリ(のちのアンリ四世)と国王シャルル九世の妹との結婚式が開かれたが、このときパリに集まったユグノーが襲撃された。この虐殺は瞬く間にパリ市内、さらにフランス全土に広がり、一万人とも三万人ともいわれるユグノーが暴殺された。

私は宗教というものに疎くて、宗教観の違いで相手を攻撃し、一方が死に絶えるまで殺し合うという感覚がどうにも理解できない。他人がどういう宗教を信じようとも自分の生活には何の支障もないようなものである。日本でも古くは為政者が特定の宗教を禁じ、攻撃したという例はあるが、異なる宗教徒との間での戦争というのはあまり聞かない。だが国外に目を向ければ宗教の違いで多くの血が流されている。現在、カトリックとプロテスタントの対立は解消しているが、一方でキリスト教国とイスラム教国の反目はテロや戦争にまで発展している。確かにイスラム原理主義者は人権よりも教義を優先する。人権を抑圧された人たちを黙って見過ごして良いとは思わないが、それにしても、いったいいつになったらこの愚劣な殺し合いは終わるのだろうか。

1598年、アンリ四世がナント勅令を発した。この勅令によりカトリックがフランスの国家宗教であることが宣言され、同時に信教の自由も認め、フランスにおける宗教対立の終息を図るものであった。アンリ四世は、宗教戦争で疲弊した国力の回復に努めた。彼が国の再興の礎としたのがやはり芸術であった。現在も残る長さ四百メートルに及ぶルーヴル宮の大ギャラリーはアンリ四世の手によるものである。アンリ四世はこのギャラリーに芸術家や工芸家を住まわせ、自由に創作活動を行わせた。パリにおける芸術の勃興期といえる。

 

アンリ四世は、1610年熱狂的なカトリック教徒によって刺殺された。悲劇的な最期を遂げたが、今でもフランス国民に人気の高い国王の一人である。

 

アンリ四世騎馬像

(ポンヌフ橋)

 

(チュイルリー庭園)

 チュイルリー庭園(Jardin des Tuileries)は、ルーヴル美術館の西側に隣接し、十七世紀に開かれた広大な庭園である。園内にはマイヨールのブロンズ像など十八体もの彫像が点在している。「米欧回覧実記」では「チュロリー」と表記され、精密な銅版画を添えて紹介されている。ただし、チュイルリー宮は、パリ・コミューンで炎上・焼失しており、当時は再建途中だったかもしれない。

 

チュイルリー宮殿

 

チュイルリー庭園

 

 「米欧回覧実記」では三百を越える風景図が挿入されている。銅版図は「文明諸国ノ一班ヲ国人ニ観覧セシメシ」という意図から、使節団が回覧に際して現地で購入した写生画を模したり、なかには銅版画をそのまま復刻して掲載したものもある。当時、既に写真は存在していたものの、手軽にスナップ写真というわけにはいかない時代である。写真に代わるものとして当時の風景を再現した銅版画は非常に貴重なものである。

 

(コンコルド広場)

 

コンコルド・オベリスク

 

 ――― 宮門ノ前ニ、又一場ノ広区ヲ開ケルヲ、「コンコルド」ノ苑ト云フ、巨大ナル石磐ヲオキ、水ヲ噴跳シ、石雕ノ大像磐ヲ環(めぐら)シテ立ツ、中央ニハ埃及(エジプト)国ヨリ遷シタル「オビリスキ」塔ヲ建テリ、塔ノ高サ二十六メートル、紫紋ノ一本石(所謂花剛石(みかげいし)ナリ)ニテ造リタル古代ノ塔ナリ、此塔ハ埃及国ノ古物ニテ、元地底ニ埋没セルヲ、一千七百九十九年、拿破侖第一世埃及ヲ幷セシトキ、器械ヲ以テ掘出シ、此地ニ持来リ建タリ、

 

 手元のガイドブックによれば、このオベリスクは「エジプトから贈られた」となっているが、どちらが正しいのだろうか。パリに現存する最古の建造物である。製作されたのは紀元前1300年頃とされている。

 明るく開放的な場所であるコンコルド広場は、歴史をひもとくとルイ十六世やマリー・アントワネット、ロベスピエールらが処刑された血なまぐさい場所でもある。

 

(ペルゴレーズの館)

 

ペルゴレーズの館

 

ペルゴレーズの館にて

 

 徳川昭武一行が宿泊したのは、先に紹介したグランドホテルであったが、滞在期間が長くなるにつれ滞在費が嵩み、宿泊先を変えることを余儀なくされた。徳川昭武が移り住んだ建物が、ペルゴレーズ通りに現存している。

 

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