(河合家墓所)
今年(平成30年)のゴールデンウィークは、久しぶりに京都の実家を拠点に、関西の史跡を訪問することにした。初日は兵庫県の姫路、高砂それに神戸市内を回り、翌日は奈良県の橿原から南下して十津川村に泊り、三日目は田辺に抜けてそこから和歌山県の沿岸部を北上した。最終日は、帰りの新幹線が混雑することが予想されたので、京都市内の史跡を少し見ただけで、両親と昼食を済ました後、夕食前に八王子に戻った。レンタカーの走行距離は八百キロメートル近くに至り、歩数は初日だけで三万歩を越えた。とても充実した四日間であった。
河合家墓所への登り坂
最初の訪問地は、姫路市兼田の河合家墓所である。前回の姫路訪問の際、仁寿山まで往復して河合家墓所に行き着くことができなかった。その再挑戦というわけである。
当初は観光案内所で自転車を借りて、兼田まで往復するつもりであったが、天気予報によればどうもこの日は雨が降る、それも場所によっては強い雨になる、と盛んに報じていたので、自転車は諦めて路線バスを使うことにした(結果的に雨には遭わなかったが)。姫路駅南口から最寄りの東兼田バス停までほんの十分程度のことである。乗ってしまえば直ぐだが、本数が一時間に二~三本と限られているので、うまく時間を合わせなくてはならない。バス停から急な坂を登ると静かな空間に河合家の墓所がある。
河合家墓所
河合家は代々姫路藩酒井家の家老を務める家である。それ以前の酒井家は前橋藩を与えられていた。寛延二年(1749)、姫路への転封に成功したが、家老河合定恒は家康から任された要衝の地を捨てるのは不忠であるとこれに反対した。藩主の説得を受け了承した定恒は、先行して姫路に入ったが、折からの豪雨により川が決壊し、定恒は独断で米蔵から備蓄米を領民に与え、この責任をとって自害した。
寛政から天保に至る長期にわたって家老を務め、姫路藩の財政再建に大きな功績を残した河合寸翁は、その孫である。河井家墓所に定恒、寸翁、屛山ら一族の墓がある。
姫路故寸翁河合君之墓(河合寸翁の墓)
河合屛山府君之墓(河合屛山の墓)
河合屛山は、享和三年(1803)の生まれ。父は藩の江戸詰め藩士松下高知。姫路藩家老河合準之助(寸翁)の養子となった。幼にして藩校仁寿山校に学び、天保六年(1835)、三十一歳の時、家老職を継いだ。禄五千石は多すぎるとして二千石を返還している。天保十二年(1841)、江戸邸に祗役中、幕旨に逆らって帰国謹慎を命じられ、爾来幽居六年に及んだ。嘉永六年(1853)には退隠して屛山と号した。万延・文久年間、国事多端となると、京に出て同族総兵衛らを指揮して国事に励み、姫路藩勤王党の首領として活躍した。文久二年(1862)、藩主酒井忠績の上京するや、執政に挙げられたが、藩主に勤王を主張して忌諱に触れ、元治元年(1864)、江戸藩邸で謹慎を命じられた。個の際、同志の中には刑死する者が多かった。慶應四年(1868)五月、朝命に接して藩政を執り、新藩主酒井忠邦を助けて明治新政府協力の方針をとった。同年十一月、全国にさきがけて版籍奉還を朝廷に建白したが、採用されず。明治二年(1869)、姫路藩大参事に任じられ、引き続き貨幣制度の改革を政府に建言し、また貿易振興を主張した。明治三年(1870)、辞任。明治九年(1876)、年七十四にて没。
(国府寺家本陣跡)
国府寺家本陣跡
姫路駅前から姫路城に向かって延びるメインロードを横切る形で東西に商店街が軒を連ねるが、ちょうどその交差点の南西角にかつて本陣があった。東西に走る道は、かつての西国街道に当たる。本陣は国府寺氏が務めた。国府寺氏は、黒田官兵衛を援けて転戦し、豊臣秀吉の知遇を得て、江戸時代には町家、在所の代表である大年寄となり、藩主が初めて入城する際には必ずその邸宅に立ち寄るのがしきたりとなっていたという名家である。廃藩置県後、藩主とともに東京に移住した。
(姫路神社)
姫路城の北端に近い場所に姫路神社がある。連休中ということもあり、相変わらず姫路城は凄い人出であったが、さすがに姫路神社まで来ると人影はまばらであった。姫路神社は、旧藩主酒井氏を慕う領民が、明治十二年(1879)に市内に創建したものが端緒となり、その後大正十四年(1925)に現在地に移転している。
姫路神社
姫路神社の境内社として寸翁神社がある。その名称の語るとおり、河合寸翁を祀る神社である。社殿の前に河合寸翁の胸像がある。
河合寸翁像
河合屛山頌徳碑
境内に河合屛山、境外の好古園側には寸翁の顕彰碑が建立されている。ともに大正十一年(1922)の建立。撰文は伯爵酒井忠正(阪井家宗家二十一代当主)。
河合寸翁大人頌徳碑
好古園
好古園は、この地にあった藩校好古堂に因んだ庭園である。
今年(平成30年)のゴールデンウィークは、久しぶりに京都の実家を拠点に、関西の史跡を訪問することにした。初日は兵庫県の姫路、高砂それに神戸市内を回り、翌日は奈良県の橿原から南下して十津川村に泊り、三日目は田辺に抜けてそこから和歌山県の沿岸部を北上した。最終日は、帰りの新幹線が混雑することが予想されたので、京都市内の史跡を少し見ただけで、両親と昼食を済ました後、夕食前に八王子に戻った。レンタカーの走行距離は八百キロメートル近くに至り、歩数は初日だけで三万歩を越えた。とても充実した四日間であった。

河合家墓所への登り坂
最初の訪問地は、姫路市兼田の河合家墓所である。前回の姫路訪問の際、仁寿山まで往復して河合家墓所に行き着くことができなかった。その再挑戦というわけである。
当初は観光案内所で自転車を借りて、兼田まで往復するつもりであったが、天気予報によればどうもこの日は雨が降る、それも場所によっては強い雨になる、と盛んに報じていたので、自転車は諦めて路線バスを使うことにした(結果的に雨には遭わなかったが)。姫路駅南口から最寄りの東兼田バス停までほんの十分程度のことである。乗ってしまえば直ぐだが、本数が一時間に二~三本と限られているので、うまく時間を合わせなくてはならない。バス停から急な坂を登ると静かな空間に河合家の墓所がある。

河合家墓所
河合家は代々姫路藩酒井家の家老を務める家である。それ以前の酒井家は前橋藩を与えられていた。寛延二年(1749)、姫路への転封に成功したが、家老河合定恒は家康から任された要衝の地を捨てるのは不忠であるとこれに反対した。藩主の説得を受け了承した定恒は、先行して姫路に入ったが、折からの豪雨により川が決壊し、定恒は独断で米蔵から備蓄米を領民に与え、この責任をとって自害した。
寛政から天保に至る長期にわたって家老を務め、姫路藩の財政再建に大きな功績を残した河合寸翁は、その孫である。河井家墓所に定恒、寸翁、屛山ら一族の墓がある。

姫路故寸翁河合君之墓(河合寸翁の墓)

河合屛山府君之墓(河合屛山の墓)
河合屛山は、享和三年(1803)の生まれ。父は藩の江戸詰め藩士松下高知。姫路藩家老河合準之助(寸翁)の養子となった。幼にして藩校仁寿山校に学び、天保六年(1835)、三十一歳の時、家老職を継いだ。禄五千石は多すぎるとして二千石を返還している。天保十二年(1841)、江戸邸に祗役中、幕旨に逆らって帰国謹慎を命じられ、爾来幽居六年に及んだ。嘉永六年(1853)には退隠して屛山と号した。万延・文久年間、国事多端となると、京に出て同族総兵衛らを指揮して国事に励み、姫路藩勤王党の首領として活躍した。文久二年(1862)、藩主酒井忠績の上京するや、執政に挙げられたが、藩主に勤王を主張して忌諱に触れ、元治元年(1864)、江戸藩邸で謹慎を命じられた。個の際、同志の中には刑死する者が多かった。慶應四年(1868)五月、朝命に接して藩政を執り、新藩主酒井忠邦を助けて明治新政府協力の方針をとった。同年十一月、全国にさきがけて版籍奉還を朝廷に建白したが、採用されず。明治二年(1869)、姫路藩大参事に任じられ、引き続き貨幣制度の改革を政府に建言し、また貿易振興を主張した。明治三年(1870)、辞任。明治九年(1876)、年七十四にて没。
(国府寺家本陣跡)

国府寺家本陣跡
姫路駅前から姫路城に向かって延びるメインロードを横切る形で東西に商店街が軒を連ねるが、ちょうどその交差点の南西角にかつて本陣があった。東西に走る道は、かつての西国街道に当たる。本陣は国府寺氏が務めた。国府寺氏は、黒田官兵衛を援けて転戦し、豊臣秀吉の知遇を得て、江戸時代には町家、在所の代表である大年寄となり、藩主が初めて入城する際には必ずその邸宅に立ち寄るのがしきたりとなっていたという名家である。廃藩置県後、藩主とともに東京に移住した。
(姫路神社)
姫路城の北端に近い場所に姫路神社がある。連休中ということもあり、相変わらず姫路城は凄い人出であったが、さすがに姫路神社まで来ると人影はまばらであった。姫路神社は、旧藩主酒井氏を慕う領民が、明治十二年(1879)に市内に創建したものが端緒となり、その後大正十四年(1925)に現在地に移転している。

姫路神社
姫路神社の境内社として寸翁神社がある。その名称の語るとおり、河合寸翁を祀る神社である。社殿の前に河合寸翁の胸像がある。

河合寸翁像

河合屛山頌徳碑
境内に河合屛山、境外の好古園側には寸翁の顕彰碑が建立されている。ともに大正十一年(1922)の建立。撰文は伯爵酒井忠正(阪井家宗家二十一代当主)。

河合寸翁大人頌徳碑

好古園
好古園は、この地にあった藩校好古堂に因んだ庭園である。
高砂市にあるという河合邸を是非訪ねて見たいと思います。住所もしくは行き方が分かればご教授ください。
何時になるか分かりませんが、加西市の三宅家を訪ねて見たいと思います。それにしても加西市は遠いですが。
近くの坊主町を中心に武家屋敷が残存しています。こちらも見逃せません。また固寧倉(飢饉に備え藩が設置した食糧保存庫)も。折りあらばご探訪下さい。
貴重な情報有り難うございます。参考にさせていただきます。